もらった代価は?
『蕩けているのは…』夫婦のホワイトデー編です
「はぁ―――……、終わったー……」
ようやく立て込んでいた仕事がすべて片付いたと、この部屋の主が大きく背伸びをする。
この数週間、ずっと自室に籠り仕事ばかりだったせいで、随分体が凝っているように感じるのは気のせいではないだろう。
実際肩、首、腰と、どこもかしこもいい音で関節が鳴った。
ぐぐぐ…と体を伸ばしつつ、ふと尻目に壁に掛かっているカレンダーが目に入った。
今日は3月13日。となれば、もちろん明日は14日でホワイトデーだ。
先月のバレンタインデーに嫁からしっかりチョコレート菓子をもらった身からすれば、それなりのものを返してやりたい。
じゃあ一体何を返すべきかと考えて、途端に思考が止まってしまった。
嫁の欲しがるものが、分からなかった。
というのも、基本的に嫁は物欲がえらく欠けている。
無論食料や日用品は買うが、ブランド品や貴金属類をねだられたことは一度もない。
一応いってはおくが、稼ぎゆえに遠慮されているということはない。……はず、だ。多分。
教師をしていた頃より、翻訳を本業にしている今のほうが稼ぎも上だ。
そんな嫁の趣味は、庭の一角に作られた小さな畑で利益をも兼ね備えた野菜作り。
一瞬肥料や苗や種などが浮かんだものの、ホワイトデーの返しになどあまりにもない。
だいたいそれらは定期的に購入しているし。
しばらく首を捻って考えたものの、結局いいアイテムが浮かばす。
ならば仕方がないとあっさり諦め、朝方淹れてすっかり冷めたコーヒーを飲み乾してから、部屋を出た。
この部屋とリビングは直結している作りになっていて、リビングに置かれたテーブルの影に隠れるように、小さな体をさらに小さく丸めるように嫁が寝息を立てていた。
まったくすぐ風邪を引いたりするくせに、嫁はこういうところは無頓着だったりする。
昼寝するのはかまわないが、ちゃんとベッドで寝ろといってもこれだ。
常々自分には過ぎた嫁だと思ってはいるが、この点だけは唯一の不満点だといってもいい。
くうくうと規則正しい寝息を立てている嫁を抱き上げる。
元来一度寝ると起きないタチに加え、すっかり寝入っているせいか、嫁が起きる気配はない。
それでも出来るだけ静かに、慎重に寝室に運んだ。
上掛けをめくり、ベッドの上に嫁を横たえる。
もそもそと何度も身じろぎをしているあたり、しっくりくる体勢が定まらないらしい。
ようやく落ち着いた体勢は、夫の枕に突っ伏すかのようなうつ伏せ状態だった。
ぐりぐりと枕に顔を押し付け、くんくんと鼻を鳴らす嫁はまるで小動物だ。
ふと、そんな彼女が目を開ける。
「……う…」
うっすらと開かれた瞳は、灰青色と灰色のオッドアイ。
宝石よりも透明度があって、けれど命が吹き込まれている不思議な温かさがあって、感情によって少し濃淡が変わる瞳。
なんとなく頼りなさげにみえるのは、嫁の大人しくひ弱な本質を知っているからだろう。
「なんだ、起きたのか?」
「………うー…?」
嫁から唸るような返事こそ返ってきたものの、こちらに向けられている目はとろんとした半眼だ。
たぶんはっきりと自分のことは映してはいないだろう。
嫁はゆっくりと瞬きを繰り返すが、ゆらゆらと視線が定まっておらず完全に寝惚けているようだ。
そんな嫁を見て、唐突に思い至る。
普段しっかり目を覚ましている時は物をねだることはしない嫁だが、今の半覚醒時ならどうだろうか、と。
無意識ゆえに何か欲しいものを言い出すかもしれない。そう思った。
「なあ、なんか欲しいものあるか?」
ここは思いっきり直球で。
どうせ寝惚けているし、嫁が完全に覚醒するころにはもう、このやり取りは覚えてはいないだろう。
嫁の寝起きの悪さは半端ない。
「ん――……。ほしい、ものー…?」
ほしいもの、ほしいものー……、と嫁は呟くように繰り返しつつ、両腕ではしっかり枕を抱きしめ顔を埋めている。
急に嫁が顔を上げれば、自然と視線がぶつかった。
「まくら、ほしいー」
「枕?」
「まくらぁ」
そういってまた枕に顔を擦り寄せる嫁を見つつ、思いっきり首を傾げた。
なぜならば、嫁はそもそも枕を使わないタイプだからだ。
抱きしめて寝たりするのには使っているようだが、頭の下に入れて使うことはまずない。
まあでも、枕が欲しいというなら――――。
「じゃあ、枕買うか」
けれど途端に嫁は首を横に振った。
そうじゃない、違うのだと体で表現している。
「この、まくらがいいのー」
そういって嫁は、普段は夫である自分が使っている枕に擦り寄っている。
ああ、そうか。低反発が気に入ったのか。
確かに俺もそれは気にいってる。
「じゃあそれと似たタイプの買うか」
「ちがうー」
「違う?…って何が?」
「これがいいのー」
「なんで?」
「これねえ、だいすきなだんなさまのー、においがするからぁ」
ふにゃりと破顔した嫁に、あやうく理性をぶち切られそうになる。
あー、やばいやばい。
その顔はマジでやばい、破壊力が半端ねえ。
よく美人だ儚いだのいわれる嫁だが、そんな言葉なんてまったく似合わないと心底思う。
実際嫁の笑顔はニコリではなく、へらりとしている感じだ。
締りがないというか、そこに裏なんて一切ないといわんばかりの無邪気な笑顔。
まっさらな、こちらが眩しく感じるほどの―――。
さすがに寝惚けているところを襲うのは……、ととりあえず撫で回すことで回避しようとする。が、それではまったく物足りなくて、瞼、鼻先、頬、唇にとキスを落とせば、嫁はくすぐったそうに身を竦める。
ふつふつと心の奥から湧き出る感情に、我慢ならずもう一度ついばむようなキスをした。
だらしなく緩む頬を自覚しつつ、柔からい嫁の髪を梳くように撫でる。
本当に一体嫁には何を返そうか。
彼女はいつもたくさんのものを自分に与えてくれる。
それは他愛のない会話だったり、触れ合う温もりだったり。
日々の食事だったり、毎朝取り換えられている洗面台のタオルだったり、家に誰かいるという安心感だったり。
これからもこんな穏やかで何ものにも代えがたい日常を過ごしていけるのだという未来だったり。
お前がが望むものはなんでも叶えてやりたいんだけどなあ、なんて。
すっかり寝入ってしまった嫁には聞こえいない呟きだろう。