≪第四五話≫ その3.No.60 ≪第四五話≫ その4. No.61
≪第四五話≫ その3. No.60
白根城内の西院に佐藤政綱が養生を兼ねて隠居所を構えていた。そこに、当主の政時と筆頭家老・坂下主膳、次席家老の児玉監物が訪ねて来た。
板敷きの広い部屋に三枚の畳が敷かれ、その上に木枠で囲った座り台が置かれて、それに寄り掛かって下半身が不自由な政綱が足を延ばして座っていた。・・・・昨年、俊高の夜襲に会い、命からがら逃げ帰ったが、夜の闇の中、馬が窪地に落ちて、落馬し腰部を激しく打った。腰の骨が砕けて下半身が麻痺してしまったのだ。的もには座れない哀れな姿であったが、頭だけは、以前にも増して働いていた。
「大殿、御機嫌如何でございまするか?」と坂下主膳が挨拶をしたが「良い筈があるまいて!主膳。」と無愛想に返答すると「父上、癇癪は成りませんぞ。頭に血が登ると怖うござるよ。」と政時が宥めた。
「監物、潟東はどの様になっておる?」
「はっ、その事で大殿にご判断を仰ぎに参りました。井随城の敵方は攻め込んで既に5日目になりまするが昨日の夜半から、火責めで城攻めを始めておりまする。」「う~ん!」と大きな溜息を政綱は吐いた。
「父上、わしに出兵の下知(命令)をくれ。このままでは、潟東の味方勢120名を見殺しにする事になる!」政時の陳情に、政綱も頭を抱えた。「お屋形様、以前にも申し上げたが、今は我慢の時。小を殺して、大を生かす。これしかござらね!」と児玉監物が政時に訴えた。
「しかし、120人は犠牲が大き過ぎますな。先途の戦で失った数もまだ癒えぬという折に・・・味方の傷心も更に増すばかりと存ずる。」と監物の意見を坂下主膳が牽制した。
「おおっ、そうよ!又もや稲島の小倅に恥を掻かされると云うのか!?」と政時は足を鳴らした。「う~ん!監物!何か良い思案は無いのか。わしも迂闊に出れば、敵の思う壺とは判るが、此のままではやはり口惜しい限りじゃて!」と政綱も唸った
「うむ、・・・・ではこう致しましょう!まともに井随城に向かえば其れこそ敵の罠に嵌りまする。お屋形様率いる300の手勢は、一端白根大橋から潟東側に渡って、敵の主力を引き付けて下され。頃合いを見て白根側に引き返しまする。その隙を見て、曽我橋から忠勝殿率いる50名が曽我砦の20名と合流して、夜半を利用し、井随城の100名を脱出させる。後は、ひたすら、白根領内に返せば良かろうと存ずる。」と児玉監物が策を述べた。
「うむ、多少の賭けはあるが、それしかないであろう?どうじゃ?二人共。」政綱が尋ねたので、政時も坂下主膳も黙って頷いた。
≪第四五話≫ その4. No.61
潟東の佐藤領内に侵入して、6日目を迎えていた。井随城攻めも余り効果が出ず、双方の応戦で二日が過ぎた。殆どの場合、作戦は決めた通りにはいかないものである。佐藤勢が援軍を送らず、このまま戦が長引けば、兵士の士気や疲労により、こちら側が不利になる。俊高たちは第一戦略を諦めて、第二戦略に切り替えた。
笹川・稲島の別動隊に、白根・曽我の両橋を封鎖させ、旧領を確保する。そして、井随城に総攻撃を仕掛けるのだ。・・・伏兵として待機していた稲島本隊も別動隊に合流する為に白根大橋に向う手筈であった。
卯の刻(午前8時頃)、突如、白根大橋を渡って佐藤政時率いる300の軍勢が橋の出口を守っていた20人程の笹川兵を蹴散らし、攻め込んできた。封鎖前の防衛態勢のままであったので、不意を突かれた格好となった。
佐藤軍はそのまま、真っ直ぐ井随城を目指すかに見えた。ところが途中で引き返し、笹川・稲島の別動隊と接戦しながら、正午前には、再び白根に戻って行った。
知らせを聞いた笹川常満が駆け付けた時には既に佐藤勢は渡川していた。しかし、未の刻(午後3時)も過ぎようとした時、再び攻寄せて来た。今度は橋の渡り際で双方が激しい攻防戦となったが、決着が付かず夕刻となった。
何とか白根大橋の封鎖を完了して、安堵していた所に、早馬で曽我橋が突破されたと知らせが来た。
俊高は天を仰いだ。歯車が上手く回っていない。何か微妙なズレがある。(白根は何を狙っているのか?白根大橋は囮で曽我橋から援軍を送って来たのか?それならば、迎え撃つだけだが・・・)兎に角、今は敵の襲撃に備えて迎え討つしかない。
朝が来た。敵の夜襲はなかったので曽我橋の閉鎖の準備を指示した。清水寅之助に50名の手勢を与え、荷車に木材を載せて橋に向かわせた。白根大橋と曽我橋は一里半(約6Km)程であったので一時(2時間)あれば行けた。
程なくして、井随城の柿島信政より、知らせが届き、佐藤勢が夜半に奇襲を掛け、井随城の城兵を救出して、曽我橋に向っているとの事、信政は全軍で追撃していると報告があった。
俊高は「児玉監物の狙いは、味方の救出であったか!」と吐き捨てると直ぐに常満に下知した。「常満殿、ここの橋を死守して下され!わしは曽我橋に向かう!」「承知致した。この橋は我らが死守致す。」
俊高は、高喜に騎馬隊50騎を与え、早々に向かわせた。そして、自らは「わしは川を下る!」と云い残して、曽我橋とは真反対に向って稲島150名の徒歩組を率いて行った。