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≪第七八話≫  その2. No.97 ≪第七八話≫  その3. No.98

≪第七八話≫  その2. No.97

 秋葉・佐藤軍は4月の5日には、白根城を出立し、6日に(あるじ)のいない(あじ)(かた)城に着き、残っていた柿島軍と合流した。ここで総指揮を取り軍師と成った児玉監物は、笹川勢400人が到着するのを待った。3年前の和納の戦いの(てつ)を踏まない様に、俊高の奇襲を避けて、4ヶ国が合流して隙のない策に当る為であった。

新津・秋葉軍1,780人、白根・佐藤軍650人、中之口・笹川軍400人、そして味方・柿島軍の残った180人の内、出兵する兵150人で合計2,980人となり、俊高が予想していた3,000人にほぼ同数となっていた。

 総大将は秋葉時盛が立ち、軍師・児玉監物が4カ国の(いくさ)奉行(ぶぎょう)も兼ねて(いくさ)評定(ひょうじょう)を開いた。誰もが此度の戦が監物の戦略によるものであると知っていたし、また度重なる負け戦で、稲島俊高と云う寵児(ちょうじ)の前に、今、対抗出来得る人物は、児玉監物以外にない事も誰もが認めていた。

 全軍集結した戦評定において、一通りの挨拶を終え、監物はこの戦の意味と戦法を集まった4ヶ国の重臣たちに伝えた。「皆様方も充分承知で有りましょうが、この戦、我らの明暗を分けるものと成り申そう。この4年ほどで、ここ西蒲原一帯は大きく様変わり致した。

 稲島家の台頭により、我が佐藤家は勿論の事、新津の秋葉家、中之口の笹川家、味方(あじかた)の柿島家に脅威を(もたら)した。この戦、勝った者がこの地を治める覇者に成り申そう。云わば、中之口川を挟んだ決戦であると存ずる。

 身共は,30を越える城を攻略致して参った。中には難攻不落の城もござったが、全て傘下に修めて参った。それを思えば、長者原城などは攻め易い城でござる。三方を山で囲まれていて、攻めるは正面のみと思えるが、どんな城にも弱点はござる。」

 中之口の笹川常行が口を挟んだ。「わしは10年前この城を佐藤政綱殿と攻めた。あの折はまだ今ほど堀も浅く城閣も堅固でなかったが、稲島軍の巧みな攻防により何度も煮え湯を飲まされてしもうた。児玉殿は城攻めの達人の様であるが、あの城甘う見るとやられ申す。」

 白根の筆頭家老・坂下主膳も口を添えた。「先代様も三度落城を試みまいたが後一歩の所で退かれた。力押しだけでは容易ではござらん様でな。」古い者たちは、あの長者原城の苦い経験を肌で感じ取っていた。

 児玉監物は、末席に座っていた吉田嘉()(すけ)豊則(とよのり)を指して云った。「身共はこの吉田豊則より、長者原城の隅から隅まで調べ尽くしており申す。恐らく先回の改築で内部もかなり改造いたしたと思われるが、全体の構造自体は然程(さほど),変えられまい。抜け道も幾つか有る様だが、それも封鎖たすか、逆に利用致す。」

  ≪第七八話≫  その3. No.98

 更に児玉監物は話し続けた。「稲島方は総勢740人程である。舅の草日部家には、秋葉家より国境に300の兵を置いて頂いた。もう一つの盟約を結んでいる高野家には、すでに実権を握っている荒田親子に手を打ってござる。念の為、笹川殿にお願いし、和納城に後詰めの兵200を待機して頂いた。」

 ここで少し間を置いたので、笹川行(ゆき)(さだ)が問うた。「平沢城の敵にはどの位兵を向けられるか?」「恐らく、守備兵は100人ほどであろうから、こちらは400人程でよかろう。行貞殿にはそちらをお願いしたい。攻めずとも平沢城の兵を押さえるだけで宜しかろう。」と監物が答えた。

佐藤忠(ただ)(かつ)が低い声で更に問うた。「避難した里人は、如何致しまする。」「海岸線に三か所に分かれ避難している様だが、戦に支障があればすぐに処理致す所存。兎にも角にもあの長者原城を総力を挙げて落としたい。それが第一義と心得て頂きとう存ずる。」

 この後も、攻城戦の戦法を説明しながら、監物の長者原城攻略が隙の無いものである事が全軍の将にも呑み込めて来ていた。

 4月7日、佐藤・秋葉・笹川・柿島の連合軍は稲島・長者原城を囲んだ。しかし、軍師・児玉監物はすぐに攻めず、7日間慎重に城攻めの準備を行った。その間、まだ態度の不明確な高野家に対して何通かの文を送っていた。監物は荒田惣衛門に最後通知として、「貴殿が動かなければ、稲島を落とす前に岩室に兵を進める所存。お覚悟めされい!!」と脅していた。

 さすがの腰の重い惣衛門も渋々動いた。実子であり、高野家の当主・和久と正室の雅代の方を支城である(まつ)(たけ)城に閉じ込めたのだ。それを確認して監物は動いた。

 15日の朝,天候は花曇りで少し肌寒かったが総攻撃は準備万端整っていた。本陣は長期戦に備え、長者原山の登り口近くにある八幡神社の境内に置き、総大将・秋葉時盛を始め、家老の大場実(さね)(はる)、佐藤家の筆頭家老・坂下主膳、怪我で余り動けぬ笹川常(つね)(ゆき)などの即戦力にならぬ者達は、山の高見からの物見の(てい)であった。陣頭指揮をする児玉監物、佐藤政時、秋葉・笹川・柿島の諸侯は、仮本陣として長者原城の正面に陣幕を張り、全軍を指揮した。

 監物は最初の攻撃を仕掛ける前に長者原城の全貌をもう一度観て廻った。凡そ幅2.5間(約5m)の外堀が城のほぼ7割を囲っていて、全長凡そ4町(400m)に及んでいる。その内側に1.5間(約3m)の内堀があり、2.5町(250m)ほどで城を囲んでいる。更にその内側に大屋根で蓋をした様な云わゆる亀城がデンと構えて収まっているのである。更に、城の後側はほぼ山の急斜面で囲まれ、城の塀際には深い空堀りが施され、ここからでは、攻撃が出来ない。

 監物が高見からざっと見て、外堀と内堀の間に守備している兵力は300人程、内堀から城壁の間に守備しているのは200人程と観察した。然程(さほど)大きな武器としての得物は見当たらない。通常の弓と槍程度である。この程度の城に何故そんなに手間が繋ったのか、30以上もの攻城戦を勝利して来た監物には、不思議でならなかった。


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