≪第四五話≫ その5. No.62 ≪第四五話≫ その6.No.63
≪第四五話≫ その5. No.62
白根大橋近くの川縁に、山嵐により倒壊した家屋を修復する為の木材が、筏のまま接がれていた。俊高は予め、中之口川の合戦に備えて、この筏を備えて置いたのだ。川辺に着くと、真島高兼(弥七郎)が10人の船頭と共に待っていた。
「お屋形様、いよいよ川下りでござるな!」と半分笑いながら、構えていた。「白根の策略にやられたわ!」と俊高の不機嫌そうな顔を見て、「なんの、戦はこれからにござる。」と励ました。
筏は15年ものの杉の木10本を長さ6間(10.8m)に切り揃え、結わえてそれが2組で一番えとなっていて、前後に長竿を持った船頭が操った。それに30人づつ、5組に分かれて乗り込んだ。
俊高が流れ出しながら叫んだ。「わしが先頭を行く。高兼、お主は中堅に入り、後の組を纏めろ!」「はっ。承知仕りました。」山嵐のせいか、河の水は濁り、早かった。それでも船頭たちは巧みに筏を操り、先頭の俊高が乗ったものは、直ぐに白根大橋の下を通過した。
佐藤勢はまさか敵が河を渡ってくるとは予想していなかったが、三番目の真島高兼が乗った筏が橋の下を通過する時、一斉に矢を射て来た。橋の上下で激しい応戦となった。
味方もそれを見て笹川常満達が橋の半ばまで助けに駆けつけたので、そこでも両者の激戦が始まった。
白根大橋は全長五町(500m)、橋幅2間(3.6m)で欄干の付いた頑強な大橋であった。30年前、三条の斎藤家が西蒲原一帯を支配する為に京の五条橋を真似て造らせたものである。河の多いこの地域では橋は生活の要であり、軍需・経済の拠り所でもある。故に、たとえ戦となっても、滅多な事では橋を破壊しないのが、統治者たちの暗黙の了承であった。
多少の犠牲はあったが、河の流れが速い為、先ずは最初の関門は越えた。橋の上から観ていた佐藤政時は何を勘違いしたか「おお~!あ奴ら、白根城を奇襲するつもりじゃ~」と叫ぶと「者ども、引けっ!、引けっ!、」と退却し出した。それを追って笹川勢が向う岸まで迫ったので、白根岸側の橋の上でも激しい交戦が続いた。
佐藤忠勝が率いる脱出組の170名は井随城から夜駆けして、卯の刻(午前6時頃)には、橋の近くに着いた。ここで一休みして、斥候を送り橋の袂付近の敵情勢を探りに行かせる。敵が僅かしかいない事を確認して、一気に橋に向った。
≪第四五話≫ その6. No.63
曽我橋は、幅1間(1.8m)もない狭い橋である。大人二人が並んで走るのが精一杯な広さである。
佐藤忠勝は、先ず10人程の守備兵を倒し、封鎖の為に造られていた柵を壊して、要約二人づつ、渡川させた。半分程が渡り出した時、高喜率いる騎馬隊50騎が奇声を挙げて突っ込んで来た。
忠勝は、殿(戦の最後尾を守る役)を務め、高喜たち騎馬隊の激しい追撃に耐えていた。そこに筏の俊高の本隊が到着して来た。俊高は戦況を瞬時に判断して先頭の筏を味方側に、後の4つの筏は白根側の岸に向かわせた。
上陸した俊高軍は橋の袂で殿を務める佐藤勢に弓で一斉射撃した。狭い橋の上で隠れる所も無い佐藤軍はバタバタと河に落ちて行った。佐藤忠勝はこれまでと残りの兵を連れて白根方面に走り出した。
先に二列に成って長い列を作り橋を渡っていた白根勢は、川岸に着いた残りの筏組にここでも散々矢を射かけられて橋から転げ落ちた。それでも俊高たちを追ってきた政時の軍勢により、攻められ再び筏で味方に帰って来れた。
この後も両者は白根大橋・曽我橋の上で攻防戦を繰り返したが決着が付かず、二つの橋を互いに閉鎖して終結した。
この戦いで白根側は100人程が犠牲になり、稲島・笹川・柿島の三軍は計54名が戦死した。戦には勝ったが、俊高にとって、少し後味が悪いものが残った。それでも当初の目標はほぼ達成出来た訳である。
この抗争で中之口川を挟んで佐藤・秋葉陣営と稲島俊高中心の国人衆との対立が出来あがった。特に俊高の非凡な戦略に一番恐れを感じたのが児玉監物であった。
監物は一人思案した。(戦況を細かく確認すると、確かに負け戦には違いないがあの程度で済んで良かったのかも知れぬな。・・・・話では聞いていたが実際に戦って見て,まだ二十歳にもならなぬ若造に大の大人が皆振り回されている、何よりも20年近く様々な学識と戦歴を踏まえて来たわしが恐れている事は否めぬわ。・・・・
あの男、始めから筏を用意していたのだ。場合によっては、この白根城まで攻め込んで来ることも考えていたのやもしれぬな。・・・・戦法は相手の一番嫌がる事をすべきであるし、また、敵が考えもせぬ虚を突くのが戦術であるとしたら・・・・あやつ、判官義経公の如き天賦の才を持ち合わせているのかも知れぬ。・・・ならば、早い内に新津の秋葉家と盟約を結び、後顧の憂いを絶っておかねばなるまいて・・・・)