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金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷  作者: 河野美姫
お品書き 三 【栗羊羹】
32/68

神様たちと過ごす日々⑦

「そんなに気に入ったのなら、それはひかりにあげよう」


「え? ううん、いいよ!」


「遠慮することはない。傘などまた手に入る」


「ううん。そうじゃなくてね、私の傘はおばあちゃんと選んだものだから、それを使いたいんだ」 



 私の答えに、雨天様は「そうか」とだけ言った。

 庭に出ると、見渡す限り新緑に覆われていた。あちこちにある木には、季節ごとに果実がたくさん実るのだとか。



「梅に桃、柿や栗の木もあるぞ」


「すごいね。ここにあるのって、全部果物の木なの?」


「いや、松や杉もある。庭はとても広く、人の足だと一日で回り切れる土地ではなくてな。その分、色々な木があるが、私も仕込みで忙しいときなどは奥の方の手入れはコンに任せることも多い」


「へぇ。全部見てみたいな」


「……そうなる前に、ひかりはここが見えなくなる」



 控えめに落とされた雨天様の言葉に、一瞬だけ心臓が跳ね上がった。

 お屋敷にずっといられないということを忘れたわけじゃないけれど、気づけば居心地の良さを感じてしまっていたせいか、いつかここが見えなくなるときが来ることから目を背けそうになっていたのかもしれない。



「そんな顔をするな。ひかりがここにいる間に、できる限り案内してやろう」



 雨天様はそんな私の気持ちを察したのか、優しく言ってくれたけれど……。同時に、帰る場所を忘れてはいけないよ、とたしなめられたような気がした。



 私の居場所は、ここじゃない。

 どんなに居心地が良くても、それだけは決して忘れちゃいけない。



 ただ、本当にもとの場所に戻れるのだろうかと考えると、不安が大きくなっていく。

 だって、もしもとの場所に帰ったとしても、きっとここが見える限りは足が向いてしまうと思うから。



「ひかり。なにも心配することはない」


「え?」


「ひかりがここをきちんと去るときは、もう私たちのことは見えなくなっている。もとの居所……ひかりのあるべき場所に、必ず帰ることができる」



 自然と眉を下げて不安をあらわにしていた私に、雨天様は「そういうものなのだ」と微笑んだ。安心させようとしてくれていることは嬉しいのに、とても寂しい。



「見えなくなるのは嫌だけど……。ずっとここにいるわけにはいかないもんね。欲が深くなったらダメだもん……」


「コンから聞いたのか?」


「うん……」


「そうか。だが、あの者は、結果として幸せになり、天寿を全うしたのだ。だから、ひかりも幸せを掴めるさ」



 蛇の目傘を差したまま空を仰ぐ雨天様は、柔らかな表情をしていた。

 もうずっと昔のことを思い出しているのか、曇り空を見つめる横顔は懐かしさを滲ませている。



「雨天様は、ずっとここにいるのは嫌じゃないの?」



 その横顔を見つめていると、心で考えていただけだったはずの言葉が声になってしまっていた。

 しまった、と感じたときには、雨天様が私の方に向き直っていた。

 傘の分だけ距離がある私たちの間に、さっきまでとは違った重い沈黙が広がっていった。



「先代のことは聞いたのか?」


「少しだけ……」


「そうか。それなら、少し昔話でもしようか」



 雨天様は視線で私を促し、再びどこかへ向かって歩き始めた。赤い蛇の目傘を追うように、その背中についていく。



「私は昔、神使だった」


「え?」


「私はもともと、ここの神ではなかったのだよ」



 ここの神様じゃなくて、神使だった。

 その事実に驚く反面、先代がいたということは〝そういうことなのかもしれない〟とも思った。



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