≪第七六話≫ No.94 ≪第七七話≫ No.95
≪第七六話≫ No.94
英郷は首に掛けていた十字架の首飾りを俊高に見せた。「わしもキリシタンになった。これがキリシタンの証しとなるクルスじゃ。今より1,500年ほど前にユダヤという地で十字架刑にて亡くなられたイエズスといわれる神の御子の教えを信ずるのじゃ。・・・・わしも情愛もイソルデから伝え学んだ。」
「磔になった者を信奉致されるのか?」「そうじゃ。初めは皆、不可思議に思うでな」と英郷は微笑みながら俊高を見詰めていた。「南蛮の地、いや西方の地と呼んだ方が良いが、我が国から見れば地の果てにこの御方の御教えを以って沢山の国々がキリシタン文化を営んでおるそうな。20年前に流れ着いたイスパニア(スペイン)船の乗組員全員がキリシタンであった。」
俊高は話しを聞きながら、昼間見た数々の品々を頭に浮かべていた。我らより遥かに進んだ文化を築いている。何よりも遠い地の果てから我が国にやってこれる力を持っている。見た物はその一部に過ぎない。遠くまだ観ぬ異国の地の計り知れない大きさに心を打たれ、しかも、その国々の繁栄がイエズスと呼ばれる十字架刑で死んだ男の教えから始まったなど、俊高の卓越した頭でも到底、理解が出来なかった。
英郷が俊高の瞳を見詰めながら話した。「俊高殿は神仏を敬う御方。ならば天地の神をお信じに成られるか?」「・・・・正直申せば、未だ良く判りませぬ。・・・ただ・・・・」「ただ?…」英郷は俊高を見据えた。
「3年前の朝方、長者原山にて天からの声を聞き申した。」「ほう~!天の声をな・・・」「其れが神の声で有ったか? ただ、今も心に響いておりまする。」「なんと云われた?」「この乱れた世を正せと・・・・」俊高は敢て『天下を治めよ!!』と云うもう一つの天啓は伝えなかった。
それを聞いた英郷は、暫し沈黙した後、徐に云った。「俊高殿は、天から選ばれた御方の様だ。イエズス様の真の使命も世の汚れを清め、この世を正す事に有った。情愛が貴殿に惹かれたのはその様な経緯を持っておられたからであろう。」
「いえ、今の話しはまだ誰にも告げておりませぬ。情愛殿にも話してはおりませぬ。」「そうか、だがあの娘は霊感が優れていて、俊高殿の不思議な感性を感受したのでありましょう。」
「身共に天命があるのかは未だ判りかねまするが、今は早く戦のない平安な国造りをしとうございまする。此度の戦、我ら5家一丸と成り、佐藤・秋葉両家に立ち向かわなくてはなりませぬ。義父殿、難しい戦になると思われまするが、どうか最後まで御味方下さる様お願い仕る。」
俊高の真剣な眼差しに英郷も真摯に答えた。「俊高殿、情愛を嫁がせた時からわしの心は決まっておる。奥(鼓寄り方)の事はあるが草日部家は稲島衆を与力致す。」
≪第七七話≫ No.95
俊高はまだ30半ばの若い義父を、亡くなった父と重ねて見詰めていた。25才までは戦ばかりしていた父であり、それ以後は病の床に有って、亡くなるまで余り親子らしい情の交わりを持った事が無かったが、俊高は父が好きであった。
予想していた義父との絆とは全く違う内容ではあったが、英郷が異国の信仰を告白し、己と深い根の所で繋がっている事を確信して、ある意味で更に強い心情的絆を結ぶ事が出来て、此度の赤塚訪問に大きな手応えを感じ得た。
翌朝、軽い朝下を臨戦態勢の入っている草日部家のお傍衆と俊高が連れて来た20人の近従が主従一緒になって会食した。これも英郷の配慮であった。僅かな時で有ったが皆、大きな戦がすぐそこに迫っている事を暗黙に感じながら、両家の近従衆も共に戦う気構えを作る事が出来たのだ。
この日の天候は、昨日と違い、風も止み冬空が冴えて、目に沁みるほどの青空であった。俊高の心も義父・英郷との交わりにこの晴天に似た思いで赤塚城を出立できた。帰り道は20人ほどの護衛が付いたので北国街道を進んでほぼ両国の境まで無事に来れた。後僅かで松野尾砦に着く所で赤塚の兵士たちと別れを告げた。
ほんの少しの油断が有ったかも知れぬ。突然、左右の林から矢の雨が跳んで来た。5人が倒れ、高喜の太股に矢が刺さった。更に俊高の愛馬“春風”の尻に矢が刺さり、馬が暴れて俊高は雪の上に放り投げ出さられた。
直ぐに左右から雪美濃を着た30人近い侍たちが奇声を上げて踊り出した。彼らはこの一瞬を待っていたのであろう。俊高は心の中で「しまった!!」と叫んでいた。残りの者で敵に当らねばならぬ。しかも、弟の高喜は足をやられた。
昨日の新雪で腰まで埋まる雪が周りを囲む。別れたばかりの赤塚衆にも、すぐそこの松野尾砦の味方にも声は届かない。云わば絶対絶命であった。前方から踊り出した一団の中に見覚えのある顔が有った。白根の佐藤忠勝であった。
仁箇山で俊高の奇襲に会い、戦死した忠政の嫡子である。打倒・俊高に執念を燃やしている男である。大きく剥き出した眼を更に広げて,眉を上げ、鬼のような形相で刀を振り回してきた。忠勝にとり千載一遇の時である。味方の3人を切って、俊高に突進してきた。背はさほどでないが、上半身のしっかりした戦国武将である。
互いに雪の中で足を取られながら、必死に白刃をぶつけ合った。力は間違いなく忠勝が優っていた。俊高は長身でも身のこなしは早かったがこの雪である。じりじりと押されていった。もう少し時があれば、間違いなく俊高は討ち取られていたであろう。笹藪から幾数の手裏剣がとんでこなければ・・・
ここでも、朱鷺の権坐に助けられた。手裏剣や弓矢が的確に敵を倒していた。俊高に振り下ろされた忠勝の太刀も左の二の腕に手裏剣が当り、間一髪のところで、払い除けられた。「くっそ!!」と叫ぶとそれでも諦めずに何度か太刀を更に振り回した。状況がどうであれ、俊高を倒せるこの機会を失いたくはなかったのだろう。
忠勝は味方が半分になっていたが、攻撃を止めなかった。しかし援護にきた清水寅之助の太刀を受けるとさすがに不利な状況を呑んで残った兵士を連れ、隠してあった馬で立ち去って行った。
この事件後、実家を通じ、白根に密告した英郷の正室・鼓寄りの方は離縁され、秋葉氏に戻された。これで稲島・草日部家の合一が完成出来た。・・・・しかし、俊高と鼓寄りの方の怨念の戦いは、この後も数奇な運命に絡まれて、恐ろしい女の情念の戦いになって行く事を二人ともまだ判るはずがなかった。




