≪第四六話≫ No.48-Ⅱ
≪第四六話≫ No.48-Ⅱ
稲島陣営の後方にも、鎧潟から飛落川に通された水路が有って、両側に土手が造られている。稲島兵達はその土手を細い長板を渡って、陣地に逃げ帰っていた。それを別れた黒騎隊90騎が追っていた。
先頭の5,6頭が突然、つんのめった。馬は、ヒヒ~ンと悲鳴を上げて、前足を地面に沈めて大きく宙を舞った。後ろから突き進んでいた何頭かも同じ様に、つんのめって、倒れて行った。
俊高は、戦が始まる前に周到に様々な準備を施していた。この落とし穴もその中の一つであった。稲島陣地の手前の荒地に、予め「レ字型」に落とし穴を何箇所にも、近くの領民に作らせておいたのだ。
そして、味方には足を踏み込ませない様に、前の日に実った柿を穴を覆った小枝と草々の上に置かせておいた。稲島の兵士達は、その目印を避けて、無事自陣に戻って来たのである。
鉄扇は鞍の脇に付けている細長い法螺貝を吹いた。突撃中止の合図である。一旦、騎馬隊を引上げさせ、足軽500を稲島陣に向けて、進撃させた。落とし穴に落ない様に、慎重に前進して行ったのでその分時が掛かった。時は黒騎隊が出動して、半刻(1時間)が過ぎていた。
飛落川を渡った永島公英が率いる250騎の騎馬隊は、そのまま、手筈通り飛落川を下って、川向うの味方の陣地を通り越し、押付にある渡り橋に向かっていた。そこに伏兵として待機していた草日部貴英率いる錬成隊200と合流する予定であった。辺りは可なり明るくなっている。
「お~~い、公英!! 待ってくれ~!!」と長者原山方面から、聞き慣れた声が響いてきた。駒を飛ばす笹川常満であった。
「常満殿、傷は大丈夫なのか?!」「おゝ、これしき何ともないわ。」と云いながら、胴体に綱を巻き、傷付いた右手を二の腕まで縛り上げて、手綱を持ち、左手に獲物の十字長槍を抱えていたが、痛々しい姿であった。
「この決戦の折に寝ておられようか。わしも行く。良いな、公英!!」「・・・・」公英は黙って頷いたが、反対した所でやめる男ではないのだ。二人は、「いざ!!」と声を掛け合い、駒を走り出した。
草日部貴英達と合流すると、今度は上流の仕掛け橋を滑車で伸ばしながら、一気に橋を渡り、斎藤陣営の右翼を守っていた秋葉軍1,000に躍り込んでいった。突然の攻撃に秋葉勢は、肝を冷やした。
そこへ、更に稲島本陣から、200の足軽隊が躍り出だした。合計650になる機動隊が横並びの秋葉軍を攻略し出した。元々、あの亀城攻防戦以来、稲島兵の強さを肌で感じていた秋葉軍である。笹川・草日部の猛将が激しく攻めるその圧力に、耐え切れず、ズルズルと陣形が押されて行った。
中央でそれを確認した、斎藤義興は「おのれっ!!」と叫ぶと、軍配を振って、味方の300を援軍に向わさせた。斎藤軍が横に動いたので、今度は稲島陣地の中央で待機していた柿島信政が率いる600が敵の正面に向って水堀を渡って突き進んで来た。言わば総攻撃である。
両軍は朝日が次第に広い越後平野を紅く染める中、少しづつ薄れていく朝靄を突き進んでぶつかった。斎藤軍の主力800も義興が自ら率いて出撃した。鎧潟の東側原野は敵味方3,500余の将兵がぶつかり合った。
湖面を進んでいた、俊高達・別働隊は、この時既に対岸に着いていたが、斎藤の本陣が手薄になるその時を待っていた。葦の藪の中で、膝近く水に埋めて、じっと成り行きを見守っていた。手も足もさすがに冷えて、体が硬直していたが、心は決戦の時を探って、熱く燃えていた。
俊高は少し背を伸ばして、後ろを観た。湖面の真反対に位置する鉄扇の黒騎隊の様子を見たかったのだ。霧で霞んでいるが、確かに我が陣地に責め立てる時の声が聞こえた。(良し!、鉄扇はまだ、向こう岸にいる。今だ!!)と決めて、傍にいた弟の高喜に合図を送った。
高喜は、大きく頷いて、100人の弓隊を引き連れ、本隊から離れて行った。それを確認すると、俊高は「ゆくぞ!!」と味方の兵たちに号令すると、葦の藪を縫って上陸し、突撃隊300人の束となって一目散に、斎藤本陣に向けて、駆け出した。
時は卯の刻(午前6時半)になっていた。高喜達100人の弓隊は、俊高達の奇襲を援護する防壁となって、横2列になり斎藤軍の反撃に備えた。
秋葉軍の横合いから、突入した稲島騎馬隊は、20騎づつ隊を組んで、敵の中枢部にまで及んでいた。まだ鉄扇の黒騎隊までには精錬されていなかったが、秋葉の弱腰軍勢を倒すのには充分な力であった。公英は、粋謙から学んだ馬術を巧に生かし、自ら考案した青龍刀型の薙ぎ刀で、次から次へと敵を倒していった。利き腕を怪我している常満も、左手ではあるが、巧に長槍を振り回して、敵を翻弄していく。
既に体制を維持出来ない陣形になっていたが、それでも総大将の秋葉實春は、必死に堪えていた。
「父上、堪え切れませぬ。陣を引きましょうぞ!!」と傍に来た實敏が懇願して来たが、周囲を観
れば、既に味方は戦の出来る体ではなかった。これ以上、兵の犠牲を出す訳には行かぬと引き上げ
の太鼓を叩かせざるを得なかった。