感じる幸せ
4月に入って間もなく、晴れた日の午後。そろそろ15時を迎えるくらいの時刻。
午前中に干した洗濯物がすっかり乾いていたので、持っていった籠に取り込んで。リビングで畳んでしまおうとしたら、目に入ったもの。珍しくリビングで寝息を立てている夫だった。
今の季節、さほど寒くはないが何も掛けずにいたら風邪を引くかも知れない。そう思って薄手の毛布を持ってきて、寝ている夫にそっと掛けた。
そういえば昼食時に、もうちょっとで抱えている仕事が終わるって言っていたっけ。
夫の仕事は英語とフランス語を扱う翻訳家で、最近はとくに忙しいらしく毎日パソコンと向き合っていたことを知っている。随分と疲れていたのだろうに、そういう弱音は絶対に吐かない人だ。ちょっとだけ寂しい気もする。
寝ている夫を起こさない程度に、そっとその頬に手を当てて。こつんと額と額を合わせてみる。夫はわたしよりも体温が高くて、ほっとする安心感を与えてくれた。
「いつもお疲れ様です」
自然に零れる笑みそのままに、ぽつりと呟いた。いつも夫には伝えている言葉だけど、全然言い足りなくて、でも言いすぎるのも鬱陶しいかなと寝ている今伝える。
無論寝ている夫は答えてはくれないけれど、言葉に出して言えることが嬉しくてくすぐったくて、この人が夫で良かったと心底思った。
少し幼く見える夫の寝顔を存分に眺めていたら、急に彼は寝がえりを打った。夫は絨毯の上に寝っ転がってはいるが、やっぱり寝心地が良くないのだろう。少しだけ眉間に皺を寄せている。本来ならベットに寝かせるのが一番いいのだろうが、さすがに夫を運ぶことは出来そうにない。
夫は180cm後半ほどあり、加えて全体的に筋肉がついたがっしりとした体格なので、とにかく重たいのだ。腕なんかわたしのそれのよりも倍近くの太さがある。
何か他に妙案はないだろうか。せめてもっと夫が楽に眠れるような…。
うーんと唸った矢先、そういえば折り畳み式のマットレスがあったことを思い出した。折り畳み次第では一人用の簡易ソファーにもなるそれは、今はすぐ目の前にソファーとして組み立てられていた。
夫の隣まで引っ張り、マットレス状態に広げる。大柄な夫だと足が出てしまうけれど、そこは我慢してもらおう。さっそく夫に肩を回して、静かに移動させようと試みる。
「………」
寝ている夫はいつも以上に重く感じ、残念なことにたった50cmほどの移動すら困難だった。もう一度足腰に力を入れてみるが、意識のない夫は、その二の腕すらも重たく感じてしまう。どうしよう、予想外もいいところだった。
とりあえず回していた肩をそっと外し、持ち上げられないのならば転がしてみたらどうだろうかという結論に思い当たる。そっと夫の肩や腰辺りを押したりしてみるが、やっぱり上手くいかず途方に暮れてしまった。
ちらりと目を開けるが、どうやって寝ている俺を動かすかと悩んでいる嫁は、俺が起きていることなど気が付いていないようだった。素早く手を伸ばして嫁を腕に中に引きずり込めば、彼女はとっさに小さな悲鳴を上げた。
「おっ…起きていたんですか!?」
「非力な誰かさんが俺を転がそうと動かしたからなあ? ま、無駄だったみたいだけど」
「ううっ…」
意地悪だなあ!と眉根を寄せつつも、嫁は俺の胸辺りに顔を擦り寄せてきた。ぐりぐりと顔を押し付ける仕草は嫁の癖だ。
そういえばここのところ仕事ばっかりで、まともにかまってやれなかったことに気がついた。きっと寂しかったのだろう、元来嫁は寂しがりだ。まあもっともそう思ったとしても、口には出さないタチなのだが。
散々俺の胸に顔を押し付けて満足したらしい嫁は、ふいに顔を上げてきた。自然と視線がぶつかって、ふふふと嫁が笑う。
相変わらず美人とかそういった類のものではなくて、へにゃりと蕩けそうな笑み。他の男には絶対に見せてやりたくないものだと、心底思わせてくれる。
「幸せ」
嫁は知らない。その笑顔にどれだけ俺が参ってしまうのか、全然ちっとも知らない。知らずに嫁は、そんな顔をするのだ。
悔しい。人をこんなにも簡単に動揺させやがって。今なお、そんな顔でこっちを平気で見やがって。
むくむくと心に膨れ上がったのは、そんな嫁を自分以上に慌てさせてやりたいという悪戯心。
遠慮なく自分に擦り寄ってくる嫁を抱く腕に力を込めて、ぐっと引き寄せる。嫁は少しばかり驚き身体を硬くしたが、すぐにまた安心したように身体を預けてきた。
そんな簡単に身を任せるなよ。なんて思わせるほどに、嫁から向けられている信頼は揺るぎない。
「幸せ、かあ」
「幸せです」
「ほんとお前を嫁にもらってからそう思わなかった日はねえな」
「っ………」
案の定嫁は耳まで真っ赤になって、これ以上見られたくないといわんばかりに俺の胸に顔を埋めてくる。それでも足りず、嫁は「うー」と唸り声さえを上げている。その姿は、俺の中に渦巻いた悪戯心を満足させるには十分だった。
少しやり過ぎたかなと、苦笑しつつ嫁を撫でていたら、彼女からの小さな呟きが聞こえてきた。
「……わたしだって幸せなんですよ…」
「え?」
「7歳の時に護さんを好きになって以来、わたしはあなたを想えばいつだって幸せなんですよぅ」
必死に俺の胸にしがみついて、唸るように嫁が言う。顔は隠れて見えないが、うなじまで真っ赤にさせていた。
……まったく、俺は一生嫁にうことがないだろうな。だがそう思える毎日だって幸せなのだと、堪らぬくすぐったさに笑った。