第1話 雨音のピアニスト
本作はガゼボの「I like chopin」を聞いて、執筆のイメージを得ました。
可能ならば、BGMとしてかけながら読んでいただけると幸いです。3話完結です。
瀬戸内の海を見下ろす、坂の上の高台にその小さなアパートはある。デザイナーズコンセプトのアパートで、少し洒落た特徴的な外観をしている。
新築特有の真新しい木と接着剤の匂いが残る1LDKのリビングには、本来なら二人で選んだ家具が並ぶはずだった。
南側の一面は大きな引き違い窓になっており、晴れた日なら瀬戸内海の穏やかな波打ち際と、遠くに浮かぶ島々のシルエットが一望できる。
しかし、雨の日の今日は、ガラス窓の向こうに雨のカーテンに煙る灰色の海から灰色の空が続き、空と海の境界線が溶けてしまっている。そして、時折、激しい雨粒が窓を叩きつけている。
佳乃は、空っぽのリビングの冷たいフローリングに膝を抱えて座り込んでいた。
まだ開けていない段ボール箱が一つだけ部屋の隅に置かれ、その上には使い込まれた革巻きの万年筆と、途中で頁を閉じたままの分厚い創作ノートが無造作に載せられている。
窓辺にぽつんと置かれたCDプレイヤーからは、亡くなった彼が好きだったショパンの『雨だれの前奏曲』が雨音に紛れて流れている。彼が好きだったピアニスト、よく彼がこの曲の魅力を語ってくれていた思い出の1枚。でも、その彼はもういない。
深い喪失に囚われた彼女の耳には、その旋律は意味の無いノイズのように心の表面を滑り落ちていくだけだった。
彼が半年前に事故で逝ってしまってから、この世界からすべての色彩や温もりが消えてしまった。五感はあたかもフィルムの膜のような物で外界から緩やかに遮断され、生活の全てが虚構と化し、現実感を失っている。
逢いたい。たったもう一度だけでいいから、あの人の肌に触れ、その優しい声が聞きたい。そんな叶うはずのない祈りを抱いて、あふれる涙に滲むフローリングの木目をぼんやりと追っている。
どれくらい時間が経っただろうか。いつの間にか、CDプレイヤーのディスプレイは消灯し、スピーカーからの音は途切れ、部屋には窓に叩きつける雨音だけが響いていた。
ふと気づくと雨音がおかしい。意識して音に注意を向けると、窓を叩く不規則なはずの雨音が、歪に揃っていくのがわかった。タン、タン、タタン、タタタン。
その打音のリズムは、収束と拡散を繰り返しながら、心の奥底の不安を掻き立てるように、うねるような不協和音を奏で始める。
その時、背後に何かの気配が落ちた。ゾッと背筋が凍りつき、怖くて後ろを振り向けない。涙に滲んだ目の端でその気配を追うが、暗がりだけが淀み、漂っている。おかしい。雨の日とはいえ、部屋はこんなに暗くなかったはず。
恐怖に抗って、身体を少しずらすと、右後方にあるダイニングのカウンターテーブルが見えた。設えつけのハイチェアーに何かが座っている。淀んだ闇と雨粒が凝縮して形を成そうとしている。
形を取ったそれは、腕をあげる。その先には白く細い指があり、あたかもピアノを、弾くかのように動かした。
それに合わせるかのように、不快だった雨音が姿を変えていく。散らばっていた水滴の音が混じり合い、繊細で美しいが冷たい旋律となって、静かな部屋に響き始めた。それはさっきまで聴いていた彼が好きだったショパンの曲だった。
それは、通常ではありえない超常現象。誰が見ても、紛れもなく、恐怖を伴う怪異だった。しかし、佳乃の恐怖は、別の圧倒的な想いに上書きされ、一瞬にして散じた。
この曲はあの人の好きだった曲。奇跡だ。奇跡は本当にあったのね。私の祈りが通じて、あの人が二人の約束の部屋に帰ってきてくれた。
「……ああ」
思わず声が零れた。
幽霊でもいい。もう一度あの人に会える。
だったら――。
「あなたなのね!?」
佳乃は呪縛から解かれたように床を蹴り、ダイニングに駆け寄った。
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出すはずの異形の存在に、彼女は涙を溢れさせ、縋りつくように両手を伸ばした。
約束の場所だ。彼は、幽霊になってでも、私との約束を守って帰ってきてくれたのだと信じて疑わなかった。
「ねえ、帰ってきてくれたんでしょう!? ずっと、ずっと待って――」
けれど。
伸ばした佳乃の両手は、冷たい霧を裂くように、ただ空をきる。怪異の輪郭は、霧が散ったように一瞬霧散したが、再び集いもとへと戻る。
ハッと息を呑み、佳乃は涙で濡れた瞳を凝らす。
こちらを見下ろしている顔が見えた。
それは、端正だが、佳乃が愛した彼とは、似ても似つかない、全く見知らぬ若い男の顔だった。
宙に浮いた佳乃の指先が、行き場をなくして震える。
世界が一気に暗転し、奈落の底へと突き落とされるような感覚。
「……あ」
佳乃の唇から、かすれた声が漏れた。
「……だれ、ですか……?」
見知らぬ幽霊――は、鍵盤のように白く細い指先をすこしだけ気まずそうに動かし、雨の旋律をわずかに乱しながら、静かに彼女を見つめ返していた。
「がっかりさせて悪かったね。君が待っていた『彼』じゃなくて。
僕は八神司。……と言っても、生きてる人間ではない。今はただの『死んだピアニスト』だけど」
生前を象徴する姿なのか、濡れ羽色の髪と一体化した黒一色のスタイル、シャツからタイ、ジャケットにいたるまで全てを黒一色で統一した気高き佇まいが、彼の持つ「夜」のイメージと、近づきがたい孤高の天才感を強調していた。
漆黒の布地は、彼の透き通るような白い肌を鮮烈に浮き上がらせ、純白の手首と指先だけが、闇の中で踊る光のように際立っている。




