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オムニバス  作者: ジグマ
本編
6/8

海へ行く

 やっと、終わった……。


 まさに怒涛の数週間。仕事がやたらと立て込んでいて、まともに睡眠すらとれずにいたが、ようやく解放されたのだと、ベッドに突っ伏しながら(キマリ)は一人ごちる。

 昔は貫徹しても平気だったが、今は少しきつい。年を食ったとは、これまさに。


 さて寝るかと目を瞑った矢先、ドタドタと走ってくる足音が。嫌な予感を覚えつつも、聞かなかったことにしようと無理やり目を瞑った途端、部屋のドアが勢いよく開けられた。


「きーちゃん、海!」


 言葉とともに、腹に衝撃。思わずくぐもった声を上げ、腹にしがみついているものに視線をやる。

 バチリと合った瞳は灰青色。正しく嫁譲りの色合いで、顔の造作も小さい頃の嫁そのもの。自分と同じところは黒い髪だけ―――嫁曰く、性格も(おれ)譲りらしいが――という、なかなか生意気盛りの一人娘の(ヒメ)だった。


「俺は海じゃねえ」

「連れてって!」

「父は今すごく疲れてんの」

「連れてって!!」

「……人の話聞いてるか?」


 昨日れんちゃんと水着買ってきたから連れてって!とえらい期待の籠った目を向けてくる娘は、まったく話を聞く気はないようだ。人の腹の上に跨り、興奮を表すように人の腹を叩く娘の姿に、どうしたことかあれだけ溜まっていた疲労が和らいでいく。


 ここしばらく仕事ばっかりで、どこにも連れてってやれなかったしなあ。


 苦笑しつつ、(キマリ)はのそりと体を起こす。腹の上に座っていた姫が転がり落ちないように腕で支え、改めて胡坐をかいた己の膝の上に乗せてやる。

 姫は今年小学生になり、初めての夏休み真っ最中。どこかに連れてってほしくてしょうがないのだろう。


「―――ったく、ワガママ娘が」


 むっとした口調で言ってはみたものの、絶対顔はそんな風じゃないだろうと自覚する。依然姫がこちらをウキウキとした表情で見ているのがいい証拠だ。

 まったく、嫁と娘にはどうにも敵う気がしない。


「30分後に出発だ。しっかり準備してこい」

「やったあ!!」


 姫が勢いよく立ち上がり、この部屋と直結しているリビングへバタバタと走っていく。淑やかさなど欠片もないが、元気であればなんでもいいとすら思えてくる不思議。

 リビングにいる嫁に、これから海に行くことを伝えたのだろう。間もなく嫁の驚きの声が聞こえてきた。嫁の驚き顔が容易に想像できて、つい笑ってしまった。


「あの、(キマリ)さん」


 まだ喉に笑いが残っている(キマリ)にかけられた嫁の言葉は少し困惑気味。というのも嫁がここしばらく(キマリ)が机に齧りついていることを知っていたからだろう。心配しているであろうことはすぐに察した。


「大丈夫、なんですか? お疲れでしょう?」

「疲れてたけど、姫のあんな顔見たらなあ。寝てらんねえよ」

「なんならわたし一人と姫ちゃんとで行ってきましょうか?」

「それだけは絶対にダメだ」


 娘一人生んでいるとはいえ、嫁は27歳。まだまだ肌に張りがあり、加えて童顔故に実年齢より若く見える。綺麗な顔立ちもしているし、肉付きが良く凹凸のある体もしている。

 そんな嫁が娘を連れているとはいえ海に行ってみろ。あちこちから声をかけられるのは目に見えている。想像するだけでも不快というもの。


 (キマリ)は大あくびしつつ、ベッドから立ち上がる。


「平気だから、そう心配するな」

「……でも」

「ほら、お前も支度しにいってこい」


 いまだに渋るような顔をする嫁の頭を一つ撫でる。ついでにそのまま嫁を柔らかく抱きしめて、その耳元に唇を寄せて小さく呟く。


 ――――ボソボソ。ボソボソボソ。


 途端に嫁は首まで真っ赤にさせて、振り返ってきた。


「ふ、普通です…!」


 嫁は逃げるかのように腕の中から抜け出して、そのままリビングのほうに行ってしまった。残された(キマリ)は、さっきの真っ赤になった嫁の顔を思い出しては、もう一度喉を鳴らすように笑った。


 こんな他愛のない日常。けれどこれ以上のものはないのだと(キマリ)は知っている。

 どれだけ仕事で疲れようとも、この日常が続くのであればどんな量でもこなせるのだと思いつつ、彼もまた出かける準備に取り掛かった。

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