≪第六四話≫ No.82 ≪第六五話≫ No.83
≪第六四話≫ No.82
三左衛門の遺書を読みながら、涙で字が読めず「久衛門、読んでくれ・・・」と手渡した。久衛門は静かにしかし言葉を噛みしめる様に読んでいった。
『この度の不祥事、是、全て我が身の責任でござる。お屋形様が内通者がいると久衛門殿に何度かお話になっていた事、良く知っておりました。
私目も其れなりに調べておりましたが、昨夜からの笹川殿救出の折、お屋形様が奇襲にあわれ、危うく御命を落とされそうなお話を覗い、もしやと思い浮かぶ節がござった。
救出の夜、帰宅した折、豊則の妻が世話をする為やって参り、床を用意すると申しましたので、再び登城する、お屋形様をお迎えするのでなと申し伝えましたが、嫁にお屋形様はどちらに行かれたのですかと問われたので、もう大丈夫な頃と思い、迂闊にも笹川の常満殿の救出に向われた事を話してしまい申した。それがまさか敵の耳に伝わるとは、わが身の一生の不覚。
今朝方より、下男に申し伝え、豊則の身の回りを密かに調べさせた所、密通と思われし文が何通か見つかり、豊則の家内を問い質そうと致しましたが、既に子を連れて逃げておりました。
この女は、実家が笹川の馬廻り役の娘で、先々代・俊兼様の折、半分は人質代わりに嫁がせた者でござったが、その母の在所(実家)が白根の佐藤家と縁がござった事、忘れておりました。
お屋形様、豊則も既に出奔致しておりまする。この罪、いかで報いれば良いか、言葉にもござりませぬ。ただただ、御詫び仕る次第でござる。この後、我が一族の御処分如何様にも取り行って下さいませ。
今後の稲島家の繁栄に支障が出てはなりませぬ。わが身一つの償いでは到底、罪は免れぬと存じまするが、御許し下され。
あの世にて、お屋形様の御武運と御繁栄を祈願致しておりまする。
三左衛門豊郷 』
佐野久衛門も途中で何度も言葉が詰まって、要約読み終えた。暫しの沈黙の後、久衛門が俊高に向って話し掛けた。「お屋形様、私の責任にござる。もう少し、早く気が付けばこの様な惨事は免れた事にござる。三左殿は陽気なお人柄であったので、誰も私生活の事を気にする者がおりませなんだ。
本人も、家人にも勘定方(財務管理)と目付方(法務管理)を兼ねておりましたので、大変厳しかったと聞いておりまする。ご覧の様に家財も少なく、質素な生活ぶりにて、息子の豊則殿から何度か禄高を上げて欲しいという願いがござった。」
≪第六五話≫ No.83
佐野久衛門は亡くなった吉田三左衛門の顔をまじまじと見詰めながら、話を続けた。「その都度、三左殿にお手前の禄高を上げる事をお屋形様にお願い致そうかと申し上げると、まだお国の財政が整っておらぬ今は、我が家は後回しにござるよ、と取合わぬのが常でございました。・・・私目の配慮不足でござったわ。そこをお内儀(豊則の妻)の実家から、敵の廻し者が入る隙を作ってしまい申した。」と云って、密通の証拠であるもう一通の文を俊高に渡した。
俊高は文を開きながら、自分は常に外の敵ばかり視ていたと胸を突かれた。嘗て亡くなった父が『敵は外に有らず、内に有り!』と常々口にしていた事を改めて思い出していた。
外の改革には、大層力を注いだが目の前の、足元を見ずにいた。家臣がどの様な生活をしているのか、考えてもいなかった。俊高が若く、また所帯を持ったばかりであった事よりも元々が小国と云えど、当主の子である。
生活自体に於いては、困る事のない立場であった。物の無い、貧しい生活苦の苦しさがどれ程のものかは、やはり現実としては判っていなかったのだ。
「豊則親子は何処に行ったのか・・・・」と呟く様に久衛門に聞いた。「・・・・恐らく、笹川の実家または、更にお内儀の母方の実家である白根の佐藤家に縋ったかと思われまする。」「三左衛門の亡骸を手厚く弔ってやろう。・・・来春になれば、白根と新津が怒涛の如く攻めて参ろう。その前に弔って上げようぞ。」「はい、承知仕りました。」
二人は、亡骸へ丁重に手を合わせ、下男と下女に、この後、屋敷を閉じて誰も入れてはならぬと言い残して、再び城に帰って行った。