居場所を失くした者⑨
「ああ、うまかった……。どら焼きなど、随分と久しぶりに口にした」
「以前もお召し上がりになられたことがあるのですか?」
狛犬のような風貌のお客様の正体はわからないけれど、少なくとも今のところ危害を加えられるようなことはなさそうで、そっと胸を撫で下ろした。
雨天様の質問に小さく頷いたお客様は、まるで想いを馳せるかのような瞳で頷いた。
「社によく来ていた人間が、いつも手土産のように供えてくれていた。変わった人間でな、私のような狛犬にも同じように用意してくれていたのだ。確か、ひがし茶屋街にある店のものだと言っておったな」
「なるほど。あなたがここにお越しになった理由がわかりました」
「我が社の主は、もう随分前に消えてしまった。山奥の小さな社であったが、この何十年かで人の手が入り過ぎたのだ。それでも私は、主がいない社に留まるほかなかった……」
お客様は、ふっと寂しげな笑みを見せた。
人間じゃないし、外見だって人間からは程遠いのに、表情の変化がよくわかるのはどうしてなんだろう。
「私ひとりが残された社に、ある日どこからともなく中年の男がやって来た。妻に先立たれたと言うそいつは、誰もいない社に祈りを捧げておった。私には、なにを祈っておったのかまではわからぬが、どこか寂しそうだった。それからだ、その男が月に何度かふらりと訪れては、主がいない形だけのご神体と私にどら焼きを供えていくようになったのは……」
理由はわからないけれど、私はいつの間にかお客様を真っ直ぐ見つめていた。
そんな私を捕らえた琥珀色の瞳が、なにかをこらえるようにそっと天井を仰ぐ。
「バカな男よ……。そんなことをしても、手入れのされていない社の中を見れば、廃れた神社だとわかっておっただろうに……」
「その方は、ずっと祈っておられたのですね」
「ああ、そうだ……。来るたびになにかを懸命に祈り、ひとり身の上話をしておった。いつも必ず、主と私の分のどら焼きを供え、思い出話をひとつしていった。だが……」
そこで言葉を止めたお客様に、私たちはなにも言わずに待っていた。
だけど、いつまで経ってもお客様は口を開こうとしなくて、雨天様はお客様の気持ちを察するようにゆっくりと息を吐いた。
「姿を見せなくなったのですね……」
「ああ……。寿命であったのは、わかっておる。あやつは見るたびに生気を失っておったからな……。最後の方は、もう今日が最後かもしれぬといつも思っておった」
悲しげな声が、静かな部屋に落ちていく。
誰もお客様のことは知らないはずなのに、みんな真剣に話に聞き入っていた。
「勝手に手を加えた人間どものことなど、気にしてやることはないと思っておった。主にはいつも、『そんなことは言うな』とたしなめられたが……。そもそも人間が手を加えさえしなければ、豊かな緑に囲まれた小さな社の主は、きっと今もあの場で人々を見守ることができておっただろう。だから、あやつが社に訪れたときも、同じように思っておった。それに、どうせ主がいない以上はなにもできない」
「ですが、あなたの心は動いてしまったのですね」
雨天様が尋ねると、お客様は瞼をそっと閉じた。
「……ああ、そういう言い方もあるな。私を勝手にポチなどと名付けた罰当たりな奴のことなど、眼中になかったはずなのに……。いつの間にか、あやつの声を聞いてもやれぬ自身に悔しさを覚えるようになった」
どうしてだろう。
まったく知らない、人ですらないお客様の話なのに……。気づけば、涙がポロポロと零れ落ちていた。




