「くっ、殺せ!」と叫びながら、姫騎士は魔王の溺愛に堕ちていく。
「おや、恋人様。魔王様とお散歩ですか?」
魔族の女官に声をかけられ、ネメシアはぴたりと足を止めた。俺は隣でその様子を見守る。
「だ、誰が魔王の恋人だっ! くっ……殺せ……!」
今日もよく通る声だ。いい喉をしている。さすが騎士だ。
「そうか。ではネメシア、茶にしよう」
「聞け、魔王! 話を聞けっ!」
顔を真っ赤にして喚く彼女を横目に、くるりと踵を返す。
そのまま、いつものテラスへ。もちろん、ネメシアもついてくる。
「茶だ、飲め」
「誰が魔王の茶など……施しは受けんぞ! く……殺せ!」
ネメシア・リュクス。人間の国の姫騎士。勇名高く、剣の腕も立つ。
そして今、俺──魔王ラガンロクにとって、最も重要な“交渉材料”でもある。
「殺す理由がないと言ったはずだ。お前は人間との和平に必要なのだ」
「そんな、そんな道具扱いされるくらいなら……っ、く、殺せ……!」
「お前、毎日よく飽きずに言うな。それ、日課か?」
「ぐっ……! この魔王、煽っているのか……!」
まぁ否定はしないが。
彼女が俺の手に落ちたのは、十日前のことだ。
人間と魔族の戦が再燃し、俺が最前線に姿を見せたその夜、ひとり、斬り込んできた。
“仲間を逃がすため”だったそうだ。実に騎士らしい理由である。
剣の腕は確かだったが、俺には及ばない。
一振りで武器を弾き飛ばし、あとは静かに取り押さえた。それだけのことだ。
そして、あのときも彼女は叫んだ。
──くっ、殺せ……!
「口癖か?」と俺が言えば、「誇りだ!」と返ってきた。
人間の誇りとは面白いものだ。
俺は彼女を牢に入れなかった。
交渉材料に使うつもりで捕らえた人間の英雄を、粗雑に扱う理由はない。
客間を与え、紅茶と会話を提供している。
……が、いまだ懐く気配は皆無である。
「次に『殺せ』と言ったら罰金制にするか?」
「貴様ァーーーッ!!」
やれやれ。平和な昼下がりは、まだ遠い。
ネメシアには、地下牢どころか日当たりのいい離れを与えている。
ふかふかのベッドに、三食つき。紅茶は最高級、茶菓子は日替わり。
監視? そんなものは最初の三日で飽きた。今は女官たちがかわるがわる世話を焼いている。
人間の姫騎士は、我が魔王城でもっとも甘やかされた存在だ。
「……ここは敵地ではなかったのか……?」
と、本人は日々混乱している様子だが。
毎朝の第一声は「くっ、殺せ!」である。
すっかり“おはよう”の代わりだと俺は認識している。
ネメシアが魔王城に来て、十二日目の朝。
「くっ、殺せ!」
「おはよう。今日はローズヒップだ」
なんなら、淹れたての紅茶を手渡しながらのやりとりである。
「ネメシアおねえちゃーん! 今日も殺されるのー?」
「違う! 殺す側だっ!!」
「かっわいーい」
「にっげろ〜」
「きゃー!」
女官たちも使用人も、子どもたちと駆け回る姿を温かい目で見ている。
子どもたちとひとしきり遊んだネメシアはハッとして、ずんずんと私の元に歩いてきた。
「おかしい……! これはおかしいぞ……!」
「どうした、ネメシア」
その長く美しい金髪を揺らし、目をカッと開いて私に訴える。
「監禁とは! もっとこう……鉄の枷! 鎖! 水とパン!」
「今さらか? 枷のサイズでも測るか?」
「黙れぇ! くっ、殺せぇ……!」
すっかりこのやり取りにも慣れたな。
むしろ、彼女の『くっ、殺せ!』が聞こえないと、何かあったのかと心配になるレベルだ。
ネメシアが魔王城に来て、十四日目。
俺が一人でチェスを指していると、すごい剣幕でネメシアがやってきた。
「勝負だ、魔王ッ! チェスで!」
ふむ、俺にチェスで挑むとは、いい度胸だ。
「いいだろう。互いの茶菓子を掛けて勝負だ」
「ふふん、後悔するなよ。いざ尋常に──くっ、殺せっ!」
「まだ始まってもいないぞ」
対局は三十分後に決着し、当然のように俺が勝った。
「茶菓子は没収だな」
「ぐっ……殺せ……」
そんなに茶菓子、食べたかったか?
ネメシアは懲りもせず、毎日茶菓子を掛けて勝負を挑んできた。
十五日目。
「……く、殺せ……」
「茶菓子没収だな」
十六日目。
「……っく、殺せ……!」
「まだまだだな」
十七日目。
「茶菓子、食ってもいいぞ」
「私に施しをする気か……! この屈辱……! く、殺せ!」
十八日目。
「あと一歩というところで……くっ! 殺せぇ!」
「なかなかいい線いっていたのだがな」
十九日目。
「勝った! 我が軍の勝利だ! なのに私は敵地……くっ、殺せぇぇぇ!」
「とりあえず俺の分の茶菓子を食って落ち着け」
ネメシアははむはむと幸せそうに茶菓子を食った。
五日ぶりの茶菓子だったからな。
もちろん手を抜くようなことはしてない。
この短期間での急成長、さすがと言ったところか。
我が魔王軍が人間との和平に向けて進んでいる今、交渉材料としての価値が下がることも、いずれ来る。
それまで、せいぜい楽しむとしよう。
さて、明日はどんな『くっ、殺せ!』が聞けるだろうか。
ネメシアが我が魔王城に来て、二十四日目の朝。
「……な、なぜこの部屋に私のサイズのドレスがあるのだ?」
ネメシアが真顔で尋ねてきた。
「お前が昨日、茶をこぼして服を汚したからな。女官たちが喜んで用意していた」
「だが、なぜ……よりによって……ドレス……! しかもピンク! ふりふりだぞ!?」
「よく似合っていたぞ」
「着てないっ!!」
「部屋にこもってこっそり試着してただろう?」
「見ていたのかっ!? くっ、殺せえええ!!」
ネメシアは真っ赤になって地に伏した。
鏡の前でくるりと回ってにっこりと微笑む姿……なかなかに可愛かったのだがな。
ネメシアが魔王城に来て、二十七日目の昼下がり。
俺がテラスで紅茶を飲んでいると、ネメシアがばたばたと駆けてきた。
「今日の菓子はどこだ!」
「勝負を挑まずに要求か。落ちたな、姫騎士」
「違うっ! 貴様が先に茶菓子の香りで誘ったのだろうが!」
気づいたか。今日は、焼きたてのアップルタルトを、わざと俺の部屋の扉の近くに置いておいたのだ。
嗅ぎつけて走ってくるネメシアの姿が、実に可愛らしい。
「よし、半分やろう」
「やさしくするなっ……くっ、殺せ……!」
ネメシアはいつも『殺せ』と言うが、最近その声はちょっと震えている。
きっと気づいているのだろう。
自分が甘やかされていることに、そして──心が、少しずつ満たされてきていることに。
ネメシアが魔王城に来て、三十日目の夜。
星の見える高台で、風にあたりながら彼女がぽつりと呟く。
「なぜ、私はここにいて……こんなにも、殺す気がしないのだ……」
「それは、単に満腹だからではないのか?」
「貴様というやつは……!」
怒るネメシアの頬は、ほんのり赤い。
「ここにきて一ヶ月……太ってしまったではないか……」
「別に良いのではないか? 今の方が可愛いと、俺は思うぞ」
「く……殺せ……」
俺はその赤い顔を見て、ふっと笑った。
ネメシアが魔王城にきて、三十二日目。
「ネメシア、人間の国から仕入れた本がある。読んでやろう」
俺が椅子に腰を下ろすと、ネメシアは少しだけ警戒した顔で隣に座る。
俺は静かに本を開いた。
「『君の瞳に映るだけで、我が心は熱を帯びる。触れたい、触れられたい、ただ君の傍に在りたい』……ふむ。なかなかの詩だ」
「ま、待て、それは……っ」
「『月が愛を囁く夜、私はただ一人の君に誓おう。命ある限り、愛し続けると』」
「~~~~ッッ!! や、やめろ、やめろ、魔王!! そんな……そんなっ……!」
ネメシアは顔を真っ赤にして、耳まで染めながら俺の袖を引っ張る。可愛い。
「──『その肌に触れた夜、俺はもう戻れなかった。お前の吐息が、鼓動が、指先の震えまでもが、俺を狂わせる』」
「やめろ、それはもう詩じゃない!!!」
「いや、詩だ。書いてある。“恋と情熱の抒情詩集”と、表紙にもあるぞ」
「こんなの、こんなの……くぅ、ころせぇ……っ……!」
恥ずかしさに身を捩って顔を隠すネメシアを、俺は微笑ましく見つめた。
……仕入れておいて、正解だった。
ネメシアが魔王城に来て、三十五日目の朝。
「……ラガンロク、貴様たまに見てるだろう」
「何を見るというのだ?」
「寝顔だっ!」
なんだ、そのようなことかと俺はネメシアを見る。
「可愛いからな。見てるぞ。よだれを拭いてやったこともある」
「うわああああっ!! く、殺せぇぇえっ!!」
こうして今日も、我が魔王城に『殺せ』の声が響く。
「──今日も、元気でなによりだ」
俺は心から、そう思っている。
ネメシアが魔王城に来て、四十日目の朝。
重厚な扉がゆっくりと開き、人間の国からの使節団が姿を現した。
その中心には、老齢の宰相と、ネメシアの兄王子とやらの姿。
そして、対面するのは魔王である俺と、その背後に控えるネメシアだ。
「ネメシア、無事か?」
「もちろんだ。兄上に助けられずとも、私は平気なのだからなっ」
「しかしネメシア、お前……なぜそんなふりふりのドレスを……」
「こ、これは……無理やり着せられたのだ! 罠だ! くっ……殺せ……っ!」
真っ赤なネメシアは、やはり可愛い。
しかし今はそれどころではなく、ネメシアの兄との話し合いが続けられた。
人間と魔族は、互いの領土への侵略・敵対行為を禁ずる。
捕虜交換は行わず、それぞれの意思を尊重する。
知識、技術、物資の交易を認め、相互に使節を派遣する。
ネメシアは“交流の象徴”として、当面こちらに滞在する。
話し合いの結果、基本的にこの四つで二国が合意した。
「人間と魔族、永きにわたる争いに終止符を打とう。ネメシア・リュクスは、和平の象徴としてこの場に立つ。彼女はもはや捕虜ではない。我が城の、客人である」
俺とネメシアの兄は、和平の盟約書に署名した。
こうして、人間と魔族は歴史的な和平を迎えることとなった。
「ではネメシア、息災でな!」
「兄上め……! この私を交換条件にするとは……くっ、殺せぇ!」
妹の元気な姿を見て、王子は安心して帰っていった。
見る目のある兄者だ。
ネメシアが魔王城にきて、五十日目の雨の日。
俺は窓の外で雨粒がガラスを叩く音を聞きながら、ふと扉の方を見た。
「……あの、いるか」
姿を現したのはネメシアだった。
いつも通り、背筋を伸ばして仏頂面。
でも、腕に小さな包みを抱えている。
「それは?」
「余った茶菓子だ。別に、貴様のためというわけではない。余ったからだ。私は菓子など、どうでもいい」
嘘をつけ。
俺はお前が茶菓子に目がないことを知っているぞ。
だが、そんな野暮なことは言うまい。
「ネメシアが持ってきてくれた茶菓子なら、きっと美味い。俺はお前の優しさをよく知っている」
「~~っ! ……き、貴様は、なんでもすぐそうやって……くっ……殺せ……っ!」
ネメシアは赤くなった顔を隠すようにくるりと背を向けた。
それでも俺が受け取るのを確認するまでは部屋を出ていかない。
そんなところが、たまらなく可愛い。
「ネメシア」
「……な、なんだ。まさか『お返しに』とか言って、また妙な詩でも読み上げるつもりではあるまいな。やめろ、死ぬ。殺す」
一度、愛の詩を読んで聞かせたのがトラウマになっているらしい。
その時も真っ赤になって『殺せ』と言っていたのが可愛かったのだが。
「わざわざ来てくれた礼を言おうと思っただけだ。ネメシアの顔が見られるだけで嬉しい」
ネメシアはぴくりと肩を揺らしたが、ゆっくりと顔を背けたまま答えた。
「……礼を言われるようなことではない。私はただ、菓子を届けただけだ」
「それでも、嬉しいのだ」
「……~~っ、……くっ……殺せ……っ」
しばらくしてから扉が静かに閉まり、
俺はほんのりと温かい包みを手のひらで抱えながら、ひとり、微笑んだ。
今日もネメシアは、変わらず可愛い。
ネメシアが魔王城にきて、七十日目。
「ネメシア。……これを、お前に」
俺は花束を差し出した。
漆黒のバラに、夜明け色のラナンキュラス。魔界と人界、二つの色を束ねたものだ。
「な、ななな、なぜ花など……っ!」
「……今日が、お前の誕生日だからだ。俺は忘れていない」
「くっ……く、……っ……!」
……ん? 今日は殺せと言わないのか?
「変なものでも食ったのか? 熱でもあるのではないだろうな」
俺はネメシアの腕を掴み、グイッと引き寄せた。
そして額を彼女の額に押し当てる。
うむ、熱はなさそうだが……ん? いきなり体温が上昇したぞ。
「大丈夫か、ネメシア。寝室まで連れていこう」
「うびゃああっ」
ひょいと横抱きにすると、ネメシアが可愛い声を上げた。
花束を持って、真っ赤な顔を隠している。
寝室のベッドに下ろしても、ぎゅっと花束を抱えていた。
「この花束は、女官に預けておくか」
「……いやだ」
「ネメシア?」
「いいから私のことなど放っておけ! 私の部屋だぞここは! 出ていけ!」
……ちょっと傷つくぞ。
──さすがに、人間国が恋しくなったのだろうか。
俺のわがままでネメシアがここにいるのだ。
もしも彼女が帰りたいと言えば、俺は……無理にそばに置いておくことはできん。
……くそっ。
「……ゆっくり眠るのだぞ、ネメシア」
「〜〜ッ、ッ!」
俺はネメシアに背を向けた。思った以上につらい。
っく、殺せ……っ
こんな思いをするくらいなら、いっそ誰か俺を殺してくれ……ッッ
ネメシアの部屋を出て、扉を閉めたその時。
「んああぁぁぁああああ……んくぅ、殺せぇぇ……っ」
やたら色っぽく切ない声で、ベッドでごろごろしてる音が聞こえてきた。
しばらく沈黙していた俺だが、肩の力が抜けた。
まったく……。
「そういうことか」
俺はそっと、扉に背中を預けて小さく笑った。
そうか、そうか。
つまり──あの花束、思ったよりずっと嬉しかったんだな。
「ネメシアのやつ……可愛すぎる」
あんなに頑ななのに、一人の時にだけ、思いきり喜びを出すとは。
本当は、誰よりも素直に、俺の気持ちを受け取ってくれている。
「……なら、もう少しだけ、俺のわがままに付き合ってもらうか」
俺はそっと、扉に手を添えた。
「おやすみ、俺の可愛いネメシア。いい夢をな」
俺が声を掛けると、部屋の向こうではネメシアが転がっている。
「~っ……っふ、ふにゃぁ……っくぅ、こ、ころ……せぇ……っ!」
泣きそうで、でもやたらと色っぽい声。
俺は笑いを堪えながら、静かにその場を離れた。
胸の中には確かな安心と、甘やかな想い。
まさか、最初に出会った時にはこんな気持ちを抱くようになるとは思わなかった。
愛という感情は、実に面白い。
ネメシアが魔王城にきて、七十二日目。
「ネメシア、今日は人間の国でいう“抱きしめたい日”らしいぞ」
「知らん!!! ち、近寄るな!」
でも、腕を引いて抱きしめると。
「~~~~ッッ……! こ、ころ、ころ、ころころころころ、殺せぇえええええ!!!」
……可愛すぎて、俺が死ぬかもしれん。
ネメシアが魔王城にきて七十五日目。
「ネメシア、今日は“好きな人を名前で呼ぶ日”だ」
「ふざけた記念日をでっちあげるな!!」
「いや、本当にあるらしい」
嘘だが。
「だから俺の名を呼べ」
「なななっ」
「恥ずかしがらずともいいだろう。三十五日目に名を呼んでくれたことを、俺は覚えている」
「なんでいちいちそんなことを覚えているのだ、貴様は!」
「ネメシアが初めて俺の名を呼んだ日だからな。忘れるものか」
ネメシアは耳まで真っ赤になった。可愛い。
「ネメシア」
「……貴様は、私が、好き、なのか?」
「ああ、好きだが」
「〜〜〜〜ッ!!??」
息しろよ?
「俺の名も、遠慮せず呼んでくれていいんだぞ」
「誰が……っ」
「さては、名前を忘れてしまったか?」
「バカにするな! 忘れるわけがあるか、ラガンロク……っあ」
本当に言ってくれた。嬉しいものだな。
「名前を呼んだということは、ネメシアは俺のことを好きということでいいんだな?」
「……くぅ……こ、殺せぇ……」
「本当に可愛いな、ネメシアは」
思わず抱きしめると、ネメシアはドカンと爆発して倒れた。
ネメシアが魔王城にきて、八十日目。
「今日は“キスの日”だ」
「嘘つけ!! そんな日があってたまるか!!」
「いや、これは本当にあるらしい」
「これは、だと? ラガンロク、貴様まさか……」
しまった、口が滑った。
「小さいことは気にするな。とにかく今日はキスの日だ」
「……また私をからかう気か?」
「からかってなどいない。本気だ。……唇を出せ」
「出せるかぁああああああああああ!!!!」
真っ赤になって怒って、ネメシアは一歩後ずさった。
「安心しろ。無理やりはしない。ただ、お前の、その顔を見たかっただけだ」
「なっ……!」
「耳まで真っ赤になって、どうしてそんなに可愛いんだ、お前は。鏡でも見るか?」
「くっ……くっ、殺せぇええええええええええええ!!!!」
しまった、これは本当に怒らせてしまったようだ。
「残念……お前とのキスは、できないか……したかったのだが」
「〜〜ッッ!」
「ネメシアの許しが出る時まで、俺は我慢しよう」
「……ッ。……っ、く、くそ……どうして……そういうことを、言うのだ……」
ん? 風向きが……変わったか?
ネメシアは口を尖らせながら。せわしなく視線を動かし始めた。
「……べ、別に、おまえがキスしないって言うなら……私がするとは言ってないが、だが……! 別に、構わん……ような……構うような……どっちだろうな……」
「ネメシア、それは許可か?」
「し、知らん!! 自分で考えろ!!!!」
俺が決めていいのか。
それなら答えは決まってる。
「許可、だな」
そう言って近づいても、ネメシアはもう逃げなかった。
拳も振るわないし、怒鳴り声も飛んでこない。
睨みつけてはいるが、その目は潤んで揺れていた。
ほんの一瞬、指先が彼女の髪に触れる。
ビクリと肩が震えた。
だが、拒絶はされなかった。
「……目を閉じろ、ネメシア」
「っ……閉じん……」
それでも。俺はそっと、彼女の頬を片手で包み。
そっと、唇を重ねた。
やわらかくて、熱い。
一瞬で、世界が静かになる。
触れるだけの、優しいキスだった。
……はずなのに。
「ん……ぁ……」
唇が離れた瞬間、
ネメシアは小さく息を吸い、ひざから力が抜けそうになるのを必死にこらえていた。
赤い。
耳の先まで、首筋まで、きっと全身が。
隈なく見てみたい衝動に襲われる。
「ネメシア?」
「……こ、ころせぇ……」
とろけるような、甘ったるい声。
やばい……これは……
「お前の可愛さで、俺の方が死にそうなんだが」
「……う、うるさい……ッ!! 見るな、見るな……っ!」
俺の胸を押す手も、いつもより力が入っていない。
可愛すぎる。
抱きしめて、奪って、もっと溺れさせたくなる。
……だが、今はこのくらいにしておこう。
また明日、からかいながら続きができるように。
八十一日目。
「ちゅっ」
「こ、こ、こ、殺せぇ……っ」
朝の挨拶がわりに頬へひとつ。
ネメシアは椅子ごとひっくり返りそうになった。
何度見てもこの反応は飽きない。
八十二日目。
「ちゅっ」
「……殺せ……」
もはや定番。頬にひとつ、軽く。
今日は立ちくらみのように壁に手をついて、赤い顔を隠していた。
八十三日目。
「ちゅ、ちゅっ」
「はぁ、ラガンロク、貴様いつまでしているぅっ……!」
おでこ、頬、耳──数カ所に連続で。
そのたびにネメシアの声が高くなる。
俺は涼しい顔をして言ってやった。
「健康のためだ」
「嘘をつくなーーッ!!」
本当なのだがな。愛情は寿命を伸ばすらしいぞ。
八十四日目。
「おいネメシア、顔を見せろ。見えん」
「……無理だ……生きていけぬ……っ」
耳たぶに一つ。
彼女は真っ赤なままソファに顔をうずめ、二時間動かなかった。
八十五日目。
「好きだ、ネメシア」
「っっっっ!!!! わ、私を心臓麻痺で殺す気か!!?」
膝が笑うように座り込んで、クッションを投げてきた。
俺の胸に当たって、軽く跳ねた。
八十六日目。
「今朝は、唇が冷えているな。温めよう」
「そんなところ、冷えているわけが──」
逃げようとするネメシアを後ろから引き寄せ、髪をかきあげてうなじに軽くキスした。
その場で崩れ落ちた。
八十七日目。
「ほら、今日もひとつ」
「い、いらん……いらぬっ……!」
「そうか。残念だ」
俺はさっと引いて椅子に座る。
するとネメシアは、もぞもぞとしながら隣にやってきた。
「し、仕方がないな……一度だけなら、許してもいい」
推してダメなら引いてみろとは言うが、効果は覿面だったようだ。
俺はネメシアを抱き寄せて──初めて、深いキスをした。
「……ころ、殺せぇええええええええ!!!!」
今日もいい叫びっぷりだ。
八十八日目。
「ネメシア、昨日より可愛いな」
「そ、それはラガンロクの錯覚だっ……」
「じゃあ証明しよう」
俺はネメシアを抱きかかえて座る。
じっと見つめるだけでネメシアの顔は赤くなり、ドギマギしていてやはり最高に可愛い。
愛しさが溢れて止まらない。
見つめ合うだけで、俺の心臓は止まりそうだった。
八十九日目。
「ネメシア、こっちを見ろ」
「見たら、またキスするのだろう……ッ!」
「当然だが?」
「ラガンロクが当たり前のようにするから、私は……っく」
そんなネメシアに俺はキスをする。
とろけた顔に、もう一度。
「二度は、ずるいぞ……好きに、なってしまう……」
「まだ好きになってなかったのか? じゃあ、もう一度だな」
「っく……殺せぇ……」
そう言いながら、ネメシアは三度目のキスを受け入れた。
九十日目。
「俺のことを好きになったか?」
「い、言わぬ!」
「そうか……ではもっとメロメロにさせねばならんな」
「!!」
もちろん、キスをしてやった。
しかしネメシアは、赤い顔をしながら。
「ラガンロク……」
赤い顔で俺の名を呼んだ。なんだこの可愛い生物。どうすればいいんだ。殺せぇ……!
九十一日目。
「ネメシア。俺のことを好きと言えば、褒美をやろう」
「だ、誰が言うか!」
「茶菓子を十個でどうだ?」
「っく!」
迷っている。
少々卑怯なやり口だが、俺はどうしてもネメシアの口から聞きたい。
一度言ってしまえば、あとは言ってくれるはずなのだ。
名前を呼んだ時のように。
「わ、私は、ラガンロクが……す、す、す」
言ってくれるか!?
「殺せぇぇぇぇえええ!!」
やっぱりそうなるのか!!
九十二日目。
「ネメシア。好きだ」
俺は作戦を変えた。自分から言いまくる。
「……またそれか……その言葉は……ずるい」
「どうしてだ?」
「その言葉を聞くと……心地が良くなる。」
なんて素直なことを言う。
俺は不意に彼女の手を取って、甲にキスした。
「いつか、ネメシアも言ってくれ。俺もそんな気持ちになりたいのだ」
「……殺せぇ……」
うむ、まぁそれが好きだと言ってるようなものなんだがな。
九十三日目。
「ラガンロク。今日は一日、私を好きにしろ」
……なんだその、最高すぎる提案は。
「……どうした、いきなり」
「今日が、ラガンロクの誕生日だと聞いた」
祝いの代わりか。
やばいな。そんな風にネメシアが思ってくれるだけで、俺の胸は張り裂けそうだ。
「プレゼントの代わりに好きにしていいって言ったら、喜ぶかと思った」
「めちゃくちゃ嬉しいぞ。じゃあ……膝枕を頼んでいいか?」
「う、うむ……そのくらいなら、やぶさかではないが……」
若干緊張した面持ちで、ネメシアはそっとソファに座る。
「……ど、どうぞ……?」
「ん、じゃあ……失礼」
ごろんと横になると、柔らかい太腿が心地よい。彼女の香りが、かすかに鼻先をくすぐる。
「……どうだ?」
「最高だ。もう今日が終わらなければいいのに」
「っ、そ、そんなことを……」
「ネメシアの脚、あったかいな。落ち着く」
ネメシアの顔が、ピンク色に咲いた。
下から見上げるネメシアも、可愛い。
そのうち、恐る恐る俺の髪を撫で始めた。
俺は要求していないのに。
自主的にしようと思ってくれていることが、嬉しい。
「なあ、ネメシア」
「……なんだ?」
「誕生日に、こんな幸せをくれるお前を、俺は……」
「言うな……!」
俺の声は、なぜか差し止められた。
「顔が、だめになる……」
……見てみたかったが。
俺は髪に優しく触れられて、そのままうとうとと眠ってしまった。
九十四日目。
「なあ、ネメシア」
「……どうした、ラガンロク?」
「人間の国に、帰りたいか?」
俺はずっと気になっていた疑問を、とうとう口にした。
ネメシアが一拍置いて答える。
「和平の証として、ここにしばらく滞在するのが私の役目だ。それは知ってるだろ」
「そうだな。でも、その“しばらく”が終わったら……」
元々、ネメシアはただの交渉材料だった。
和平を結ぶための。
しばらくここに滞在する必要など、本来はなかった。なのに契約に盛り込んだのは──単なる俺の私情だ。
いつか手放せるようになると、その時は思っていた。けど、今は──
「……ネメシアが帰るのを、俺は止められん」
胸が、痛い。
本当は帰ってほしくなどない。だが、それは言えなかった。
俺といるより、ネメシアは国に帰りたいだろう。生まれ育った国なのだ。
「……私は、ここにいて楽しいぞ。ラガンロク」
「ネメシア……」
彼女を見ると、にっこり笑っていた。初めて見るネメシアの柔らかな笑顔に、目が奪われる。
「ラガンロク、おまえが、優しすぎるせいだ」
「……そんな風に言われると、嬉しいもんだな」
「心配するな。まだ私はここにいる」
「……ああ」
今はまだ、ここに。
ネメシア……お前の言葉に、どれだけ俺の胸が痛くなっているか、お前は知らないだろう。
俺は、約束が欲しいのだ。
未来永劫続く、共にいるという約束が。
いつかいなくなる相手に恋をするというのは……こうもつらいものだということを、俺は生まれて初めて知った。
お前のせいだぞ、ネメシア……。
九十五日目。
「ネメシア」
「……なんだ」
「俺は、お前を愛してる」
急な俺の告白に、黙ったまま視線を逸らすネメシア。
そのまま、ほんの一歩だけ、俺の方へ近づいて──
「……ちゅ」
ネメシアの方から、俺の頬に。ひとつ。
「……な、なにをしておるのだ私は……!」
我に返ったように慌て始めるネメシア。可愛い。
「っく、殺せ……」
やっぱりめちゃくちゃ可愛い。
もう何度目かわからないくらい、今日も俺が死にそうだ。
九十六日目。
「ネメシア」
「なんだ? まさか、また私にちゅーをして欲しいのではないだろうな!?」
「それもいいが、違う。今日は、少しだけ真面目な話がしたい」
「ま、真面目な……? ラガンロクが……?」
俺は覚悟を決めた。
ずっといる方法なら、一つだけある。
俺は彼女の手を取って、真剣に見つめる。
「──ネメシア。俺と、結婚してくれ」
「は…………?」
顔が真っ白になったネメシアは、次の瞬間、耳まで真っ赤に燃え上がった。
「こ、こ、こ、こ……こ、ころ、ころころころころ……!!!」
「殺せ?」
「殺せぇえええええええええええええええええええ!!!!!」
逃げていった。そのまま部屋の壁に頭をぶつけて倒れた。
うむ、調子が戻ってきたようだ。
返事は明日聞こう。
九十七日目。
朝、彼女が俺の部屋の前にいた。
「……まだ、気は確かではない……だが、私の、答えを……聞くか?」
気は確かじゃないのか。
「聞かせてもらおう」
「私で、よければ……妻に、されてやってもいい……」
「……本当か?」
「ほ、本当だ……!」
真っ赤になって頷くネメシア。
可愛すぎないか。
そして俺は、嬉しすぎる。
思わずぎゅっとネメシアを抱きしめて──
そして、ちゅっと音を立てて、彼女の唇にキスをする。
ネメシアは真っ赤なままで小さく震えて。
ああ、愛おしすぎる。
その顔をじっと見ていると、俺の方がとろけそうになる。
「ころ……せぇ……」
泣きそうになりながらいつものように囁いていて、俺は笑った。
九十八日目。
今日は結婚式の準備。
ネメシアはティアラを試着して、鏡の前で顔を赤くしている。
ああ、もう、たまらない。
「な、なんだその顔は!」
鏡越しに見つけられた。怒った顔もたまらない。
「ネメシアが可愛すぎて気絶しそうな顔だ」
「殺せ!」
「もう、毎日が天国だな」
九十九日目。
前夜祭と呼ぶべきか、城中が祝福の雰囲気に包まれていた。
「ラガンロク……本当に……いいのか?」
「もちろんだ。俺にとって、お前以外いない」
「……そういう言葉……反則……」
「お前のかわいさの方が、俺にとっては反則だ」
「なっ……」
「だったら、お互い罰を受けるか?」
「なにする気だ……っ」
「今夜……お前のすべてを、愛する覚悟でいる。……いいか?」
ネメシアは、両手で顔を覆って叫んだ。
「こ、殺せぇええええええええええええ!!!」
今夜は無理のようだ。残念である。
百日目 。
結婚式は終わった。
人前で誓いのキスをすると、「殺せぇ」と、か細い声で鳴いていた。
子猫以上に俺の嫁は可愛らしい。
その夜、静かな部屋にふたりきり。
白いドレスのまま、ネメシアは俺の前に立っていた。
肩を震わせながら、俺を見上げてくる。
「……私は、どうすれば……いい……?」
「好きにしていい。俺はお前に触れたい。だが無理強いはしない」
「…………」
ネメシアは、ゆっくりと俺に手を伸ばし、胸元を握ってくる。
「……私は、ずっと、怖かった。自分の気持ちも、ラガンロクの気持ちも」
「俺は、ずっとお前を愛してる。これからも、変わらない」
「ならば……かまわない……」
……その決意も、恥じらいも、すべてが愛おしく、可愛い。
「ラガンロク……」
「ん?」
「好きぃ……」
……反則だ、俺の姫騎士は。
百一日目。
朝。
ベッドの中、ネメシアは掛け布団に包まって丸くなっていた。
「おはよう、ネメシア」
「……ッ……!! くぅ、見るなぁ……!」
「可愛いぞ」
「うう……恥ずかしすぎて、消えてしまいたい……殺せ……殺してくれ、ラガンロク……!」
布団の中で顔を赤くしたまま、俺の胸に顔を埋めたネメシア。
俺は彼女をそっと抱き寄せた。
「悪いが、それだけはできない。お前と、ずっと生きていくためにな」
「…………っ」
「愛している、ネメシア。昨夜のお前は、最高だった」
「~~~~~~っっっっ!! こっ、こ、殺せぇぇぇえええええええええええ!!!!」
俺の嫁となった姫騎士は、今日も元気に殺せと愛を叫んでいる。
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恐怖侯爵の後妻になったら、「君を愛することはない」と言われまして。
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