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四日目—違和感

 翌日も、朝はいつも通りだった。


 金曜日。鳥の鳴き声。カーテンの隙間から差し込む朝日。スマホのアラーム。

 目を覚ますと、俺が寝ている間にベッドの下から出てきたのか、クロはベッドの上にいた。いつものように俺の足元に丸まって、黄色い目を細めて俺を見上げている。


「……おはよう、クロ」


 クロは「ニャア」と短く鳴いた。いつもの鳴き声。いつもの返事。俺は安堵の息を吐いた。

 昨夜のことは、きっと疲れのせいだ。洋服タンスに虫がいただけで、クロが驚いただけ。それが俺の疲れた脳を通したら、妙に不気味に感じられただけ。


 そう、そうに違いない。


 俺はベッドから降り、着替えをし、クロの餌を補充してから部屋を出た。ドアを閉める前に、ふと振り返った。クロは餌入れに向かう途中で立ち止まり、洋服タンスの方を——いや、違う。窓の外を見ていただけだ。


(気にするな)


 俺は首を振って、ドアを閉めた。


 ***


 朝の通勤電車の中で動画配信サイトを開く。『不可視領域』の新着動画の通知。だが、その内容はこれまでの解説動画とは一線を画していた。


 タイトルは、『お詫びと削除のお知らせ』。画面の中の黒瀬理は、いつもの冷静な雰囲気ではなかった。カメラの画質は荒く、彼の視線は小刻みに泳ぎ、言葉がたどたどしい。


『ええと……突然ですが、皆様に謝罪とお知らせがあります。これまで公開してきた「スコトーマ外し」に関する一連の動画ですが、チャンネル運営上の、その……深刻なトラブルが発生したため、本日をもちましてすべて削除いたします。私の不用意な解説で、視聴者の皆様に多大なご迷惑をおかけしたことを、深くお詫び申し上げます。どうか、お願いですから……動画の内容はすべて忘れてください。見たものを、見たと思わないでください……』


 動画はそこで唐突に途切れ、そのまま終了した。

 その日の午後、俺と田中は外回りで近くの取引先に向かっていた。並んで歩きながら、自然とその動画の話題になった。


「佐藤さん、あの動画見ました? 黒瀬さん、明らかに様子がおかしかったですよね。脅されてるっていうか、何かに怯えてるみたいな……」


「ああ……不気味だったな。動画も本当に全部消えてたし」


「スコトーマ外しなんて、やっぱりやらない方がよかったんでしょうか……」


 田中が不安そうに呟いた。その時、二人はあの交差点に差し掛かり、信号待ちの列に並んだ。視界の端に、あの赤いポストが映る。見ないようにしていたのに、意識がそこへ引っ張られる。


「……佐藤さん」


 田中が、前を向いたまま呟いた。


「あんまり見ない方がいいっすよ」


「え?」


「あんまりっていうか、見ないでください。見ちゃ駄目っす。これからもここ通るときは絶対に、そのポストの方は見ないでください」


「……田中……?」


 田中は一瞬言おうか言うまいか迷っているような様子で口ごもって、意を決したように口を開いた。


「あれは、『ポスト』じゃないっす」


「……」


 何も言えなかった。いつもなら「なーに変なこと言ってんだよお前」と笑い飛ばしていただろう。だが、今の田中の言葉には妙な説得力があった。


(あれがポストじゃないなら、あのおばあさんが出した郵便物はどこに行ってしまったんだろう)


 俺はそんなことを考えて、背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒が走るのを感じた。


 ***


 その日の夜、深夜二時過ぎに俺は目を覚ました。

 部屋の中は暗闇に包まれている。ふと、右の頬のすぐ横に、柔らかく温かい、モフモフしたものの感触があることに気付いた。


(ああ、クロか……)


 いつもなら足元で丸まっているはずのクロが、珍しく俺の顔のすぐ横で眠っているらしい。くすぐったいような、でも心地よい暖かさに、俺は微かに目元を緩めた。


「いや、でもそこはちょっとくすぐったいって、クロー……」


 眠気を孕んだ声で語りかけながら、撫でようと手を伸ばしかけた、その瞬間。


「ニャー」


 ベッドの、遥か足元の方から、少し眠そうなクロの鳴き声が聞こえた。


(え……?)


 全身の血が、一瞬で凍りついた。

 クロが足元にいる。じゃあ、今、俺の顔の横で、俺の頬に触れている、このモフモフした温かいものは、一体何だ?

 俺は悲鳴を噛み殺しながら、跳ね起きるようにしてベッドの上に飛び起きた。慌ててスマホの画面を起動し、枕元を照らす。


 そこには、何もなかった。ただの平らなシーツと、枕が転がっているだけだ。ベッドの足元では、クロが目を丸くして、不思議そうにこちらを見上げている。


「気のせいだ。寝ぼけていただけだ。そうに決まっている……」


 俺は激しく脈打つ胸を押さえながら、自分に言い聞かせた。

 だが、右の頬には、今も確かに『何か』に触れられていた温かい名残が、生々しく残っていた。

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