二日目—習慣
翌朝、スマホのアラームで目が覚めた。
カーテンの隙間から薄い朝日が差し込んでいる。昨夜感じた微かな不穏さは、朝の光とともに綺麗に洗い流されたように思えた。
いつものようにベッドから起き上がり、出勤の準備をする。
中だるみを感じる水曜日。通勤電車は今日も満員の一歩手前。吊り革に掴まりながら、俺はポケットからスマホを取り出した。画面をタップすると、動画配信サイトの通知マークが光っている。
『不可視領域—視界の死角』に、新着動画がアップロードされていた。
『前回の動画では、スコトーマ——心理的盲点を外す方法についてお話ししました。多くのご感想、ご質問をいただきましたので、いくつか補足させていただきます』
画面に視聴者からのコメントが次々と表示される。
『試してみましたが、いつもの通勤路が少し鮮やかになりました』
『キッチンで10年間気づかなかった隠し収納見つけました!ここ引き出しだったの!?って家族で大騒ぎになりましたww』
『コメント失礼します。私もやってみたら、カバンのサイドポケットから紛失したと思ってた推しのラバストが出てきました!黒瀬さんマジで感謝です!笑』
『私は外しても特に何も変わらなかったです』
黒瀬は静かに頷き、カメラに向かって人差し指を立てる。
『みなさん新しい発見をできたようで何よりです。そして「何も変わらない」と感じた方、それは正常です。スコトーマは人間の限られた記憶容量を節約するための機能で、脳が「これはわざわざ記憶しなくてもいい」と判断したものを無意識に切り捨てているのです。
また、スコトーマは外しても完全に消えるわけではなく、脳が「優先順位」を一時的に変更しているだけの状態なので、大抵は意識するのをやめたり時間が経てば元に戻ります。見慣れたものを常に「初めて見るように」することで、脳の注意機構を騙し、フィルターの網目を一時的に大きくしている——そう考えてください。
つまり、記憶力がよかったり、元から注意深い性格の方は、元からフィルターの網目が他の人より大きめなのでスコトーマを外しても変化が少ないんです』
『また、「実践するのが怖い」というご意見がありました。確かに、スコトーマを外す行為は、同時に「見慣れたものの裏側」を見ることでもあります。日常の「裏」には、普段意識しない「痕跡」が残っています。例えば——』
画面に、埃を被った古いタンスの写真が映し出される。引き出しの隙間から白い布のようなものが覗いている。
『——使われていない家具の中に、本当に何もないと言えますか?あなたはその家具を、最後にいつ「開けた」ことを確かめましたか?それとも、ただ「あるもの」として受け入れ、中身を確認したことは一度もありませんか?』
黒瀬の眼鏡の奥の瞳が、冷たく光ったように見えた。
『私たちは「あるはずのもの」を「ある」と、「ないはずのもの」を「ない」と信じ込みすぎています。確認しないから、スコトーマは生じるのです』
画面が切り替わり、再び黒瀬の書斎が映る。BGMのベース音が一層深く響く。
『スコトーマを外すと、日常は「発見」に満ちます。でも、注意してください。見慣れたものを「改めて見る」という行為は、同時に——見慣れたものの「裏側」を見ることでもあります……ですから、それに恐怖心を感じる人は、無理に実践しなくても大丈夫ですよ』
画面が切り替わり、再び監視カメラの映像。人混みの中で、一人の男が立ち止まり、振り返る。周りの人々は誰も気付かない。
『さて、あなたは、この映像の中の「異物」に気付きましたか?』
俺は、今度は気付いた。男の後ろ、三メートルほど離れた場所に、街灯が立っている。古めかしい、どこにでもある街灯。でも、男が立ち止まった理由が、街灯だったのか、それとも——
『今日はここまで。次回は「シロクマ」についてお話しします。
何で急にシロクマ?と思った方も多いでしょうが、もちろん動物系チャンネルのようなシロクマの暮らしや生態についてのお話ではありません。次回をお楽しみに——あなたの日常に、何か見えていないものはありませんか?』
***
「おはようございます」
出社して席に着くなり田中がやたら高いテンションで俺に話しかけてきた。
「佐藤さん! 昨日の『不可視領域』、帰ってから過去動画見まくっちゃいましたよ!」
「マジか、結構あったろ」
「だって面白すぎるんすもん。最新のスコトーマの話はもちろん、ビュリダンのロバとか、帰納の問題とか、めっちゃ考えさせられるっすよ」
「帰納の問題の回は確かにすごかったなー。俺も『これまで太陽は毎日東から昇っている。だからといって、明日も太陽が東から昇るとは限らない』って聞いて明日もちゃんといつも通りの明日が来るのか怖くて眠れなかったわ」
「ですよねー!いやー哲学や心理学って奥が深いっすね」
彼は目を輝かせていたが、どこか落ち着かない様子でもあった。
「……それで、俺、自分でも試してみたんすよ、スコトーマ外し。試しに部屋の匂いを意識して嗅いでみたら……」
「どうした?」
「……ちょっと、なんか、自分の部屋の匂いが気になっちゃって。いつもは全く気にしてなかったんすけど、スコトーマ外しの影響か、布団の臭いとか、カーテンの匂いとか、自分の部屋の『自分臭』がすごく感じられて……うーん、ちゃんと毎日風呂入ってるし、俺まだ加齢臭気にするような歳じゃないのになあ」
田中は不満そうに口を尖らせる。
「あー、俺も掃除洗濯サボりがちだから布団の匂い気になるかもなぁ」
「俺はちゃんと掃除も洗濯もしてます!……あの、佐藤さん、俺、臭いっすか?ちょっと嗅いでみてください!臭かったら正直に言っていいっすから!」
田中はそう言いながら俺の鼻先にグイグイと腕を押し付けてくる。
「おいやめっ……大丈夫!臭くない!臭くないから!」
「マジっすか!?俺に気を遣わなくていいっすから!」
「マジで大丈夫!大丈夫だから!!ほら、そろそろ始業時間だから!な?」
田中はまだ不安そうにしつつも俺から離れ、俺はようやく解放されたのだった。
***
その日の夜。
俺は布団に入っても、なかなか寝付けなかった。
気付くと、耳が部屋の音を拾ってしまっている。外の車が走る音。冷蔵庫のコンプレッサーが唸るブーンという振動音。普段なら意識にも上らない生活音が、やけに大きく鼓膜を叩く。
(……うるせえな)
スコトーマを外し続けていると、脳が休まらない。意識のフィルターが常に全開になっていて、情報量が多すぎるのだ。
(スコトーマ、ずっと外してると疲れるな……明日は少し、意識するのをやめた方がいいかもしれない)
俺はベッドから出て冷蔵庫からビールを取り出し飲み干すと、再びベッドに入る。酒の力を借りて俺はようやく眠りについた。




