≪第六二話≫ No.80 ≪第六三話≫ No.81
≪第六二話≫ No.80
当主館に戻ると情愛が厳しい顔で出迎えた。俊高の顔を見て、ドッと想いが溢れて涙声で胸を叩いた。「どうして何も云わずに行かれたのですか?悲しゅうございまする。・・・」「すまぬ、急な事で時が無かったのだ。許せ!!」
「今のお屋形様はお一人ではありませぬ。私を始め、皆のものでございます。」情愛の心に触れて俊高は素直に詫びた。「悪かった、情愛。許せ!!次は必ずそなたにも相談致す。・・・今は疲れた。少し休ませてくれ!」
少し休んでいると表の方で騒ぐ声がしたので俊高は玄関に向った。そこには寅之助を含め5人の救出隊の者達が全身傷だらけで皆の介抱を受けていた。
「寅之助!皆も良くぞ無事で・・・・」と俊高は裸足で駈け寄った。「お屋形様、我ら5人のみが生き残りました・・・・」と涙ぐみながら寅之助が絞る様に発した。「よう戻ったぞ・・・・」と寅之助を抱きしめていた。あの囲みの中を逃げ切るのは容易でない事は俊高が一番良く知っていた。
全滅してもおかしくない状況であった。「兎に角、傷の手当てを急げ!」と傍にいた情愛や高喜に命じて5人を上に上がらせて「わしは、城に行く。常満殿も来られよ。」と言い残して、二人は亀城に登って行った。
敵の反撃に対抗して直ぐに手を打たねばならないと俊高は思案した。(向うの、特に白根の児玉監物が狙うのはこちら側の分裂である。笹川家を切り離した事は5ヶ国の連盟に取って要を失う事に等しい。幸い常満を救出出来たが一番の勢力を取られた事になった。
高野家の事情から視れば、当主の和久は良いとしても、実権を握っている荒田惣衛門がどう出るか?もし、新津の秋葉氏と白根の佐藤氏が合一して攻め寄せれば、荒田惣衛門は恐らく動くまい。そこまでして危険を冒せまい。
草日部家にも圧力を掛けてこよう。英郷殿の奥方は秋葉の姫じゃ。後は柿島家・・・次は柿島家だな・・・信政殿を呼ばねばなるまい。それにしても、我が一族で誰が敵に密通しているのか?・・・)佐野・横山・吉田の三役の顔が浮かんだが直ぐに頭を横に振った。
ここまで考えて俊高は兎に角も、直ぐに各家に使いを送った。緊急の評定を行いたいとして・・・夕刻近くに内外の主だった者達が亀城の評定の間に集結して来た。
柿島家からは当主親子、高野家からは荒田惣衛門の嫡男・照美が和久の代身として、また草日部家からは当主の代身として家老の本田与一益丈が参加したが、何故か身内である重臣の内・吉田三左衛門親子が来ていなかった。佐野久衛門に命じ、二人を呼びに行かせたが暫らくして大変な事態を告げて来た。
吉田三左衛門が自邸で自害しているとの知らせであった。俊高は顔が青ざめ目の前が真っ暗になり貧血を起して立ち眩みをした。
≪第六三話≫ No.81
一同に中身の訳は云えず、事の急を伝えて暫し、退席した。その間、情愛に云って皆をもてなす様に指示すると、久衛門を連れて急ぎ、吉田三左衛門の屋敷に向った。
晩秋の日没は早く、既に辺りは暗くなっていた。少し小雪が降り初めて底冷えのする夜だった。稲島村落の武家屋敷が八幡神社を越えた辺りから続いていた。横山重光・佐野久衛門俊種の屋敷はやはり其れなりの構えで稲島家の中の位置が判る佇まいになっていた。
そこを過ぎて、吉田三左衛門の家はその武家屋敷の端に有り三役に有りながら、構えも小さく非常に貧弱に見えた。俊高は子供の頃から、村の中を駆けずり廻っていたが、改めて吉田三左衛門の家が重役ながら質素な物だと感じた。
小さな門を潜り、庭に入ると納屋を除き、二棟があったが、母屋に三左衛門が住み、別棟に嘉助豊則夫婦と子らが住んでいたはずである。事件が起きたはずなのに人の気配が無い。後ろにいた久衛門を見たが項垂れていて良く顔の表情が判らない。
玄関を抜けて居間に行くと、年老いた下男と下女が声を殺し、身体を震わせながら泣いていた。更に奥に入ると白装束で身を包まれた三左衛門が既に身体を綺麗に整えられて、横になっていた。首の動脈を切って自害したので、首の周りには血の滲んだ白い包帯が巻かれていた。
「三左!」と俊高は遺体に縋った。「爺、なぜ黙って逝った!わしになぜ訳を話さなんだ。・・・」俊高は声を上げて泣いた。傍にいた佐野久衛門が驚くほど、それは日頃知っていた俊高の姿ではなかった。若いのに常に冷静で、自分の父親の死にも人前では、涙を流さなかった俊高が堰を切った様に号泣していた。
改めて、俊高が云わば親代わりになっていた三左衛門を心から慕っていた事が痛いほど久衛門にも判った。遺体の顔に頬を着けて泣きじゃくる姿は身内を失ったまだ幼い子供の姿そのものであった。久衛門も旧友であり、共に稲島家を支え続けた同志である三左衛門の死は衝撃であった。
しかし、その訳を既に知っていた久衛門は、その死を悲しむ事を越えて自らの責任の重さを感じていた。早く手を打っていたならばと・・・暫らくの時を経て、久衛門は三左衛門が残した二通の遺書を俊高に渡した。
まだ、心の揺れが収まっていなかったが、貰った遺書には『お屋形様へ』と認められていたので気を取り直して文を読んだ。
『お屋形様へ我が不忠をお許し下され。お屋形様にお話致さずに先に逝く事、更に御詫び申し上げまする。』