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三日目—境界

 疲労を感じる木曜日。いつもの朝、いつもの通勤電車、いつもの——『不可視領域』の新着通知。


 タイトルは、『【心理的罠】意識の習慣化と、脳に植え付けられるシロクマ』。


 スコトーマの解説シリーズの続きだ。俺は期待に胸を躍らせながら、片耳にイヤホンを差し込んで再生ボタンを押した。

 画面にはいつもの黒縁眼鏡の男、黒瀬理。背景の本棚も、顔を照らす柔らかい照明も変わらない。黒瀬は静かな声で語り始める。


『シロクマ効果――別名「皮肉過程理論」を知っていますか』


 黒瀬はカメラをまっすぐに見つめたまま、言葉を続ける。


『人は「シロクマのことを絶対に考えないでください」と言われると、かえって頭の中がシロクマのことでいっぱいになってしまうという脳のバグのような現象です。

 脳は「シロクマのことを考えるのを禁止された」あと「自身がシロクマのことを考えていないかを常に監視し続け」結果的に「常にシロクマのことを考え続けてしまう」のです』


 画面が切り替わり、雪原を歩く一頭のシロクマの映像が流れる。


『これは、スコトーマにも同じことが言えます。一度、意識のフィルターを外して「見えていなかったもの」を認識してしまうと、脳はそれを「監視するべき重要な情報」だと学習します。すると、今度は意識がそれを探す「習慣」になってしまう。

 例えば、テレビの星座占いのコーナーで「今日のあなたのラッキーカラーは赤です」と言われると、その日一日赤いものに目が行くようになる。何となく赤いハンカチを選んでみたり、車道を走る赤い車が気になったり、お弁当に入っているミニトマトを最初に食べてみたり……一度外したスコトーマをもう一度元に戻すのは、実は極めて困難なのです。なぜなら、脳はもう「それ」の存在を、知ってしまったから』


 黒瀬の眼鏡の奥の瞳が、冷たく光ったように見えた。


『意識は習慣化します。一度開いた盲点は、閉じるのは難しい。シロクマを一度思い浮かべてしまったら、もう「考えない」ことはできないのです——さて、あなたの日常の盲点は、どれくらい開いてしまいましたか?』


 動画が終わり、電車のドアが開いた。俺はイヤホンを外し、スマホをポケットにねじ込んだ。 黒瀬の言っていた『シロクマ効果』という言葉が、妙に耳に残る。


(意識の習慣化……昨日眠れなかったのもこれのせいか、うーんスコトーマを外し過ぎるのも考えものだな)


 改札を出て、いつもの会社までの道を歩く。

 いつもの角を曲がると、道端の白い花が目に入った。今日もちゃんと咲いている。


(うっ……これも習慣化か。でもまあこれは実害は無いし……むしろ日々花の変化を眺めることで心が潤う。うん、いいことだ)


 そうポジティブに考え直す。だが、あの交差点に差し掛かった時、その感覚は一変した。


 いつもの交差点。いつもの信号待ち。 青信号を待つ人だかりの中で


 カタン


 と鈍い音が響いた。


 音がした方に目を向ける。 腰の曲がったおばあさんが、信号機のポールのすぐ横にある郵便ポストに郵便物を投函した音のようだった。 赤い、どこにでもある郵便ポスト。


(……待て。あんなところにポストなんて、あったっけ?)


 この町に引っ越してきてから、この交差点を三年間、毎日通っている。朝も、夜も。 ポストがあれば絶対に気付くはずだ。毎日目に入っているはずなのだから。

 なのに、記憶をどれだけ探っても、あの場所に赤い鉄の塊があった記憶が、一切出てこない。


 そこにあるポストは、ひどく古びていた。

 錆びの浮いた投函口。剥がれかけたシールの跡。まるで十年以上も前から、風雨に晒されながらそこに立ち続けていたかのような佇まい。


(いや、スコトーマのせいだ。あったんだよ、前から。ただ、今までここで手紙を出す用事が一度もなかったから、脳がポストを風景として完全に消去していただけだ)


 そう自分に言い聞かせ、無理やり納得しようとした。 だが、一度抱いた違和感は消えない。 俺はもう一度、そのポストを凝視した。


 ――何かが、おかしい。


 全体のシルエットが、わずかに歪んでいるような気がする。遠近感がおかしいのだ。まるで、二次元のイラストを無理やり三次元の空間に引き伸ばしたような、歪な輪郭。

 見つめていると、こめかみの奥がジワジワと熱くなり、目のピントが合わなくなるような軽い目眩がした。


「見るな」と、頭の中で誰かが警告しているような気がした。


 その時、信号が青に変わった。 後ろから来たサラリーマンに軽く肩をぶつけられ、俺はハッと我に返った。慌ててポストから目を離し、人波に紛れて歩き出す。

 心臓が嫌な音を立てて脈打っていた。もう一度振り返って確認したい衝動に駆られたが、俺は首を固定したまま、前だけを見て歩いた。


 一度意識してしまったら、もう戻れない。 頭の片隅で、動画の男の声がリフレインしていた。


 ***


 その日の仕事中、俺は何度も手元の資料を見失ったり、パソコンの画面に集中できなくなったりした。 頭痛が抜けず、首筋が凝るような不快感がずっと続いている。


「佐藤さん、なんか今日元気ないっすね。昨日あんなに調子良かったのに」


 隣の席の田中が、心配そうに声をかけてくれた。


「ああ、ちょっと風邪気味かもしれないな。頭が少し重いんだ」


「あー、急に寒くなりましたもんね。定食屋の主人も『風邪ひかないようにね』って言ってましたし、今日は早く帰って寝たほうがいいっすよ」


「……そうするよ」


 田中の言葉に救われるようにして、仕事を再開する。


「……なあ田中。定食屋のある交差点……あそこにあるポスト、あれっていつからあったっけ?」


「ポスト? あの交差点の?」


 田中は首を傾げ、記憶を辿る仕草をする。


「いや……俺、あそこにポストあるなんて今まで意識したことなかったっす。でも、言われてみればあったような……」


「だろ? 俺も今日初めて気付いたんだけど……あれ、前は無かった気がするんだよ」


「ただのスコトーマじゃないっすか? 俺たちが手紙出す習慣がないから、脳が消去してただけで」


「そう、だよな。俺もそう思ったんだけど……なんか、変なんだよ」


 田中は「佐藤さん、考えすぎですって」と笑ったが、その目は少しだけ不安げに交差点の方を気にしていた。


「あっ、じゃあストリートビューで確認してみましょうよ」


 田中はそう言いながらスマホを取り出して、地図アプリを開いた。

 彼がタップして表示された過去の街並みには——

 確かに、あの場所にはポストがなかった。


「……これ、何年前の画像だ?」


「去年っすね」


「じゃあ、この一年の間に設置されたのか。なんだよーやっぱり前は無かったんじゃないか。あービビって損した」


「ほら、言ったじゃないっすか! 佐藤さん、意外とビビりなんすね」


 田中が俺の肩を叩いて、からかうように笑った。


「まあ、これで謎は解けたし、ちょうど腹も減ったことだし、昨日のおいしい定食屋に連れてってくださいよ!もちろん佐藤さんの奢りで!」


「……そうだな。あそこのアジフライ、本当にうまかったしな。よし、行こう。だが奢りはなしだ」


 会社を出て、例の交差点へと向かう。信号待ちのために歩道に立ち止まると、田中がにやにやしながら例の場所を指差した。


「ほら、佐藤さんの『幻のポスト』ですよ。正体がわかっちゃえば、なんてことないただの――」


 そこで、田中の言葉がぴたりと途切れた。差し出された指先が、わずかに震えている。


「……田中?」


 不審に思って声をかけると、田中は青ざめた顔で、じっとポストを見つめていた。

 俺もつられて視線を戻す。そこにあるのは、曇り空の下に佇む赤いポストだ。


「ねえ、佐藤さん……」


 田中が、掠れた声で囁いた。


「さっきのストリートビュー、画像は『去年』のものでしたよね」


「ああ、確かに去年だったけど……」


「じゃあ、なんで……なんでこれ、まるで何十年も前からここに放置されてたみたいにボロボロなんですか……?」


 ポストの表面は全体が激しく錆びつき、塗装が剥がれて不気味な黒い地肌が露出している。側面に貼られた郵便物の収集時刻表は、長年の雨風に晒されたように黄色く変色し、端がぼろぼろに破れて泥のような汚れがこびりついていた。


 重苦しい沈黙が、二人の間に流れた。ここ一年以内に設置された新品のポストが、これほど老朽化しているはずがない。まるで、何十年もの時間を一瞬で飛び越えてそこに出現したかのような佇まいだった。


「……きっと、どこか別の場所で使われなくなった、古いお下がりのポストを再利用して設置したんだよ」


 俺は、自分自身を納得させるように、無理やりな言い訳を口にした。


「ほら、最近は自治体も予算削減とかで、古い備品を使い回すってよく聞くだろ? それだよ、きっと」


「あ、あはは……そうっすよね! 役所がやる経費削減の使い回しですよね! いやー、びっくりしたぁ」


 田中の引きつった笑顔は、少しも目が笑っていなかった。信号が青に変わる。俺たちは逃げるように交差点を渡り、あの定食屋へと駆け込んだ。

 暖簾をくぐると、店内には美味しそうな匂いが満ちていた。しかし、俺たちの食欲は昨日とは明らかに違っていた。


「いらっしゃい! お、昨日のお二人さんだね。今日も日替わりかい?今日の日替わりは生姜焼きだよ」


「あ、はい……日替わり二つでお願いします」


 田中がいつもよりワントーン高い声で注文を通した。

 席に着くと、俺たちは何とか平静を装おうと、必死に会話を交わした。


「でも、最近のリサイクル技術ってのも考えものですよね」


 田中が、中身の伴わない乾いた笑い声をあげる。


「いくら経費削減だからって、あそこまでボロボロのポストを使われたら、こっちが勝手にオカルトだと思ってビビっちゃいますよ」


「全くだな」


 俺は目の前のコップを見つめたまま、短く答えた。

 運ばれてきた生姜焼き定食は、昨日と変わらず美味しくてボリューム満点だった。だが、口に運んでも昨日ほどの感動はない。二人とも黙々と、まるでもそもそとした砂を咀嚼するように静かに箸を動かした。窓の外に広がる日常が、どこか薄い膜の向こう側に行ってしまったような、そんな気味の悪い違和感が、俺たちの手のひらに冷たい汗を滲ませていた。


 ***


 帰宅時、あの交差点を通る時は、意図的にスマホの画面に目を落とした。もう、あのポストの方向は見ない。視線を遮るように、脳のフィルターを無理やり作動させようとした。


 だが、「見ないようにしよう」と意識すればするほど、視界の端に映る赤い歪なシルエットが、強烈な存在感を放って俺の脳裏に焼き付いていく。

 まさにシロクマ効果だ。意識の習慣は、恐ろしいほどの力で俺の視線を吸い寄せようとしていた。


 命からがら逃げるようにして、アパートへと帰ってきた。


 ドアの鍵を開け、部屋に入る。


「ただいま」


 玄関には、いつものようにクロが待っていた。

「ニャア」と短く鳴いて、すり寄ってくる。いつもの温かい体温。生き物の鼓動。それだけで、張り詰めていた緊張が少しだけ和らいだ。


「よしよし、いい子にしてたか……」


 クロの背中を撫でようと、手を伸ばした。 その時、クロの耳が、ぴくりと後ろに反った。いわゆる『イカ耳』と呼ばれる、警戒のポーズだ。


 クロは俺の手からすり抜け、玄関から部屋の奥へと視線を向けた。 その視線の先にあるのは――クロのお気に入りの洋服タンス。


「どうしたんだよ。クロのお気に入りのいつもの洋服タンスだろ?」


 だが、クロはそこをじっと見つめ、喉の奥で「ウゥ……」と低く唸り声を上げた。 尻尾の毛が、ボッと一瞬で太く膨らむ。


「クロ……? どうしたんだよ、何かいるのか?虫か?」


 俺はクロの視線を追って、洋服タンスに目を向けようとした。

 しかし、不思議なことが起きた。

 なぜか、洋服タンスに焦点を合わせようとすると、視線が『滑る』のだ。まるで、磁石の同極同士を近づけた時のように、意識がその場所から弾き返されてしまう。

 見ようとすればするほど、強烈な拒絶感が胸に湧き上がり、頭痛がひどくなる。


「何だこれ……やっぱ俺今日調子悪いのかな……明日休み取って病院行った方がいいか?」


 そうしている間もクロは低い姿勢を保ったまま、じりじりと後ずさりし、最後は弾かれたようにベッドの下の暗闇へと逃げ込んでしまった。


「おい、クロ……」


 呼んでも、もう出てこない。


 一人残された六畳のワンルームは、いつもより静まり返っていて、異様に冷え切っているように感じられた。 俺は着替えもそこそこに、脱いだ服を床に放り投げて布団に潜り込んだ。

 冷たい汗が、脇のあたりを濡らしている。


 目を閉じる。 部屋のどこからか、微かに「カサッ」という衣類が擦れるような、あるいは硬い何かが床を這うような音が聞こえた気がした。


(気のせいだ。洋服タンスには虫がいただけだ。俺は疲れている。ただの、気のせいだ)


 自分に強く言い聞かせ、耳を塞ぐようにして毛布を頭から被った。 だが、闇の中で、俺の意識はさらに研ぎ澄まされていく。

 頭の中に住み着いたシロクマが、ゆっくりとこちらを見つめているような、そんな妄想が消えなかった。

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