≪第四十話≫ No.42-Ⅱ
≪第四十話≫ No.42-Ⅱ
10月3日、斎藤・秋葉軍は、白根城に集結して隊を揃え、その翌日・4日の朝には白根大橋を
渡って、中之口の稲島方・関所前に到達した。予め用意していた2雙の渡り舟に、丈3軒(5.4m)・
巾1軒(1,8m)長さ2軒(3.6m)の櫓を設け、橋の両側に横付けすると、その櫓を使って、斎藤勢が
川岸に降りて行き、一気に対岸の柵を乗り越えて、稲島領に潜入して来た。
四半時(30分)の間に、斎藤・秋葉両軍3000が渡河に成功した。斎藤義興を侍大将に、井随支城を攻略すると、直ぐ様、笹川常満の居城である中之口城に兵を向けた。その日の未の刻(午後4時)には、全軍で城を囲んでいた。
一方、別働隊としての黒江黒騎軍団は、今の燕市辺りから迂回して、吉田郷に入り、左に 弥彦・岩室を見ながら、次第に中之口に近づいて来ていた。義政の采配の如く、本隊と少し距離を置いて、稲島の奇襲を牽制しながらその日は、馬堀辺りに野営した。
俊高は、長者原城の八角楼に上り、眼下の越後平野を一望していた。続々と光通信や伝令方の報告が、俊高の元に届けられていたが、俊高は直ぐには動かなかった。ここまでは、こちらの思惑の中で相手方は動いてくれている。こちらが、鎧潟の決戦を仕掛けているとは、今の所、読まれていない。
しかし、この戦、最後の最後まで慎重に運ばなければならぬ。後一歩で勝利を不意にする事は、世の常で有り、戦国乱世では日常茶飯事である。・・・・夕刻、三条方の本隊3000が中之口城を囲み、黒江軍団は馬堀辺りに野営したと伝達されて来た。
それを受けて、小文を竹の筒に入れて笹川常満宛に伝言を送った。
<明日の朝、斎藤勢が中之口城を仕掛けた後、頃合を見て、敵の後方を突いてくれ。大戦はせず、鉄扇が来る前に引くべし。>
5日の早朝から、真昼に掛けて三条方の攻城が続けられた。城方は、木島勘平を頭に250人の笹川勢が必死で応戦したので、一旦攻撃は中止された。その時、後方から笹川常満・永島公英率いる250騎の騎馬隊と350人の歩兵が三条勢に切り込んで来た。しかし、馬堀の黒江隊が動き出したので、稲島軍は直ぐに兵を引いて行った。
その後、夜半に掛けて、三条勢は果敢に中之口城を攻めたので、隙が出来れば、落城する緊迫な状況が城兵達にも判っていた。それでもその日の攻撃は何とか凌ぐ事が出来、翌日の朝を向えていた。
俊高の指示は、斎藤軍が全軍で稲島本隊を向え打つ様にしなければならない。その為に、出来るだけ焦らせて攻城戦に集中させない様に、適度な戦いをする様に笹川常満に伝えていた。
<大戦はせず、鉄扇が来る前に引くべし。>と書いたのは、その意味であった。常満も俊高の狙いを良く解っていたが、思っていた以上に居城の中之口に対する三条方の攻撃が厳しく、直情型の常満がそれを見過ごせる程、情薄な性格でなかった。
そこに微妙なズレが出来た。昨夜から朝方に掛けて、攻城戦が続き、木島勘平以下250人の将兵が必死に耐えている様子は、遠目から見ていても、胸が痛む思いである。それでも笹川常満も一国の主であった。
更に、今回の策で己の役割も解っていたので、2日目の敵の攻城が始まった一刻(2時間)後、再び三条方の後方を攻めたが、心持ち深入りした。
自ら先頭に立ち、敵の本陣目掛けて突進した。常満の心の中では、我が城を攻めれば、容赦せぬぞと云う威嚇の思いを秘めていたのは事実であった。
永島公英が「うっ?・・・」と疑念が生じた時に、既に敵の懐近くまで常満が率いる2,30騎の騎馬軍が迫っていた。
「笹川殿、突込み過ぎじゃ!!」と叫んだ時、遠方の伝令が、黒江隊が近づいている事を、旗で知らせて来た。
「引けっ、引けっ!!~」と公英が呼ばわると、常満も気が付き、駒の向きを変えて、引っ返し始めた。常満が公英に近づいて、「済まぬ。ちと深入りし過ぎたわ。」と顔を歪めた。
二人は並んで、味方を見つつ、元来た大通川の場所まで、引き返そうとしたその時、左右の草叢から、黒い集団が黒い塊の様に躍り出て来た。突然吹いてきた突風の如く、黒江鉄扇が率いる<黒騎隊>が左右80騎づつ、4つの列を組んで、稲島軍の横っ腹を長槍で突く様に鋭く攻めてきた。
殆ど陣形が退却の後で乱れている中に、攻め込まれたので、防御が出来ずにいた。黒江隊は無慈悲に稲島軍を寸断して行った。
あっと云う間の出来事であった。黒江鉄扇は自らの隊を、本隊と分けて、160騎の騎馬団のみで奇襲を掛けて来たのだ。大通川を渡る前に、無防備な稲島軍は一方的に、やられてしまった。騎馬85騎、足軽147人が討ち取られた。
その知らせを聞いた俊高は、「恐るべし、黒江鉄扇!!」と臍を噛んだ。初戦の躓きであった。しかし、三条方はその勢いで、中之口城に全軍で総攻撃を掛け、その日の夕暮れには、西門を突破されて、落城したのである。250人いた城兵の内、生き残って脱出した者達は、60人足らずであった。木島勘平も辛うじて逃げられたが、満身傷痍の体であった。