小説家を目指す私の情念
私の小説には情念が足りないのかもしれない。穏やかな恋や愛情が好きだから、そういう物語を多く書いて来た。最近ではブックマークをしてくれる方や星で評価してくれる方が増えた。嬉しい。いままでの作風も大切にしつつ、いままでとは違う作品も書いてみたい。
本当は気が狂うほどの恋を書きたいのかもしれない。むかしむかしの私が追い掛けた恋のような。いつからか、その恋を手離してからか、そういった情念は私にはなくなってしまった。傷付くのが怖いのかもしれないし、他者に対してそこまで夢をみられなくなったのかもしれない。
恋をしても別れは付いて来るし、結婚しても離婚が付いて来る。ひたすらに一途に他者を愛して夢をみられるようには私はもうなれない。自分自身すら信じられないのに、どうして他者の心を絶対的なものとして信じられるのか。私は小説家になる夢だけ泣きたいくらいに信じていれば良い。
ただ、そういう私の冷めた人間性が、あと一歩を踏み込ませない登場人物を作り出し、共感を得られない小説を作り出しているのかもしれない。良く言えば美しく、悪く言えば人間味がない。毒にも薬にもならない物語を生み出しているのかもしれない。
たぶん、このまま私の方向性で物語を書いても小説家にはなれないだろうと思う。「がんばったけど小説家にはなれなかった」と思いながら倒れて行くのは恐ろしい。いままでの作風が悪いとは思わない。ただ、それらを否定しないままに作品の方向性を変えてみる必要性があると考える。
小説ではなくエッセイが多くのブックマークや星の評価を得るのも考えさせられる。私自身の感情や心情を込めたエッセイが評価されるのは、それだけ共感を呼んでいるのだろうと推測出来る。そういったものが私の小説に少ないのは、読者が感情移入出来る材料が少ないのだと思う。
物語が美しく、現実味が少なく、登場人物が人間味に欠ける。それが私の小説なのかもしれない。全てがそうとは思わないけれど。私の書くエッセイは、おそらく郷愁や決別が漂うものが多い。それが共感を呼んでいるのならば、そこをもっと掘り下げて長い作品に仕上げてみる価値はあるかもしれない。
文章力以前の問題かもしれない。私の小説には訴求力が足りない。それを認めるのはつらいことだけど、面白いような面白くないような判別の付かない作品を書いても小説家にはなれないだろう。無料だと読んで貰えていても、もし出版した時に購入して貰えるとは思い難い。
趣味ならば好きに書けば良い。それが、より良い人生に繋がるだろう。でも、私は小説家になって近くて遠い多くの読者に私の物語を届けたい。それが等身大の私の人生を懸けた夢だから。
自分自身のことをもっと良く見つめて、書く作品に深みを出そう。小説もエッセイも。一生涯を懸けて。