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金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷  作者: 河野美姫
お品書き 二 【どらやき】
21/68

居場所を失くした者⑩

「小娘、なぜ泣く?」


「……わかりません」



 嘲笑混じりの笑みに、小さく答えた。それは本音だったけれど、心がやけに痛いような気がしてたまらない。



「お前にはなんの関係もない話だろうに」



 お客様は、小さな社でひとり、ずっと主の代わりを務めようとしていたのだろう。

 そして、やって来た男性に心を動かされ、なにもしてあげられなかった自分自身への後悔を抱いている。



「私をポチなんて呼ぶような罰当たりな男のことなど、気にしてやらなくてもよいと思っておったのにな……。自身があの社から離れることになった今、最後の後悔が消えぬのだ……」


「離れる?」


「ひかり」



 小首を傾げた私をたしなめるように、雨天様は首を横に振った。私はハッとして、口を噤む。



「構わぬ、雨天よ」



 程なくして、雨天様に笑いかけたお客様は、私を見つめた。それはとても優しい眼差しで、人間に対する冷たい言動とは反している。



「小娘、私はもう力尽きてしまったのだ。魂を社に留めることができぬほどに、力が弱まり過ぎてしまった。といっても、主がいない狛犬が、何十年も力を保っていられたことが奇跡にも近いのだがな……」


「じゃあ、お社は……?」


「……朽ちた。私にはもともと、なんの力もない。その狛犬の魂すら失った社は、朽ちるしかないのだ」


「そんな……」


「いや、これでよいのだ」



 目を見開いた私に、お客様は悲しみが混じった笑みできっぱりと言い切った。



「主がいなくなってからあの男がやって来るまでの月日は、まるで永遠のように思えた。ひとりあそこで来ない者を待ち続けるには、もう年老いた私には寂し過ぎる……。せめて、このまま主のもとへ行けたらよいのだが、あの男を少しも救ってやれなかった私にはその資格もなかろう……」



 寂しい物言いに、今にも泣き出してしまいそうに思えた声。

 微かに声音が震えていたのは、涙をこらえているからなのかもしれない。

 それでも、お客様は肩の荷が下りたと言いたげにも見えて、どこかで安堵感すら滲んでいるような気がした。

 もちろん、気のせいかもしれないけれど。



「お客様、もしよろしければ、若輩者の話を聞いていただけますでしょうか?」


「……なんだ」



 雨天様が笑顔で切り出すと、お客様はひと呼吸置いたあとで雨天様を見た。

 私も、お客様と同じように視線を隣に移す。



「その男性はきっと、願いを叶えてほしかったのではなく、お客様が守られていたお社が心の拠り所だったのでしょう。だから、最後の最後まで足繁く通い、あなたの分までどら焼きをご用意していたのではないでしょうか」


「ふん、なんの根拠もなかろう」


「ええ、おっしゃる通りです」



 顔をしかめてため息をついたお客様に、雨天様は素直に頷いて見せた。



「ですが、彼は誰かと思い出話を共有したかったのかもしれませんよ。だから、願いは心の中で唱えていたのに、必ずひとつしていったという思い出話は声に出していたのではないでしょうか」



 根拠がないなんて言ってしまえば、お客様を怒らせてしまわないだろうか。

 そんな不安を抱いた私を余所に、お客様は目を小さく見開いた。



「なるほど、そういう見方もあるのか。だが、所詮は気休めであろう。本当のところは、あやつにしかわからぬ」



 静かな口調が悲しみをよりいっそう色濃くするような気がしたけれど、雨天様は変わらずに微笑んでいた。



「はい。だからこそ、お客様の心が救われる方を信じていただきたいと思うのです。私がその男性でしたら、あなたを心の拠り所にしていなければ、勝手に名前など付けませんから」



 優しい声が、静かに落ちていく。いつの間にか雨が降っていたことに気づいたのは、お客様が縁側の方に視線を遣ったから。



「……ああ、そうか」



 ぽつりと零されたのは、柔和な声音。雨音とともに、鼓膜をくすぐるようだった。



「だったら、ポチなんてふざけた名前を付けたことくらい、大目に見てやらねばならぬな」



 〝ふざけた名前〟なんて言いながらも、どこか愛おしそうに微笑んでいる。

 外を見つめたままの双眸は、怖いと感じた外見からは想像もできないほど、とても穏やかで優しいものだった。



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