(九) 初 夜≪第五一話≫ No.69 ≪第五二話≫ No.70
(九) 初 夜
≪第五一話≫ No.69
俊高と情愛姫の婚礼は、輿入れ後の7月6日に近辺の諸侯を招いて昨今では出来ない祝いの宴となった。高野家の当主夫妻と重臣達、それに妹の三和も随行して来た。笹川・柿島両家の当主夫妻及び重臣達、そして、姫の実家である草日部家の当主と重臣達、更に稲島家の代々の神仏に対する尊重の恩賜として近類の神社・寺院より神主・法主が参席し、12ヵ村の代表者も加って、婚礼の会場となった長者原山の山頂である長者原は300人を越える人々が集結した。
この婚礼は、武家同士の婚儀と云うだけでなく、宗門を越えた祝いと成り、また領主と領民との絆の宴席でもあった。
7月の暑い季節ではあったが、山頂は広い日本海よりの涼しい海風が吹いて集まった人々の心が洗われる心地となった。会場を紅白の垂れ幕が覆い、祝いの花々が飾られ、引き出物も山の様に積まれていた。
そして、海を背にして台座が設けられ、その中央に肩筋を金帯で縫い合わせ、左右の胸に家門の『違い鷹の羽』を金字で刺繍させた白の陣羽織を羽おり、濃紺の裃に烏帽子を被った俊高と、雪のような白い打掛けを着た情愛姫が内裏様の様に座っていた。
二人の婚姻はこの地、下越後・西蒲原の勢力地図を大きく変える事となった。正しく稲島俊高を中心に5家が連合したのである。稲島・高野・笹川・柿島そして、草日部の5氏である。この5氏の石高を合計すると、凡そ3万2千石で総兵力2,700人以上になり、三条の斎藤氏、新津の秋葉氏に対抗し得る勢力となったのであった。
式は、稲島家の守護神社である八幡神社の橋本神主が祝詞を詠み、岩室・種月寺の横山法主の祝いの辞で締めた。その後、主賓たちは当主の館に移り、酒宴が設けられ、大いに寿いだ。
夜半になると、新郎・新婦は酒盛りから離れ、湯で疲れを取り体を清めた後、白無垢に着替えて寝所に入った。二人は初めて二人きりになった。暫らく、戸の隙間から零れる月の明りを見詰めていたが、情愛が小さな声で話し始めた。
「俊高様、私の素性を御存知でしたか?」と少し、青みのある綺麗な瞳で俊高を見詰めながら続けた。「私は、正室の鼓寄の方の子ではありませぬ。」
≪第五二話≫ No.70
俊高は静かに頷いた。「聞いている。英郷殿の側室の子だと云う事は・・・・」「私の母は正しくは側室でもありませぬ。・・・しかも異国の女人でございまする。20年前に越前浜に流れ着いたイスパニアの商船に乗っていた元オーストリア貴族の娘です。名をイソルデと申しまする。」
「う~、子供の頃、近くの浜に異国船が流れ着いたと聞いた事はあった。」「母イソルデは、祖国に内乱が有り、亡命した先のイスパニアで両親と生き分かれて、その後、母は貿易船の船長に拾われてそのまま、明(当時の中国名)の国へ行く船に乗ったと聞きました。その時母は12歳でした。
その船は2年後、イスパニアのパロスから明の南京へ行く途中、嵐に会い漂流してここまで来たのです。・・・・その後、私の祖父にあたる先代の草日部英敏の保護を得たのでした。
父はその時、まだ13歳でございました。壊れた船を治すのに丸3年掛かりました。その間南蛮の様々な知識を得る為に、祖父は造船の協力を約束したのです。
父も良くそこに行き、色々見聞きしたそうです。其の折、15歳の母・イソルデと出会い、すぐに惹かれ合ったそうでございます。父はその時既に、秋葉家の先代・時房様の御息女で鼓寄姫様と祝言を持たれておりましたが、お二人の仲は当初から冷えきっておられました。
ですから、父は母イソルデだけを愛し、やがて私を身籠ったのでございまする。秋葉家の手前、此の事は内密にされており、その後、完成したイスパニア船は、身重の母を残して出立致しました。その後、私達親子は密かに海辺の村長の家で匿われていたのです。
父と母の間には5人の子が儲けられましたが、私が7歳の時父が家督を継がれ、晴れてお城に上がる事が出来ました。しかし、母イソルデは今も、鼓寄の方の事があり越前浜の別院で暮らしておりまする。真に寂しい想いを続けておりまする。・・・」
情愛は、話し終ると暫らく涙を流していた。俊高は泣いている姫を優しく抱き寄せ、「そなたの素性は、良く判った。・・・・わしは、姫がどのような立場であろうと構わん。そなたとあの夜の薬師堂で出会った時から、不思議な縁を感じておった。
そして、そなたの父上の為に再び訪れてくれたあの3日の間にて、姫と話した様々な事が、わしにとってこの女が生涯連れ会う女子だとはっきり、判ったのだ。・・・・情愛、これからは、わしがそなたを命懸けて終生守るぞ!」「俊高様‼」二人は、熱く抱合ってそのまま深い愛の契りの中に入っていった。




