第三話 最後のリサイタル
――けれど。
そこでふと、新たな疑問が頭をもたげる。
佳乃は顔を上げ、カウンターの前にたたずむ半透明のピアニストを見据えた。
満たされた魂は、未練を残さずに境界を越えていく。それならば――。
「……司さん」
「何だい?」
「あなたは? どうして、この世に残っているの?」
「わからない。」
「え?」
「分からないんだよ。僕は生前、誰も愛さなかった。ピアノに関しても、自分の望み通りの演奏をして、望み通りの評価さ。僕の演奏には余計なものは何も込めずに、ただ機械のような演奏をした。誰にも僕の音楽はわかってもらえなかったけどね。でも誰にわかってもらう必要もないのさ。
未練なんて何もない。だけど、先に進めないんだ。何故かこの世にとどまり続けている。」
司はどこまでも淡々と、自嘲の笑みを浮かべたまま両手を広げてみせた。
まるで、自分という存在そのものが無機質なシステムエラーであるかのように。
しかし、その冷え切った指先は、宙でかすかに震えていた。
佳乃の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
いま目の前で「誰も愛さず、何も望まなかった」とうそぶくこの男の姿と、生前、彼が毎日のように語っていた【あの言葉】が、鮮やかに重なり合う。
「……嘘よ」
佳乃の声は小さかったが、部屋の湿った空気を切り裂くような確信に満ちていた。
「嘘? 僕がかい?」
「ええ、未練はあるわ。誰にもわかってもらう必要は無いと言ってるけど、あなたは誰かにわかってほしいんでしょ。
この録音には温もりも、情感も何も混じっていないと言ったわ。『絶対的な秩序とノイズの排除』だなんて……そんなの、自分を甘やかしているだけの悲しい嘘よ!」
司の半透明の眉が、ピクリと跳ねた。
生前、観客の前に姿を現すのをやめ、密室のスタジオ録音だけに引きこもり、批評家たちのどんな言葉も「雑音」と切り捨てて死んだ男だ。その彼の聖域に、目の前の女が正面から踏み込んできたのだ。
「……言葉に気をつけなさい、お嬢さん。僕は生涯をかけて、演奏から生身の人間という汚烈なエゴを削ぎ落としてきたんだ。だからこそリサイタルを拒絶し、スタジオの静寂の中で、ミリ秒単位の打鍵と音響設計だけに命を削った。僕の音楽に『心』なんていう曖昧な泥が混ざっているはずがない」
「いいえ。混ざっているわ。……だって、私、彼から聞いていたもの」
「なんだって」
佳乃の言葉に、司は息を呑んだ。
「彼……急に逝ってしまったあの人がね、生きている頃、毎日このCDを聴きながら私に言っていたの。
『リサイタルを完全に止めて、スタジオに籠もりきった孤高の天才ピアニストがいる。世間は彼のことを【血の通っていない精密なメトロノーム】とか【冷酷な音の機械】なんて呼んで叩いていた。……だけどね、佳乃。八神司は違うんだ』って」
佳乃は涙を拭い、まっすぐに司の凍りついた瞳を見つめ返した。
「彼はこう言っていたわ。
『俺にはこう感じられるんだ。八神司の演奏はね、たしかに不純物を削ぎ落とそうとしている。でも、それは機械のような演奏を目指してるんじゃない。削ぎ落として、削ぎ落として残ったクリスタルのようなメロディラインに自身のパルスを乗せている。完全に透明な下地だからこそ、彼の壊れやすい薄氷のような繊細なパルスを乗せれるんじゃないかなと。
リサイタルを止めてしまったのも、きっとそういう理由だと思う。いつでも再現できるとは限らないから。
誰よりも音が傷つくのを恐れて、誰よりも純粋な演奏をする人なんだ。あんなにも狂おしく一途な想いを音に込められる人間を、俺は他に知らない』……そう言って、彼は愛おしそうに目を閉じて、あなたのショパンを聴いていたのよ!」
――ガツン、と。
目に見えない衝撃が、司の身体を貫いた。
「あなたは、想いが届かないのが怖くて、一切の説明も主張もせず、ただ冷たい機械のフリをしてスタジオに逃げ込んだのかもしれない。だけど、あなたが命を削って鍵盤に触れたその一音一音には……最初から、狂おしいほど一途な『誰かに届いてほしい』という心が、溢れ出していたんじゃない!」
静寂。
雨音だけが、ガランとした部屋に重たく響き渡る。
司は、自分の光り輝きながら揺れる半透明の手のひらを見つめた。
生前、誰にも言わなかった。言ってしまえば、自分が、演奏に込めたパルスが傷付く気がして。誰にもわかってもらえないと思っていた。
誰の拍手も信じず、誰の評価も拒み、「自分は冷酷で完璧な機械だ」と自らを欺き続けて死んだ男。
だが、見知らぬ一人の男が――命を絶たれる直前まで、自分の演奏を愛し理解してくれた男がいた――司の偽りの機械の仮面の底にある、彼自身だれにも説明すらしなかった『傷つきやすい純粋なパルス』を、最初からすべて見抜いて分かってくれていた。
司は動揺を抑えることができず、振り絞るような震える声で聞いた。
「彼は音楽家だったのかい?」
佳乃は言葉を続けた。
「あの人はね。作家だったの。よく言っていたわ。万人に理解されなくてもいい。たった1人の心にでも届くなら、作品を書く価値はあるって。あなたもそうだったんでしょ。でなければ、そんなに叩かれて演奏を続けられるわけないわよ」
(……ああ、そうか)
司の胸の奥で、生前に固く閉ざしていた「一番重い扉」が、音を立てて崩れ落ちていく。
(僕は……自分の音が届かないのが怖くて、冷たい機械のフリをして逃げていたんだ。
だけど、僕の音は……ちゃんと届いていたんだな。この男に。そして、この女性にも……
ははっ、それにしても作家とはね。どの音楽家にも分かってもらえなかったのに。)
司の目から、すっと透明な滴がこぼれ落ちた。
「……参ったな。完敗だよ」
司は目元を片手で覆い、自嘲混じりの、けれど生前一度も見せたことがないほど人間臭く、温かい笑みを漏らした。
「観客を逃げ回った僕が……死んでから、こんな狭い部屋で、あの男と君という二人だけの熱狂的な聴衆に、完全論破されるなんて」
「……そう言えば、ずっと不思議だったんだ」
透き通り始めた己の手を見つめながら、司がふっと首を傾げた。
「僕はね、幽霊になってから一度だって、誰の前にも現れたこともなかった。現れる理由も全くなかったし、気力もなかった。だって、生きている時ですら人から逃げ回っていたんだ。
……なのに今日、どうして僕は雨の泥を引っかぶってまで、この部屋に現れたと思う?」
佳乃は息を呑み、司を見つめた。
「何かに、背中を押されたんだよ」
司は柔らかく、けれどどこか呆れたように目を細めた。
「空の彼方でね、すれ違ったんだ。深紅に輝く光体、天へと昇っていく魂と。
あれは光の速さで上へ上へと登っていく途中で、意識なく漂っていた光体の僕を、思いきり突き飛ばしていった。
微かだったけど、たしかに聞こえた『頼む」と。
そして、気付いたらこの辺にいたんだ。」
佳乃の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「……自分は未練を残さずに綺麗に逝くくせに、残される君のことだけが心配でたまらなかったんだな。だから、自分の代わりに、僕を君の元へ送り込んだんだ。……本当に、図々しくて、胸がやけるほど強い愛じゃないか」
司は静かに笑い、空を仰いだ。そして、静かに笑い、ゆっくりと部屋の中央へと歩み出た。
そこには、家具も、もちろんピアノすらもない。
「……お嬢さん。僕はリサイタルを、止めてしまったけど――」
司はそっと右手を掲げ、何もない空間に、すっと十本の長い指を滑らせた。
宙を撫でる彼の指先。その動きに合わせて、
――ポーン、と。
透明で、どこまでも温かい一音が、ガランとした部屋の空気を震わせた。
佳乃は息を呑んだ。
雨音ではない。スピーカーからの音でもない。
この部屋の空気そのものが、新築の壁や床が、司の指先に答えるように美しく共鳴(鳴)り始めていた。
司は静かに目を閉じ、宙空の鍵盤を叩き始める。
それは、彼が生涯でたった数回だけ披露する、ライブ演奏、「最初で最後の人に向けた本気のリサイタル」だった。
奏でられるのは、ショパンのノクターン第2番 変ホ長調 Op.9-2。演奏の始まりとともに、雨音が静かに消えていく。
部屋全体が、世界で一番贅沢な共鳴箱へと変わり、佳乃の全身を、冷えた心を、優しく包み込んでいく。ホールと化した部屋の中を音が駆け回る。
それは、いつも聴いているCDに収録されていたのと同じあの冷たく正確な音だけど、まるで違って聴こえた。
一音一音に、彼が押し殺してきた情熱と、佳乃と、そして佳乃を救おうとした亡き彼への感謝が、感じられる。冷たく機械的な一音一音、音の一粒一粒に、あたたかな熱が内包されていた。
佳乃には、透きとおった司よりも更に薄く微かにだけど、彼の弾くピアノが見えた。そして、ピアノから拡散する音の粒達。
司の右手、その優雅な指先から、歌うように軽やかで美しいメロディが生み出される。 左手は一拍ごとに柔らかな低音を響かせ、その低音のすぐ後を絶妙なタイミングで、アルペジオの軽やかにほどかれた和音が光の粒子のように追っていく。
シンプルだが優美で甘美な主旋律が押し寄せる光の波のように幾度も満ち引きする。その光波は巡りくるたびに、旋律の軌跡の中に装飾音を細かな光彩として徐々にまとっていく。小鳥のさえずりを思わせるトリルや、優雅なうねりのターン、それらがその調べに、幾重もの眩い刺繍を施していった。
司の正確な打鍵から生み出される、精密に大きさの揃った音の粒が、一斉に空間を満たしていく。それらは打鍵に合わせて方向を変え、奇跡的なタイミングで、お互いに衝突せずにすり抜けていき、花びらのように、空間で弾けて消えていく。
涙が、佳乃の頬を次々と伝い落ちた。
それは最近ずっと泣いていた時の辛く苦しい涙ではなかった。久しく感じてなかった、いや、生まれて初めてかもしれないほど胸の奥が熱くて、愛おしくてたまらない涙だった。
最後の和音が美しく部屋の中に響き渡り、やがて静かな余韻となって溶けていく。
司はゆっくりと指を離し、生前のどのステージでも見せなかった、深く美しいお辞儀をした。
「……僕の生涯最後の演奏を、聴いてくれてありがとう」
「……いい演奏だったわ、司さん。私が聴いた中で、一番の演奏だった」
佳乃が心からの微笑みを浮かべたその瞬間、司の身体が足元から静かに光の粒子となって揺らぎ始めた。
「あ、司さん」
「何だい?」
「きっと、あの人があなたをここによこしたのは……私のことだけじゃなくて、あなたのことも救ってあげてほしかったからだと思うの」
司がふっと目を見張り、それから柔らかく笑う。
「……あいつには、最初から最後まで敵わないな」
司は、笑みを浮かべたまま
足元から静かに、朝の光に照らされた雨の粒となって、世界の境界線の向こうへと溶けていく。
視界が白く爆ぜる中、司はただ、穏やかに微笑む佳乃を見つめていた。
薄れゆく意識の淵で、彼は、この世界の美しくも残酷な「システム」に想いを馳せる。
(――この世の摂理は、よくできている。)
(深い悲しみや、激しい憎しみ。人間の心が激しく擦り切れて、世界の境界線に『穴』が空いたとき、僕たちみたいな迷子(幽霊)がそこに吸い寄せられる。)
(世間の大半の怪異との出会いは不幸だ。穴から溢れた泥のような感情に、死者の怨念が火をつけて、お互いを破滅させて終わるのがオチだ。)
(だけど、きっと神様だか世界だかがこのシステムを作った本当の理由は、これなんだ。)
(擦り切れた生者の心と、やり残した死者の未練。)
(虚空を彷徨う粒子と反粒子が、奇跡みたいな確率で出会って眩い光を放ち、対消滅するように。僕たちはこうしてお互いを埋め合い、救済し合うことができる。)
(彼らの深い愛が、僕の歪んだ未練を綺麗に調律してくれた。)
(……うん。)
(大雨の日のバグにしては、上出来な、本当に美しいショパンだったな)
彼が最後に浮かべた表情は、生前のどのポートレートよりも、穏やかで満ち足りたものだった。
ふ、と彼の気配が完全に消えた、その瞬間。
――チク、タク、チク、タク。
耳元で、心臓の鼓動のように大きな音が跳ねた。
壁掛け時計が、何事もなかったかのように秒針を刻み始めている。
窓辺のCDプレーヤーも、静かにデジタルの光を灯し、止まっていたショパンのトラックを「ゼロ」に戻した。
夢から覚めたように、完璧な現実の静寂が、再び部屋を満たしていく。
けれど、さっきまでのあの凍えるような冷たさは、もうどこにもなかった。
「……ふふ」
佳乃の唇から、小さな笑い声が零れた。
本当に、不思議な幽霊だった。
愛も知らない、自分の未練さえわからないと言っていた、不器用なピアニスト。
彼はただ、自分のために最高の演奏を遺して、綺麗に旅立ってしまったのだ。
「ありがとう、司さん」
そう呟いて、佳乃は静かに立ち上がった。
いつの間にか、窓を叩く雨音が小さくなっている。
灰色のカーテンを引きちぎるようにして、雲の切れ間から、一筋の鋭い太陽の光が射し込んできた。
光は窓ガラスを透過し、新築の乾いたフローリングを、まばゆい金色に染め上げていく。
佳乃は窓辺に歩み寄り、鍵を開けて、窓を大きく押し開いた。
――なだれ込んでくる、雨上がりの潮の匂い。
遠くで波が崩れる音。坂道を駆け下りていく水のせせらぎ。
世界には、こんなにもたくさんの、優しくて温かい「生活の音」が溢れていたのだ。
佳乃は、窓の向こうに広がる、光を反射してキラキラと輝く瀬戸内の海を見つめた。
彼はもう、ここには来ない。
けれど、このからっぽの部屋に、いつか家具が揃い、新しい日常が始まるその日まで、佳乃はここでしっかりと生きていける。
だって、この世界で一番、自分は彼に愛されていたのだから。
彼女は深く、深く、新しい海の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
雨は、もう上がっていた。




