鎧潟の戦い Ⅱ ≪第三七話≫ No.39-Ⅱ
鎧潟の戦い Ⅱ
≪第三七話≫ No.39-Ⅱ
鎧潟は周囲約4里(12km)の湿地帯に出来た潟である。現在から凡そ500年前に信濃川が氾濫して出来たこの地方でも一、二を争う湿地湖である。
現在は、昭和35年に埋め立てられて広い稲田となっているが、最深3m、平均1m程の水面が、葦などの水草で周囲を覆って水鳥も沢山飛来していた。
周囲の農民達は、板舟と呼ばれた雨戸の周りに浅い舟壁を付けて、寝そべりながら片足で水を描きつつ、水中にいる鯉や鮒、川海老などを竹銛で取り、時には水草や田螺などを潜って採集しながら、農閑期に生計を立ていた。
俊高は、一年前から水害に備えて東に2本を大通川に、西に1本、大通川の支流である飛落川に水路を繋げさせていた。今、更に西側の飛落川に繋ぐ新たな水路をこの夏から工事を進めさせていたが、この工事は此度の斎藤・秋葉陣営との戦の準備でもあった。
俊高の戦略は、勝手の宿敵・児玉監物の様に、大仕掛けで戦道具を作る戦法で無く、そこに有る自然の物や既にあった生業の物を最大限に活用して、戦の戦術として行うので有る。
仁箇山での戦いも、山の地形と竹柵を組み立てたもので有り、佐藤政綱軍への夜襲も、長者原山を使い、村人達に松明を持たせて敵の度肝を抜く策であったし、中之口川を挟んだ戦いも、川とその場にあった筏を利用したものであった。
唯一、大仕掛けで戦道具としたのは、佐藤・秋葉陣営との亀城攻防戦に対して、城を大掛かりで改造した時だけで有った。
しかし、この戦法は先々代の俊兼祖父の戦法を更に創作して活用しただけであったから、俊高のオリジナル(独創)では無かった。
此度の戦に、俊高はこの鎧潟を最大限に利用する戦術を考えていた。斎藤方が予期していた様に、俊高も今、真正面に三条勢とぶつかれば、9分9厘敗退するであろうと感じていた。
やはり、一番恐れるものは、あの黒江勝重率いる黒騎馬軍団である。こちらも半年前から軍馬と父・俊景(源芯)の推挙で粋謙と云う馬術の達人を得たが、まだまだ、黒江軍団には足元にも及ばないであろう。
しかし、2年、3年と敵は待ってくれまい。時を置いて、斎藤方に占領された白根城を強固に城盛りされては、自国の侵入の足掛かりとなるだけで無く、秋葉氏との連結も強まるは必定である。
その為、何とかして敵の本隊をここ、鎧潟に引き寄せねばならないと戦術を思案していた。しかし策の全貌はまだ味方の誰にも話していなかった。