月の光の麗人がもたらす約束の証は
「ああ、嫌になってしまうわ。お父様ったら、わたくしの社交界デビュタントだからって、こんな仰々しい舞踏会」
広大な屋敷の東の端の一階バルコニーで、アマーリエ・ワイセンベルク公爵令嬢は独りごちている。
今夜は、フランクローパ国王オーガスタの可愛い姪に当たるアマーリエの十七の誕生日。この国では女性は十七の誕生日をもって、社交界にデビューする慣わしとなっている。
アマーリエの父、ワイセンベルク公爵はほぼ半年がかりで今夜の宴の準備をしてきた。
しかし、次から次に見知らぬ貴族の青年からダンスへと誘われ、まだ飲み慣れない果実酒を勧められる自分の身にもなって欲しいとアマーリエは思うのだ。
「今頃、ラウラは大慌てね」
そう思うと気の毒と思いつつ、クスリと笑いが漏れる。
乳母であり同時に教育係でもあるラウラは、両親の全幅の信頼のもと、今夜の舞踏会を張り切って取り仕切っている。
本来なら今時分、将来の伴侶候補と示し合わせたように引き合わされ、踊らされている頃だ。
「わたくし、愛もロマンもない結婚なんて真っ平だわ」
そう。
顔も名前も知らない殿方との結婚なんて。
だから、夜会を上手く脱けてきた。
今頃、大広間では騒ぎになっている頃だろう。
「そう仰る貴女は、『愛とロマン』について何か一家言がおありなんですか?」
「誰……?!」
急に、バルコニーの向こうの暗闇からそう声が聞こえて、アマーリエは動揺しながら誰何した。
供の者一人つけていない今、何か無礼を振るわれたら、アマーリエは抵抗も出来ない。
「そう警戒しなくても何も手出しはしませんよ」
闇の向こうから現れたのは、極めて端正な顔立ちの若い男性。
黒曜石の瞳はまっすぐにアマーリエを見つめ、すらりと立っている。
麗しいブロンドの髪は襟足で切り揃えられ、肌は白くキメが細かい。
最上級の正装をしているところを見ても、今夜の舞踏会に招かれた貴族客だろう。
「あなたは誰?」
「私は今宵の月の光」
「月の光……?」
「ご覧なさい。今夜は月がこんなにも美しい」
その男性の言葉に、アマーリエはバルコニーから天を仰いだ。
空は雲一つなく澄み渡り、満月の明かりが煌々とあたりを照らしている。
それは、清々しくロマンチックな春の宵だった。
「あなたは不思議な人ね」
アマーリエのその言葉に、彼は艶然と微笑んだ。
「あなたの考える『愛』とはどのようなものですか?」
「それは。温かくて、優しくて……お互いがお互いを思い遣ることよ」
「成る程。では、『ロマン』とは?」
「そうね。奇跡のような出逢いとか、別れとか。そういうロマンチックな恋のことよ」
「ふむ」
「わたくし……愛のない結婚なんかしたくない」
アマーリエは思い詰めたように呟いた。
「あなたは意に染まない結婚を強いられているんですか?」
「そうね……。多分、今夜の舞踏会で踊る方の中に私の将来を共にする方が含まれているはず。お父様の意向には逆らえないわ」
「貴女のお父様は貴女の意思を尊重してはくださらないのですか?」
その問いに、アマーリエは首を振った。
「お父様は。私の幸せだけを願ってくださっているわ。だから……」
そのとき、はらはらとアマーリエの碧眼から大粒の涙が零れ落ちた。
〝お嬢様~〟
〝アマーリエ様~~!〟
「いけない。ラウラ達が……」
その刹那。
アマーリエの瞳は、目の前の不思議な美しい麗人を見つめた。
それは、縋るような視線だった。
彼はにっこりと微笑んで言った。
「大丈夫。貴女は愛とロマンに溢れた恋と結婚をします」
「あなたは……わたくしを助けてくださる……?」
彼はバルコニーに添えられたアマーリエの右腕を取ると、涙の滴に濡れるその細い手首の裏側にそっと口づけた。
「な、なっ……!」
「これは約束の証ですよ」
わなわなとアマーリエの体が震える。
口づけなんて、初めての経験だった。
「au revoir !」
彼はそう言い残し、軽やかに身を翻すと夜の闇に消えていった。
「アマーリエ様。ご無事で……!」
青い顔をしたラウラがアマーリエの元に駆け寄ってきた。
「申し上げたいことは山ほどありますが、今はお嬢様のご無事を以て良しとします。その代わり、これから先はこのラウラの申し上げることをきっちり聞いて頂きます」
「何かしら」
「今からある殿方とダンスを踊って頂きます」
「その方が私と将来を約束する方、というわけね」
「さようでございます」
アマーリエは深いため息をついた。
(わたくしはまだ十七。それなのに、恋の一つも知らずに嫁すなんて。
この身はなんと不自由な身分なんでしょう)
気鬱な表情を浮かべるアマーリエの胸中をおもんぱかってか、ラウラは言った。
「お姉様方もそうやって嫁いでいかれて、幸せにお暮らしではありませんか。アマーリエ様も必ず幸せにおなりです。ラウラが附いて参ります」
この忠義心深い乳母の言うとおり、年の離れた姉二人もそれぞれに相応しい相手の元に嫁ぎ、平穏に暮らしている。
しかし、アマーリエが『愛』や『ロマン』に憧れるのは、そもそもこの姉たちの影響だった。
姉ふたりとも嫁ぐ前は、大の『ロマンス小説』愛読者だった。
愛とスリルとロマン溢れる創作小説を国内外から取り寄せては読み耽り、姉同士で愛や恋を語り合っていた。
まだ幼かったアマーリエは、姉たちの話の意味がよくわからなかったが、仲の良い三姉妹のこと。愛や恋やロマンが何か崇高で気高く、美しいものという刷り込みを自然となされたのも無理はない。
しかし、姉たちはデビュタントの年を迎えると憑き物が落ちたように、父の決めた相手の元に素直に嫁ぎ、子をなし、そして幸せに暮らしている。
身分制度の整った貴族社会に生まれ、愛だ恋だと夢見るアマーリエはまだまだ幼すぎるのかもしれない。
「さあ。お嬢様」
ラウラは圧をもってアマーリエに迫る。
「……わかったわ。参ります」
アマーリエは何かを振り切るように、微かな熱の残る右の手首で鮮やかに、瞳の色と同じ紺碧のドレスの裾を翻した。
◇◆◇
「あなたは……!」
「ごきげんよう。アマーリエ嬢」
赴いた大広間のひときわ大きく豪奢なシャンデリアの下に立っていたのは、先ほどの男性。
「こちらはアダン侯爵さまのご嫡男で、オーギュスト様。御年二十二歳であらせられます」
ラウラがかしこまって平伏する。
「言ったでしょう。貴女は『愛』と『ロマン』に溢れた恋と結婚をするって」
悪戯っ子のようにオーギュストはアマーリエに左目でウインクした。
「あなたは……知って……?」
(そうよ。いなくなったわたくしを探しにいらしたんだわ)
そこで、愛とロマンについて意見を交わした。
(だとしたら。わたくしの気持ちをわかってくださった……?)
「アマーリエ嬢。お手をどうぞ」
オーギュストは紳士の礼を供するとアマーリエに恭しく頭を下げた。
アマーリエの体が、心が震える。
先ほど口づけられた手首は未だ仄かな熱を持っている。
(これは……恋……? そして、この方が、私の生涯の……)
アマーリエは自然にその美しい月の光の麗人の手を取ると、軽やかにステップを踏み始めた。
それはこれから始まる華々しい愛とロマンの輪舞。
震える恋の予感を感じながら、暖かな春の宵をふたり踊り明かした。
いつまでも
いつまでも──────
本作は、汐の音さまのフリーイラスト集「自由絵一覧」の4番の絵「手首にキス(セピア調)」に着想を得て執筆しました。
汐の音さま、素敵なイラストをご提供いただき、どうもありがとうございました。
最後までお読み頂いた方にも感謝申し上げます。
尚、下部にあるバナーは、「自由絵一覧」にリンクしています。
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又、イラストに即した皆さんの小説作品にも飛べますので、是非ご覧くださいませ。