五日目—朦朧
今日は土曜日。そう、土曜日だというのに、コンペ直前の追い込みで休日出勤が決まっていた。締め切り前の小さな広告代理店に、まともな週末など存在しない。
世間は休日なので電車はいつもより少し混んでいる。動画配信サイトを開くが通知欄には何の知らせもない。毎日投稿を信条にしている『不可視領域』が、今日は動画を投稿していない。昨日の動画を思い出す。
(俺の知らないとこで炎上とかしてたのかな……それとも、やっぱりスコトーマ外しが実はヤバいものだったとか……)
吊り革に掴まりながら、俺は意図的に窓の外を見た。いつものビルの谷間。いつもの空。いつもの雲。
——いつもの、はずなのに。
雲の形が、昨日よりもさらに立体的に見えた。いや、立体というよりは——「層」になっている。同じ空の中に、いくつもの空が重なっているような。手を伸ばせば触れられそうな、厚みのある雲。
俺は目を擦った。もう一度見る。雲は普通の雲に戻っていた。
(やっぱり疲れてるんだ)
改札を出て、いつもの道を歩く。いつもの角を曲がる。いつもの交差点。
赤いポストは、相変わらずそこに立っていた。
俺は視線を逸らした。見ない。見ないぞ。見ようとしない。意識しない。
だが、視界の端に映るそのシルエットが、妙に「目立つ」。周囲の建物や電柱や信号機の中で、だけどそれらと「違う」何かとして、脳が認識してしまう。
(シロクマ効果……)
頭の中でその言葉がこだまする。一度思い浮かべてしまったら、もう「考えない」ことはできない。
信号が青に変わる。俺はポストから目を背けたまま、人波に紛れて歩き出した。
***
会社では、いつものように仕事をした。いつものように田中と話した。いつものように会議に出た。いつものように資料を配った。
——いつもの、はずなのに。
会議室のホワイトボードに書かれた文字が、時々「歪む」。いや、歪むというよりは——「動く」。文字が這いずるように位置を変え、また元に戻る。一瞬のことだ。誰も気付いていない。俺だけが、一瞬だけ見ている。
「——ということで、今回のキャッチコピーは」
部長の声が遠くで聞こえる。俺は資料の裏面を見た。昨日の走り書きは消えていた。いや、そもそもそんなものあっただろうか?
「佐藤さん、どうしたんですか?顔色悪いですよ」
隣の田中が小声で言った。
「ああ、ちょっと眠くて」
「またですか。本当に病院行った方がいいっすよ」
「……そうだな」
俺は笑ってごまかした。だが、その笑顔が引きつっているのは、自分でもわかっていた。
***
昼休み、俺は一人で屋上に出た。
いつものように、スマホで動画を見ようとした。通知に『不可視領域』の新着動画があった。
チャンネルのページに飛ぶと、新着動画のサムネイルは真っ暗で、タイトルはただ『すみませんでした』とだけ書かれている。
俺は、一瞬ためらった。見るべきか。見ないべきか。
だが、指は既に再生ボタンを押していた。
画面に映る黒瀬理は、いつもの小綺麗な書斎にはいない。暗い部屋で、手ブレするカメラ——おそらくスマホの内カメラに向かって、極限の恐怖で顔を歪めている。眼鏡は歪み、目の下には酷いクマがある。
『僕の動画を見てスコトーマ外しをしてしまった人たち……本当にすみませんでした。僕は大変なことをしてしまった。「奴ら」に気付いてしまった。気付かせてしまった』
『「奴ら」は、透明人間のような存在ではありません。人間の脳が、勝手にスコトーマを発動させて、奴らを見ないようにしているだけなんです。……奴らは何もしていない。ただ、そこにいるだけ。問題は僕たちの脳の方なんです。』
『奴らは人間の認識能力では処理できない構造をしている。だから、脳が「それを見たら発狂する」と危険判定を下して、無意識に、強制的に……街灯、ベンチ、植木鉢……そういう、「無害な日常品」に脳内で上書きしているんです。本当は、そこにそんなものはないのに。ないのに、あると誤認させることで、僕たちの正気を保たせていた……』
『なのに、僕が、そのフィルターを外す方法を教えてしまった。一度意識してしまったら、もう元には戻せない。脳が「日常品」として上書きするのをやめてしまう。脳の防衛システムが、壊れてしまうんです……!』
(黒瀬が、自分の背後を振り返り、悲鳴に近い声をあげる)
『ほら……そこにも……あれは本棚じゃない……本棚なんかじゃ……うあ、あああ!』
(画面が激しく揺れ、何かが倒れる鈍い音が響き、動画が突如として途切れる)
動画が終わる。画面が暗くなる。
俺は、スマホを握りしめた。手が震えている。
「……ハハッ、これアレだろ?やらせ動画。そうだよ、そうに決まってる……」
俺は屋上の手すりにもたれかかり、空を見上げた。いつもの空。いつもの雲。
——いつもの、はずなのに。
雲の「層」が、今日はさらに明確に見えた。手を伸ばせば、確かに触れられるような。
***
帰り道が、いつもより長く感じられた。
いつもの交差点。いつもの信号待ち。そして——いつものポスト。
(見ない、見ない、そっちは見ない)
だが、視界の端のポストの表面が、微かに「動いている」ように見えた。いや、動いているのではない。——「呼吸」しているように見えた。金属の表面が、生き物の胸のように、規則正しく膨らみ、縮む。
驚いて思わずポストの方を見てしまった。その瞬間、ポストの表面に『何か』が浮かび上がった。目のようなもの。口のようなもの。いや、人間の目や口とは全く異なる、幾何学的な構造。見るだけで頭痛がするような、異次元の形状。
だが、それは一瞬だけだった。次の瞬間には、また普通の郵便ポストに戻っていた。
俺は、手を伸ばした。
指先がポストの表面に触れる。冷たい。金属の質感。ところどころサビが浮いていてザラザラする。だが、どこか生き物の肌のような、ぬるりとした感触。金属の質感も、触れた瞬間にヌルヌルと変質する。
脳が必死に『郵便ポスト』として解釈しようとしているのが、手に取るようにわかる。
「……何だ、お前は」
俺は、声を出していた。『ポスト』は答えない。
信号が青に変わる。俺は慌てて手を引っ込め、人波に紛れて歩き出した。振り返らなかった。振り返りたくなかった。
なぜなら——振り返れば、もうそれがポストではなくなっている気がしたから。
***
帰りの電車は、いつもより混んでいた。
吊り革に掴まりながら、俺は周りを見回した。いつもなら人の顔なんて見ない。スマホの画面に目を落とすか、窓の外を見るか、あるいはただぼんやりと立っているだけ。
だが今日は、違った。
隣に立っている男を見た。スーツを着た、四十代くらいの男。薄い髪。眼鏡。手にはブランドもののバッグ。何の変哲もない。どこにでもいる、普通の会社員。
——本当にそうか?
俺は、もう一度見た。男が瞬きをしていないことに気付いた。その瞬間、男の輪郭が溶けて背景のつり革と同化したように見えたが、次の瞬間にはまた普通の男に戻った。
男を凝視しようとすると、こめかみに鋭い頭痛が走った。視界の端がぐにゃりと歪み、強烈な睡魔のような、意識を遠ざけようとする重力が脳を襲う。
「見るな。それ以上見てはいけない。理解してはいけない」
俺の脳が、最後の防衛システムを全力で稼働させて、その男から俺の視線を、意識を、引き剥がそうと悲鳴を上げている。
だが、俺は見てしまった。見てしまったから、もう見なかったことにはできない。
電車が揺れる。男はつり革に掴まっている。だが、瞬きをしない。まばたきを一度もしない。ただ、前を向いている。眼鏡の奥の目が、何も映していない。
——いや、映している。俺を映している。俺が見ていることに気付いている。
男がこちらを向いた。ゆっくりと。首が、きしむように動く。眼鏡の奥の目が、俺をまっすぐ見つめる。
そして——
笑った。
「……気付きましたか」
声は聞こえなかった。男の口が動いただけだ。だがその言葉は、脳内に直接響いたように感じられた。
俺は飛び退いた。背中が他の乗客にぶつかる。謝ろうと振り返る。
——そこに、誰もいなかった。
男は消えていた。いや、そもそもそこに男がいたという証拠がない。周りの乗客は誰も怪訝な顔をしていない。誰も、俺の異常な行動に気付いていない。
まるで俺だけが、あの男を見ていたかのように。
次の駅で、俺は電車を降りた。足が震えていた。冷や汗が背中を伝う。
***
部屋のドアを開けると、クロがいつものように玄関で待っていた。
「ただいま」
俺が声をかけると、クロは尻尾を立ててすり寄ってきた。いつもと変わらないクロの様子を見てひどく安心感を覚える。
「そうだよ。何でもない、何ともない……ほら、いつもと変わらない、全部」
部屋は六畳のワンルーム。
玄関脇には冬のコートが掛けっぱなしになっているコート掛け。しわくちゃの布団が広がっているベッド。角が擦り切れたくたびれたソファ。その後ろにある世話をサボり気味の観葉植物。最後に着たのがいつだったのか最早思い出せない上着が背もたれに掛けっぱなしの椅子。買ったまま読んでいない小難しい小説や、何年も前に読んだきりの古い漫画が入っている棚。傷だらけのローテーブル。テレビや小物が置いてあるスチールラック。その隣に置いてある——
……何だ、これは。
洋服タンスのはずだ。洋服タンスのはずだった。
黒くて四角い何かがあった。木製の、古びた。高さは俺の背より少し高くて。表面は磨き込まれていて。部屋の明かりを反射している。扉が二枚。観音開きの何かが、棚と壁の間にピッタリと収まっている。
(そもそもこれはいつからここにあった?絶対に俺が置いたものじゃない)
引っ越してきた日には確実にこんなものなかった。こんなものがあったらすぐに気が付いて疑問に思うはずだ。もちろんこんなものを買った覚えもない。
あたかも元からここにあった家具の一つですけど?みたいな面をして、堂々と俺の部屋にいる。
こんな不自然なものを、何故俺は今まで気にも留めていなかった?
だが同時に「前からあった気もする」という感覚が、妙に自然に胸に収まっている。それが尚更恐ろしかった。
俺は近づいて手を伸ばした。黒くて四角い……いや、四角いと認識しているだけで、実際は角度が何度も折れ曲がっている。正面から見ているのに、側面も同時に見えている……ような気がする。
指先が黒い表面に触れる。冷たい。木の質感。だが、どこか生き物の肌のような、ぬるりとした感触。木製の質感も、触れた瞬間にヌルヌルと変質する。
脳が必死に『洋服タンス』として解釈しようとしているのが手に取るようにわかる。
扉を開けようとした。だが、手が止まった。
(開けたら、何かが変わる)
直感だった。開けてはいけない。開けたら戻れなくなる。今までの日常が、今までの『見えていなかった』世界が、全部変わってしまう。
俺は手を引っ込め、布団に倒れ込んだ。目を閉じた。あれは『洋服タンス』だ。見え方や感触がおかしかったのは、きっと疲れてるんだ。明日になれば、きっと思い出せる。あれはいつか自分で買ったもので、俺がずっと忘れていて、ただ今気が付いただけだ。
俺は疲れてるんだ。そうに違いない。
だが、目を閉じても、洋服タンスの存在感が背中に感じられた。そこに立っている。黙って。ただ、そこにいる。
その夜、クロはいつものように足元で丸まって寝た。だが、何度も何度も、洋服タンスの方角を振り返っていた。




