海へ行く
やっと、終わった……。
まさに怒涛の数週間。仕事がやたらと立て込んでいて、まともに睡眠すらとれずにいたが、ようやく解放されたのだと、ベッドに突っ伏しながら護は一人ごちる。
昔は貫徹しても平気だったが、今は少しきつい。年を食ったとは、これまさに。
さて寝るかと目を瞑った矢先、ドタドタと走ってくる足音が。嫌な予感を覚えつつも、聞かなかったことにしようと無理やり目を瞑った途端、部屋のドアが勢いよく開けられた。
「きーちゃん、海!」
言葉とともに、腹に衝撃。思わずくぐもった声を上げ、腹にしがみついているものに視線をやる。
バチリと合った瞳は灰青色。正しく嫁譲りの色合いで、顔の造作も小さい頃の嫁そのもの。自分と同じところは黒い髪だけ―――嫁曰く、性格も夫譲りらしいが――という、なかなか生意気盛りの一人娘の姫だった。
「俺は海じゃねえ」
「連れてって!」
「父は今すごく疲れてんの」
「連れてって!!」
「……人の話聞いてるか?」
昨日れんちゃんと水着買ってきたから連れてって!とえらい期待の籠った目を向けてくる娘は、まったく話を聞く気はないようだ。人の腹の上に跨り、興奮を表すように人の腹を叩く娘の姿に、どうしたことかあれだけ溜まっていた疲労が和らいでいく。
ここしばらく仕事ばっかりで、どこにも連れてってやれなかったしなあ。
苦笑しつつ、護はのそりと体を起こす。腹の上に座っていた姫が転がり落ちないように腕で支え、改めて胡坐をかいた己の膝の上に乗せてやる。
姫は今年小学生になり、初めての夏休み真っ最中。どこかに連れてってほしくてしょうがないのだろう。
「―――ったく、ワガママ娘が」
むっとした口調で言ってはみたものの、絶対顔はそんな風じゃないだろうと自覚する。依然姫がこちらをウキウキとした表情で見ているのがいい証拠だ。
まったく、嫁と娘にはどうにも敵う気がしない。
「30分後に出発だ。しっかり準備してこい」
「やったあ!!」
姫が勢いよく立ち上がり、この部屋と直結しているリビングへバタバタと走っていく。淑やかさなど欠片もないが、元気であればなんでもいいとすら思えてくる不思議。
リビングにいる嫁に、これから海に行くことを伝えたのだろう。間もなく嫁の驚きの声が聞こえてきた。嫁の驚き顔が容易に想像できて、つい笑ってしまった。
「あの、護さん」
まだ喉に笑いが残っている護にかけられた嫁の言葉は少し困惑気味。というのも嫁がここしばらく夫が机に齧りついていることを知っていたからだろう。心配しているであろうことはすぐに察した。
「大丈夫、なんですか? お疲れでしょう?」
「疲れてたけど、姫のあんな顔見たらなあ。寝てらんねえよ」
「なんならわたし一人と姫ちゃんとで行ってきましょうか?」
「それだけは絶対にダメだ」
娘一人生んでいるとはいえ、嫁は27歳。まだまだ肌に張りがあり、加えて童顔故に実年齢より若く見える。綺麗な顔立ちもしているし、肉付きが良く凹凸のある体もしている。
そんな嫁が娘を連れているとはいえ海に行ってみろ。あちこちから声をかけられるのは目に見えている。想像するだけでも不快というもの。
護は大あくびしつつ、ベッドから立ち上がる。
「平気だから、そう心配するな」
「……でも」
「ほら、お前も支度しにいってこい」
いまだに渋るような顔をする嫁の頭を一つ撫でる。ついでにそのまま嫁を柔らかく抱きしめて、その耳元に唇を寄せて小さく呟く。
――――ボソボソ。ボソボソボソ。
途端に嫁は首まで真っ赤にさせて、振り返ってきた。
「ふ、普通です…!」
嫁は逃げるかのように腕の中から抜け出して、そのままリビングのほうに行ってしまった。残された護は、さっきの真っ赤になった嫁の顔を思い出しては、もう一度喉を鳴らすように笑った。
こんな他愛のない日常。けれどこれ以上のものはないのだと護は知っている。
どれだけ仕事で疲れようとも、この日常が続くのであればどんな量でもこなせるのだと思いつつ、彼もまた出かける準備に取り掛かった。