表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オムニバス  作者: ジグマ
本編
7/8

海に来た

 えっ……、なんで?


 夫と娘とでやってきた海。その傍に設置されている、男女別の更衣室で絶句する。

 目の前には水着を入れてあったバッグがあり、確かに水着も入ってはいたが……。


「きーちゃんが待ってるよー、れんちゃん早くー」


 隣にいる一人娘の(ヒメ)からかけられた言葉と、してやったりその笑顔を見て、わたしはこの事態をようやく理解した。






 昨日娘にせがまれ、夫の叔母であり、わたしの友人でもある人のお店に水着を買いに行った。わたしは泳げないので水着を買う気はなかったのだが、娘と店主の友人に勧められてなぜだか一緒に買うことに。

 ………思えば、娘はこのあたりから今回のことを企んでいたに違いない。


 しかも娘や友人が勧めてくるのは、なかなか際どい色合いのビキニばかりで焦りつつ。どれも似合いそうもないと何度もいうのだが、ある一点に至っては半ば二人に押し切られる形で試着までさせられた。

 特に一押しといわれたその水着は、パットとワイヤーで胸が強調されるようなビキニだった。色は黒で、若者向けらしくラメこそ散らしているがとても上品なデザイン。けれど胸が大きいことにコンプレックスを持つわたしは、とてもではないが遠慮願いたい代物だった。


 熱心に勧めてくる二人をなんとか回避して、わたしは白と青のストライプ柄のワンピースを選んだ。そう、選んだはずだった。



 ―――なのに今、水着を入れてきたバッグの中にあるのは、その黒いビキニで。



 ギギ、ギギギ…と錆びた音でもしそうな勢いで、わたしは青い顔そのままで隣にいる娘を見遣る。対照的に娘は、ニコニコとこれ以上ないくらいの飛び切りの笑顔。


「………姫、ちゃん…?」

「あのね、れんちゃんにはこれが一番似合うと思って、昨日水着買う時にこっそり交換したの!」

「どっ……」


どうしてそんなことしちゃったんですか!


 と思わず叫びそうになる。けれど目の前にいる可愛い一人娘の顔を見ると何も言えなえくなって、口だけがパクパクと開く。前に一度夫に「姫ちゃんには甘いですよね」なんて言ったことがあったけれど、もう2度とそんなこと言えやしない。

 そして思い出す、出発前に言われた夫の言葉。

 

『あんまエロい水着は着てくれるなよ。俺以外の野郎の視線集められたら堪らねえ』


 買ったと思ったのは自分が選んだワンピースで、海で着るのも当然それになると思っていたわけで。だからからかわれるように言われた夫の言葉にも、気恥ずかしさで真っ赤になりつつも「普通だ」と答えたのだ。

 なのに実際あるこの水着は、自分にとったら「普通」ではなく「かなり際どい」の部類。


 しかもこの水着、昨日試着した段階ではサイズが少しばかり小さかったはずだ。下は問題なかったのだが、上がちょっと苦しかった。おかげでコンプレックスの胸の大きさが、合わないサイズによりさらに強調されてしまうのも実証済み。


 正直着たくない。とてもとても着たくない。

 けれど隣で今か今かと楽しみにしている娘に水を差すこともしたくない。更衣室を出て合流予定の夫になんてからかわれるのだろうかと、今からすでに半泣きになりつつも着替えるしかなかった。





 あれから渋々ながらも着替え、脱いだ衣服と貴重品を更衣室に備え付けてあったコインロッカーにしまえば準備完了。まったく気が進まないながらも娘はとても楽しそうにはしゃいでいるし、夫も待っていることだから出て行かないわけにもいかない。

 小さくため息一つ吐いてから、娘とともに外に出た。


 夫はすでに着替え終えて、傍の防波堤に体を預けるように立っていた。その腕には浮き輪が一つ。わたし同様泳げない娘用のものだ。

 そんな夫の姿を見つけた娘が、彼のもとへ走っていく。夫も駆け寄ってくる娘に気が付き、軽々と抱き上げた。


 ―――…と、娘が夫の耳に口を寄せて、ボソボソ。ボソボソボソ。


 途端夫は半眼になってこちらを見据えてきた。抱き上げられている娘はこれ以上ないくらいの笑顔。

 なんとなく嫌な予感と居心地が悪さに数歩下がって俯けば、白いTシャツが目に入った。そう、あの水着だけではどうにも心許ないと、わたしは帰りの着替え用に持ってきたTシャツを上に着ていたのだ。


 俯いたままの視線の先に、サンダルを履いた夫の足がこちらに寄ってくる。今わたしが着ている水着について、きっと娘から何か聞いたに違いない。一体何を言われるのか、何をどう思われているのか。怖くてとても顔など上げられない。

 どうしようと思っていた矢先、娘を抱えていないほうの夫の腕が伸びてきた。しっかりとした骨格の大きなその手は、着こんだTシャツの裾を掴んだ。と思ったら、胸辺りまで(まく)り上げられ、つい悲鳴。


「ひいっ…!」


 思わず捲り上げられた裾を奪い返し夫を見遣れば、驚いたような顔をした視線とぶつかった。

 すぐにTシャツを下ろしたが、間違いなく絶対見られただろう。きっとサイズが違うのもバレたはずだ。なぜか夫はそのあたりに勘がやたらと働く。


「……お前、それは………」


 若干引き加減の夫の言葉に、完璧に見られたのだと確信する。羞恥で顔が真っ赤になるのとは対照的に、その思考は真っ青。

 きっと似合わないと思っているに違いない。結婚当初に比べて若さは随分失われているし、胸が大きすぎてこういったデザインだとアンバランス差が滲み出てしまうことも自覚している。それよりもなにも、前に一度夫にこういったデザインのは着てくれるなともいわれたことがあるのだ。


 返す言葉は何一つ見つからず黙り込んでしまったわたしの耳に届いたのは、やたらと誇らしげに言った娘の言葉。


「ねー、きーちゃん、言ったとおりでしょー?」

「―――…もう、ほんと勘弁してほしいレベルだな。マジでこれはひどい」


 ぐさっと胸に何かか突き刺さったかのような衝撃。真っ黒いペンキをぶちまけられたような感覚に、映る世界が暗くなる。


 ごめんなさい。もう2度と着ません。

 着ないから、嫌わないで。


 いよいよ泣き出してしまいそうだと握り締めた拳に、温かい感触。夫に手を取られているのだと気づき、思わず顔を上げた。

 少しムッとしていた表情の夫と視線がぶつかる。けれどいつもの仏頂面とはどこか違う気がする。違和感と思われるほどの些細な違い。

 何度か瞬きをして、ようやくその違いに気がついた。


 夫の耳が、ほんの少しだけ赤くなっていた。

 たぶん、照れている。……のではなかろうか。


「お前、周りの視線気にしたことあるか?」

「…え?」


 呟くような夫の言葉に首を傾げたら、彼は盛大に溜息をついて視線を周りに走らせる。すると急に夫の機嫌が悪くなったようで、思いっきり顔を顰め青筋を浮かばさせる。


「人の嫁をべたべたと……、思いっきり下心ある(ツラ)で見やがって」

「………」

「あ―――…ほんと胸クソ悪い。お前を見てる野郎どもの目玉を(えぐ)り出してやりたいわ」


 これはつまり、怒っているのではなく。もしかしてもしかして、焼きもちを妬いてもらえている。―――…ということじゃなかろうか。

 一気に顔の温度が上昇して、思わず頬を両手で押さえる。どうしよう、すごく嬉しい。嬉しい嬉しい。愛されているんだって、にやけちゃうよ。


「れんちゃんはわたしの、自慢の美人おかあさんだもん! みんな見ちゃうに決まってるー」

「お前、今日はあんま俺から離れるなよ」


 夫の抱き上げられている娘の胸を張っての発言に。そして夫の――…たぶん焼きもちからできているであろう不愉快そうな声色に、気恥ずかしさと嬉しさに染まった表情ながらも何度も頷く。

 着たくないと思っていたはずの水着だった。なのに今は着る機会があったらまた着てみようかなどと、現金な思いに駆られてしまう。


 これからもたまにでいいから、愛情を感じさせてください。傍にいてもいいのだと確信させてください。ずっと隣を歩いていきたい。


 どんどん想いが溢れてきて、けれど口下手な自分には全部伝えるのは困難なように感じてしまう。そうして処理に困った感情は、この体を勝手に突き動かす。

 夫の、娘を抱えていないほうの腕をとって、ぎゅうっと抱きしめる。溢れる想いをも凝縮させたら、夫に伝えるべきことは一つだと気がついた。


「大好き」


 たった4文字。けれど乗せた想いはきっと夫に届けてくれるだろう。

 返される夫からの笑みは蕩けるような極上のもので、わたしのほうも蕩けてしまいそうだと絡める腕に力を込めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ