(五) 改 革 ≪第三五話≫ No.48 ≪第三六話≫ No.49
(五) 改 革
≪第三五話≫ No.48
年が明けて俊高が当主となって、三年目の春を迎えようとしていた。天文20年(1553年)、俊高は満18歳(数え19歳)となる年である。昨年の暮れから降り出した雪が2月の末まで降り続く大雪の年となった。しかし、それが幸いしてあの和納の戦いや夜襲の大勝利も、その後の燻りが出易い戦後であったが、暫らく、平和が続いてくれた。
大雪の年は、豊作になると良く云われたものだ。昨年、佐藤政綱の策略により、収穫した米の四割を奪われてしまった。開墾の成果により500石増しになったので、なんとか年を越えたが4,300石、領民3,650人を養っていくにはまだまだ内外に不安定であった。
戦は俊高の力量により危機を乗り越えたが内政に於いては、殆ど何も手を着けていない状態である。俊高は雪解けの季節を迎える前に領内12か村の村長を集めて評定を行った。
これは、家老の久衛門の提案でもあり、俊高自身も考えていた事であった。小雪のチラつく日に当主館に12人が集まった。其々の国主も時には領民の代表を何人か呼ぶ事はするが、俊高の様に全村の長を呼んで話を聞く事は極めて稀であった。
日頃、静かな当主館が其の日は祭りでもあった様に華やいだ。俊高は先の戦に領民が快く賛同して良く働いてくれた礼をしたかった。
下男の留蔵や賄い頭のお洋に云いつけ、評定が終わった後に大振舞いせよと命じていたから、村の女達も加わり、早朝から賄い所は大賑わいであった。
評定には、城から重臣たち12名も呼んだので俊高を合わせて25人の集まりとなった。城で無くここに呼んだのは皆が忌憚なく自由に意見を出して欲しかったのである。
集まった者たちを見渡して俊高が口を開いた。「皆、よう来てくれた。昨年の白根との戦、皆、誠に良く戦ってくれた。礼を申すぞ。」と当主が頭を下げたので一同、さすがに恐縮した。村長の束ね役である稲島・湯の越の仁平が「お屋形様、私共こそお礼を申せねばなりませぬ。二度の戦を大勝利されて、村々を守って下さったすけ。なァ、皆の衆。」「そんだ、そんだ、ありがてぇ事すけ。」と村長達は口々に礼を述べた。
「そうか、されどわしも父の突然の死でこの身が皆を束ねていけるのか正直、自信がなかったのだ。」と俊高の意外な告白に一同若き当主を改めて見詰めていた。
≪第三六話≫ No.49
佐野久衛門が力強く云い放った。「お屋形様には、天賦の才がございまする。この身も長年稲島家にお仕え致してきましたが、先々代様、先代様にはお持ちでない不思議な与力がございまする!のお~横山様、」と久衛門は敢て横山重光に言葉を振った。重光がどう応えるか家臣たちは、一瞬、肝を冷やした。
少し間をおいて「うむ、わしも後見人として、若輩ものの俊高が当主となって、わが稲島家は行く末、どうなるかと思案したが、先度といい、此度といい、見事な采配であった。わしも感服致した。」聞いていた者たちから「おお~」と歓声が出る位、重光の言葉には真実味が溢れていた。更に「佐野が云うたようにお屋形様には何か大きな守りがある様にも観える。」と公の場で、初めて俊高の事をお屋形様と呼んだのである。
評定と云ってもこの場が、皆の顔見せの場であり、今後の領内運営の為の意見交換の場である事、又、二度の戦に城の武士団だけでなく、郷人の援助が大きい事を重臣達も良く良く知っていたので合議が進むに連れて上下の情が打ち解けて行った。
一通りの挨拶が済み、戦の自慢話や失敗談など出し尽くした時、俊高が佐野久衛門に目配せをした。久衛門は立ち上がり、傍に用意してあった巻紙を開いた。「皆の衆、ここで本日の本題に入ろうと存ずる。(全体を見渡して)お屋形様は、この稲島領を他国に負けない豊かで強い国としたいとお考えだ。ここにその国創りの方策が書かれておるので、御披露したい。」一同、正面に向き直って少し緊張した思いで注目した。
『一つ、国の守りが大切な事
其の事故、長者原城を中心に防備と伝達の為の矢倉 及び 兵士の監視所を造る事、
一つ、大国の備えに長者原城 及び 平沢城の改築を行う事、
一つ、我が国は小国の為、常の守りを強め15歳以上の男子は常に武術の嗜みを持つ事 、
一つ、石高を高め水田の開拓をする事、
一つ、地元での独自の産業を推進し、豊国の礎を創るべし 以上、 』
これを聞いて、吉田三左衛門が大きな声を放った。「お屋形様、後の方は宜しゅうございまするが、初めの二つは領民に負担が掛かり申す。財政はまだまだ厳しゅうとお考え下され。」