≪第四一話≫ No.43-Ⅱ ≪第四二話≫ No.44-Ⅱ
≪第四一話≫ No.43-Ⅱ
夜の帳が降りた亥の刻、三条方は燃え残った二の丸の一角で戦評定を持った。総大将の斎藤義兼・義興・田上城城主の田上行政・黒騎隊隊長 黒江勝重・秋葉家家老の大場實春・實敏親子、その他両家の重臣数名が座を囲んだ。戦の流れが予想以上の成果を収めたので、主戦論を唱えた義興は、上機嫌であった。
義兼が「方々、勝ち戦祝着である。中之口城が予定より早々に落とせた事、見事であった。特に黒江勝重の働きは、第一である。何時もながら天晴れである。」「恐縮に存ずる。」と勝重が平伏した。「されば、この後の策を練る為に集まって頂いた。」と義兼が続けた。
「ほぼ、当初の狙いを成したので、必要な兵を置いて、一旦引き上げても良かろうと存ずるが・・・」と田上行政が云った。大場實時も同意する思いがあったが、此度の立役者である義興の思いが気になったので、言葉には出さずにいた。
「ここで引き上げてなんとする。敵は400以上の犠牲が出て、意気消沈しておるわ。我らは無傷に等しい勝ち戦ぞ。俊高の本隊が出てこなければ、もうひと押しして城の1つや2つ、落としても良かろうぞ。御屋形様。」と義興は自信に満ちて、義兼に詰め寄った。
「うっ。そは然りじゃが、他の意見はないか?」と義兼が全体を見渡した。斎藤家は、三条に領土を構えて11代150年が経ているが、この11代当主は、戦国大名と云うより、政事に長けている謂ば政治家であった。
武将気質の強い父・義政の血を引いていたのは、息子の義興であった。義兼も本心は行政の意に同感であったが、この戦、実質的には、嫡男の義興が父・義政の命を受けて挙兵していたので、采配はほぼ、義興に任せていたが、念を入れて、「勝重、其方は如何考える?」と黒江鉄扇に目を向けた。
鉄扇は、何時もの様に下目をしていたが、意を聞かれて静かに答えた。「義興様のお考えに同意致しまする。初戦は物に致しましたが、稲島の本軍がまだ健在にございまする。大殿のお言葉に有りました様に、主戦はまだ避けるべきと思われますが、ここは、もうひと押しして、敵の力を弱める事が肝要と存じまする。」
「勝重、よう云うた。それでこそ、我が軍の先陣を行く気迫ぞ!! 父上、いや御屋形様、此度の戦果を上積み致して、大殿に献上参らせましょうぞ。」と決議を求めた。
「うっ、この戦の立役者であるお主らが云うた事、それで良かろうぞ。皆の者、良いな!!」と評定を定めた。
長者原城に常満が戻って来た。俊高は正門まで出迎えたが、右肩口から腕に掛けて刀傷があり、鎧が破れた敗残兵の姿であった。出迎えた高喜・柿島信政・佐野高兼なども豪壮な威容が常の常満の哀れな姿に皆、胆を寒からしめた。傷の手当をして、将兵を休ませた後、俊高は完成した評定の間で戦の評定を開いた。
皆、暗い顔を隠せず言葉も出ずに、ただ当主の采配を待った。俊高が全体を見渡して話し出した。「初戦の思わぬ敗退があったが、勝負はこれからだ。明日、全軍で鎧潟に向かう。」その言葉を聞いても、暫く誰も声を出さずにいた。
もし、ここにあの爺・吉田三左衛門が入れば、『皆の衆、戦はまだ負けた訳ではないぞ。こんな沈鬱な表情では、戦う前から負けておるわさ。ほれ、顔を上げて笑ってみなされよ。ほれ、ほれ。ほっほっほ~』と場を慰めたであろう。ここに居る者たちは、皆、真面目一辺倒な者たちであった。
この様な時に、冗談の一つも云えば、皆の心が和むが、豪語して笑わせる常満もいない。俊高はこれでは如何と思って、父・俊秋伝授の太刀をかざして、一同に呼ばわった。
「各々方、この戦、わしが仕掛けた戦である。黒江軍団の恐ろしさは、更に身に染みたわ。・・・されど、良いか、わしはだからこそ敵の長所を用いて策を組んだのだ。相手の弱みとは、強みが災いする事もあるのだ。
わしは、半年前の、吉田ヶ原での敗戦に学んで、ここまで用意して来た。まだ、我が方の騎馬軍団は、黒江騎馬軍団には、敵わぬが、だからこそ、そこを巧みに用いる戦法を用意致したのだ。初戦の大敗は誤算であったが、敵の主力を引っ張り出した事は、大きな成果ぞ。
良いか、次は全軍一丸となって、敵の主力を打つ。敢闘一滴の必殺で行く。肉を切らせて骨を切るの戦いぞ!!」と俊高は、云いながら、己にも鼓舞していた。(恐ろしや、黒江鉄扇!!)と胸に秘めながら・・・
≪第四二話≫ No.44-Ⅱ
6日の早朝、まだ陽の出前の薄暗い夜明けに、稲島本隊は長者原城を出陣した。防衛の責任を持つ佐野高兼や情愛・芳葉・千春等の女達が見送る中、静々と鎧潟に向けて進んだ。総勢1,000人であった。
俊高は、昨夜の内に各方面に伝令を飛ばし、〈全軍一丸となってこの戦に向かうべし!!〉と伝え、特に平沢城で待機していた、真島良高に密書を送った。そこに、錬成隊の500人が戦の伏兵として待機していたのだ。15歳~25歳の若者を鍛錬して、いざと言う時に援軍又は伏兵として用いる様にしていた。
初戦の400の犠牲は余りにも大きかった。同盟の草日部軍を除けば、約2400の稲島勢である。400は六分の一を失った事になる。この兵力を埋めるのに、此度は早々から予備軍である錬成隊を使わざるを得なくなった。
500の内、良高に命じて、18才以上、2年以上鍛錬した者たちを選別させ、その中の100人は、良高が指揮して、騎馬隊に編入させる様に指示した。残りの200人の歩兵は、情愛の弟である草日部貴英が率いて、密かに山伝いに迂回して鎧潟に近い押付砦に向わせた。
一方、この日の朝、三条方は評定通り、次の獲物である旧笹川領の支城・和納城の攻略に向って、斎藤義興を大将として、2000の兵が進んでいた。和納城には70人の城兵が守備に就いていたが、この数では、半日で城は落ちるはずであった。
辰の刻(午前10時)頃、早馬で義興宛に伝令が届いたが、和納城が既に目前であった。伝文に稲島本隊が鎧潟方面に凡そ1,200で向っていると伝って義興は馬上で歓喜の声を上げた。
「待っていた物がやって来たぞ。中之口城に戻れ!!」前方にいた黒江鉄扇が馬を走らせて来た。「御大将、どうされたか?」「おう、勝重‼ 俊高が本隊を引き連れて中之口に向っている。直ぐに引き返せ。」
「・・・・俊高ほどの者が何故、出てきたのでしょうか?!・・・」「初戦の大きな敗北が堪えたのであろう。奴も人の子よ。黙って領土が奪われるのを見過ごせぬはずじゃ。」「・・・・解り申した。」
その日の夕刻には、両軍は大通川を挟んで対峙していた。俊高はわざと鎧潟を背に陣を組んだ。見方によれば背水の陣である。三条勢は、占領した中之口城に300を置いて、3,400の兵で陣形を組んだが、稲島軍は1,400であった。
7日になった。この時期、朝靄が鎧潟一面を覆い、周辺一帯も薄っすらとガスで覆われた。距離にして、半里(2km)の間を挟んで対峙する双方であったが、朝日が昇る頃、伝令が斎藤本陣に届いた。
「御注進。稲島軍が移動しておりまする。」「何!!」と朝露に濡れた甲冑を揺らして、義興が飛び上がった。霞掛かった平野に、旗が動いているのが見えた。「何処へ行く?」と呟いたが、「・・・逃がすか!!」と全軍に出陣命令を出した。
義政が命じたように、黒江軍団を先頭に立てて行く。奇襲の名人である俊高が、一番恐れている黒騎隊を全面に出して行けば、さすがの俊高もうかつには手が出せまいと義興は、内心ほくそ笑んでいた。それでも、慎重に四方に斥候(偵察)を出して、敵の伏兵や仕掛け・罠を探させた。
稲島軍は、湖畔を左周りに後退していた。それを追う様に斎藤・秋葉軍は湖畔の北東に兵を進めた。昼前には稲島軍は、北西の新しく築いた水路を渡って、そこに陣営を張った。三条方も対抗して鶴翼の陣張りをした。中央に1,700の本隊、右翼に1,000の秋葉軍、左翼に700の黒騎隊が整列した。
稲島軍が渡った水路は、幅が凡そ2軒(3.6m)有り、内側に土手が作られていた。その土手に溝が有り、そこに縄で縛った高さ1軒の竹の束が等間隔で立てられていった。長さ3町(300m)の水路が、僅かな時間で、水堀のある、砦に変化していった。この地に誘き出す事が最後の俊高の戦法であった。
皮肉な事に、初戦の大敗が敵に疑問なく、この様に本隊同士が向き合う事となったのだ。後は、最後の詰めをせねばならぬと、3,400人の軍勢を間の当たりにして、俊高は武者震いをした。
両軍は対峙したまま、涼しい夜風の中で、明日の未明に起こる筈の決戦に備えていた。満天の星々が明日の晴天を予感させた。両軍合わせて、5千の将兵が、広い鎧潟周囲の半面を埋めて、どんな戦振りになるのかと、思惑しながら、ある者は家族を思い、ある者は、手柄をもって立身出世の夢を追った。
三条方は、本陣の陣幕の中で、評定を始めていた。総大将の斎藤義兼が、戦奉行を兼ねた義興に、明日の戦術を説明させた。
「皆々方、稲島俊高は我らの騎馬軍団を恐れて、あの様な防備を準備していた様だ。しかし、斥候の報せでは、前方はそれなりに強固に柵付けしておるが、後方は、簡素な竹柵で囲っているのみとあった。
そこで明日・日の出を合図に、先ず、黒騎隊を先陣に騎馬250騎・足軽500で鎧潟を迂回し、敵の後方を突く。
勝重が防御を破れば、一挙に正面の部隊が総攻撃を支掛ける。右翼は秋葉殿、左翼はわしが率いて突破致すぞ。又、敵方は負け戦になれば、飛落川から、逃れる兵もあろう故、田上行政殿は、自軍の200を率いて、味方方面から迂回し、伏兵として、戦況を見定め、離散する敵兵を一網打尽にしてくれい。
更に、念の為に稲島方が、崩れるのに時間が掛れば、鎧潟の漁師が使っておる板舟を用い、2百人の決死隊をもって、敵陣に風穴を開ける所存。稲島勢は、我らの四方からの攻撃に、正に自ら袋の鼠となって、頓死致すぞ。どうじゃ!! ワッハッハー」義興は自作自演して、高らかに笑った。