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≪第四三話≫   No.56 ≪第四四話≫   No.57

≪第四三話≫     No.56

笹川常満が(こた)えて、「おうせ、如何にも!書状にも(したた)めましたが先途の戦での采配(さいはい)、誠にお見事で、心から、感服仕(つかまつ)った。それに、先代・常行は先の戦で背中に矢を受け、当主の座を身共(みども)(たく)し、今回の盟約も承知致して居り申す。更に、長年の白根・佐藤家との関わりもわしの代で断ち切ろうと決心致した。」ときっぱりと云い切った。

柿島信政も続いた。「身共も、稲島殿との二度に亘る合戦を試みて、貴殿の戦振(いくさぶ)りは天賦(てんぷ)のものと拝見した。幸い、二度の戦に当方は犠牲が少なく、あの夜襲の折も仁箇山(にかやま)にて俊高殿の技、見物致して居りました。はっはっはっ・・・」と笑いながら、更に続けた。

「わしも、常満殿も小国の稲島勢が見事に三倍近い敵勢を破り、小国と云えど、一致団結致せば恐るるに足りずと勇気付けられた次第。のう~常満殿!」「おお~そうじゃて、もう、白根や三条の顔色を(うかが)っているのはやめじゃ、やめじゃ!我らで、堂々と向き合いたいものよ!」

 「そうか、相判った。お二人の心根深く推察致した。ところで、白根・佐藤氏と新津・秋葉氏の接近を御存じか?」俊高の問いに、「その噂は、耳にした。」と二人とも頷いた。

「我らの調べでは、新しく立った次席家老の児玉監物が、政綱の命を受けて、(あし)(しげ)く新津に(おもむ)き、家老の大場実春と密談を行っている由。」「白根と新津に動きがあると聞いていたがそこまで進展しておったか。」と常満が(うな)った。

「児玉監物という人物、中々の切れ者らしい。我らの動きを知れば、捨て置かぬな。」と信政も(つぶや)いた。「そこで此度の我らの盟約、形だけのものではならず、強い絆を結ばねばなるまい。」と俊高は両者の眼を見詰めながら、決心を求めた。

「良し!されば我らの(ちぎ)りを実践に移そうと存ずる。・・・・佐藤家の潟東領地を攻め取り申そう。元々、あそこは、柿島家、笹川家の領地であったものを政綱が力で奪った土地じゃ。」と常満が提案した。

「おう、それが良い。今なら佐藤氏も先途の戦で200人近く兵を失ったばかりで力が出せまい。奇襲を掛ければ落とせるはず。」と信政も賛同した。「奪還した領地は三家で分割いたそう。」と常満が俊高に了承を求めた。「宜しかろう。しかし、領地は要らぬ。ただ、一つ、願いがある!」

「おお~それはなんじゃ、俊高殿!」と二人が見詰めたので、少し、胸を反らせて答えた。「わしに戦の指揮を取らせて欲しい事じゃ」

二人は顔を見合わせて、笑った。「おお、良いとも。(むし)ろ貴殿の戦仕様をこの目で(じか)に学びたいと思っていたところじゃ。のう、信政殿」「うん。わしも学びたい!」「学ぶと云われるのは、お恥ずかしいが、我らの盟約の絆と致そう。」三人は約状を(したた)め、最後に血判を押した。

≪第四四話≫     No.57

 中食(ちゅうじき)(昼食)は、寺が精進料理を用意してくれたので、子供の頃や、三条『至誠館』時代の思い出話しなどの積る話しに成りながら、食した。

西福寺は曹洞宗の禅寺で、坐禅の後の精進(しょうじん)(めし)は格別に旨い。しかも今日は良き合議の後の会食となったので、越前・永平寺伝来の味はまた格別であった。

三人が思い出と成っていた、三条『至誠館』は、3代斉藤当主・(つね)(あき)が1458年に、関東・足利学校を模擬として創設したものであった。永享11年(1439)関東管領・上杉憲実うえすぎのりざねが、鎌倉円覚寺から僧・快元かいげんを招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営に当らせて、学校を再興した業績を継承したものである。

当初は、斉藤家の子弟のみを対象にした学問・武芸の修得学舎であったが、戦国の世となり、周辺の豪族たちの子弟を半ば人質として、三条・斉藤家の威光と権勢を教える為の文武の学び舎となった。4~5年を目処に10才~15才の男子が対象となっていた。

 俊高自身、11歳の春から、15才の秋まで学んだ。凡そ5年の間、親元を離れ、寂しい思いもしたが、今日の俊高の土台には確かに成っていたのだ。

互いに、懐かしい思いの中に慕った後、信政が問うた。「俊高殿、貴殿は三条以外で、何処かで兵法を学ばれたのか?何方(どなた)かに師事されたのか?」「特に師事してはおらぬが、ただ、祖父と父の教示によるものが大きいかも知れませぬな。」「ならば、先途のあの夜襲戦法も伝受しておられたのか?」と信政が身を乗出して尋ねた。

「いや、あの仕業(しわざ)はやはり三条にて、学んだ折、『源平合戦』の木曽の義仲公が能登の地で、平氏軍10万に対し、味方3万余で見事に撃ち破った故事に習ったもの。

夜襲に於いて、千頭の牛の両角に松明を(くく)って暴走させたので、数万の大軍が押寄せて来たと思い込んだ平氏軍は、戦いもせずに都に逃げ帰ったとある。それを、我が領民の両手に換えて、長者原山の山々を照らしただけであったまでの事。」

「おおっ、そうであったか!」聞いていた常満も感服して叫んだ。信政が「俊高殿は、我らよりも(とし)(わか)()りながら、やはり、天賦(てんぷ)の才が御有りの様だ。・・・どうであろう?我ら三人、かの故事に習い『桃園の誓い』をしたいものだ。」

「『桃園の誓い』とは、三国志のあの三人か、信政殿?」と常満が尋ねた。「おお、そうじゃ、蜀の劉備・関羽・張飛の契りよ。だがここには桃園が無いので、あの庭先の柿の木にでも誓うか?」と信政が云うと「ならば、柿庭(してい)の誓いじゃな。あっはっはっは~」と常満が大声で笑った。

二人の屈託のない姿に、俊高は安堵した。今まで、稲島同様、小国の弱みで強い者に合わせて行く惨めさを嫌と云う程、味わって来た隣国の嫡子達である。同じ境遇の心通じる義兄弟と成った。

「我ら三人、姓は違えども兄弟の契りを結びしらは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同月、同日に死せん事を」       ◆三国志演義

 信政が志の一文を吟じ、互いに血盃を汲み交して刀の(つば)を鳴らし合った。その後、佐藤氏攻略を計り、夕暮れの帰途に着いた。

 ・・・・しかし、常満も信政も、俊高に切羽詰(せっぱつ)まった自国の本当の事情を全て伝える事は出来てはいなかったのだ。



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