第七十話
――勇者とは、逃げる者である――
この街を包んでいた空気は一変した。統制されていた魔物たちという、見た者全てを怯えさせるものから、血飛沫や怒号に溢れたものへと。
「何……これ?どういうこと……?」
ボクが呆然と見詰める先では、橙色の狼もどきがと黄金の虎、他にその場に居た数多くの魔物たちが殺しあっていた。特に中型・小型の魔物は殺し合いの開始とほぼ同時に骸に変えられていた。ボクを治療した紅色のリスも、言うまでもなく。
魔物たちは争ったまま、ボクたちの方を見ることはなかった。別にボクたちは隠れているわけではなかった。ただ、魔物たちが魔物を殺すこと以外に裂ける意識がなかっただけだった。抑圧されていた殺戮欲求が解放され、嬉々としてお互いを殺しあっていたから。
大規模な魔法が次から次へと繰り出され、死体が次々に量産された。振るわれる爪牙が魔物たちの四肢を切り飛ばし、その肉を食らって力に変えていった。
ここに居ると、直接狙われなくとも、大規模な魔法に巻き込まれて死ぬ恐れが大きかった。だからボクは、胸の中で震えているネミコの手をとって、その場を離れていった。不敵さが消えて、魔物に怯えている一人の少女と。
「はっ、はっ、はぁっ……!」
ボクたちは走っていた。戦闘音がする場所を避け、動かなくなった魔物の死体を踏みつけながら、大型の魔物たちが争っていた場所から少しでも遠くへと向かっていた。ネミコから受けた傷がじわじわ痛みながらも、歯を食いしばって耐えていた。
「がぁふぁっ!?っづぅ!」
どこからか飛んできた魔物の死骸を避けきれず、その勢いを受けてボクは転倒した。ぎりぎりで手を放せたおかげでネミコは転倒せずに済んだが、煽りを受けてその場に座り込んだ。
体をより赤く染めていく新鮮な血を振り払いながら、邪魔なゴミを蹴飛ばして立ち上がった。ベタつく体を不快に思いつつ、右手に付着した血だけを服で拭い取った。そして、ネミコに右手を差し出した。
ネミコは一瞬のためらいも見せずにボクの手を取った。ボクたちは再び駆け出した。
息も絶え絶えになりながらも、ボクとネミコは街の外に出ることが出来た。今、五体満足でいられることが不思議でしょうがなかった。幾度となく死の危機に瀕していながらも、ボクたちは生き残った。
呼吸を整えているボクの側で、ネミコはボクの服を掴んだまま街を振り返って見ていた。何を考えているのか、ボクは聞こうとは思わなかった。その悲しげな横顔に、ボクは何かを訊ねようという気をなくしていた。
その瞬間、背後から爆音が響いた。振り向いたボクが見たのは、更地と化した街の残骸だった。見晴らしのよくなった街の中で残っていたのは、もう数えられる程の数しかいない大型の魔物だけだった。その中には、橙色の狼もどきも居た。
「ネミコ、ここは危ないから離れるよ。それでいい?」
何も言わず、ただ頷いたネミコの手を引いて、ボクは街を背にして走り出した。荷物など殆ど残っておらず、軽くなった体を存分に生かして。
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