僕の初恋相手は、人魚かもしれない。
微かに潮の香りが漂う民家の間をすり抜けて、まもなく見えてきたのは高速道路の下をくぐるトンネルだった。
見据えた先の闇。
そして、その奥に見えた光。そちらの光の方から、目的地であるそれがあることは、波の音を聞くまでもなく、ここに何度も来た過去が教えてくれた。
トンネルを抜けた先には、砂浜と青い海。
風の強い寒い日だった。
西側に輝く太陽が水面を輝かせ、遠くの水平線は揺れていた。
冬の海は、あまり人がいなかった。
強いて言えば、釣り人とサーファーぐらい。
そんな寒空の荒れた海。
誰も寄り付かないようなそんな場所に、僕はやってきていた。
ここに通うようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
始まりは定かではない。ただまだ物心が付かない頃、亡くなったおじいちゃんに連れられてここに通っていた記憶はあった。
さざ波に揺られ、丸みを帯びた大きな石。
それを集めることに、当時の僕は執着していた。昔から、一人遊びが好きな子供だったのだ。
ただそうなった遠因は、おじいちゃんにある。
おじいちゃんは、海に来る度にいつも水平線を眺めていた。高速道路の陸橋の壁の傍にあるテトラポットによじ登り、ただ水平線を眺めていた。まるで、誰かを待っているようにも見えた。
おじいちゃんに相手もしてもらえなかった僕が、石集めに没頭するようになったのは、一人遊びをするようになったのは、至極当然の経緯だった。
おじいちゃんが死んで、一度はここに通わなくもなった。
でも、再び通うようになったのは……多分、時間が出来たから。
さざ波を眺めて、虚無を送る時間が出来たからだった。
小さい頃、まだ自分の意思が薄弱だった頃。
あの時の自分が、今は酷く眩く感じた。羨ましかった。
あの時に戻りたいという気持ちさえあった。
でも、それが叶うことは決してない。
だからせめて、旧知を懐かしむようにここに訪れるのだ。
そうして、虚無の時間を、また過ごすのだ。
いつも通りの、そんな冴えない時間。不毛な時間。
太陽が光る水面を眺めて時の流れを感じながら、このままで良いのかと自問し、そうしてまるで波にさらわれたかのように有耶無耶になっていくそんな時間。
そんな時間に彩りが与えられたのは神の悪戯か。はたまた運命か。
高速道路を走るトラックの騒音を他所に、水平線をただ眺めていた。
……ふと。
ふと、右手にある海に乗り出した小さな小さな灯台が、僕は気になった。
いつも通りの光景。
いつもなら決して興味も示さない、小さな灯台。
灯台の周りには、人が入れないように二本のポールに鎖が繋がっていた。でも度々、その鎖を無視して灯台傍に侵入する人は確かにいる。
大抵、そういう人は釣り人で、灯台周りのテトラポットに集う魚目当てにそこに侵入する。
マナーも守れないろくでなし。
あそこに入る人に対して、いつも僕が抱く印象だ。
その印象が覆った試しはない。釣り人は大抵、大量になったクーラーボックスに喜びを覚えて帰路に着く。そういう人間の笑みを見ていると、自分には関係ないことなのに苛立ちを覚えるのだ。
ただ、今日。
鎖を乗り越えて、灯台の傍に立ち入った人を見て。
僕は初めて、恐怖を感じた。
季節が分からなくなるノースリーブの白いワンピース。
強風で揺れる長い黒髪。
スラっと伸びた足。
横目に、美しい少女だった。
ただその少女は……灯台に目も暮れることなく、真っすぐ。ただ真っすぐ。
荒れ狂う海目掛けて、歩を進めていた。
「やめろっ」
高速道路で走るトラックの騒音。
頬を冷やす冷たい風。風が奏でる雑音。
その音に負けないような声が、喉を震わせた。
自分がこんな声を出せるだなんて、知らなかった。知る由もなかった。
気付けば、一目散に灯台の方に走りだしていた。
砂が靴の中に侵入していった。行く手を阻むように、一歩進む度に、思わず足を上げるのも躊躇うくらいの重量が降りかかった。
気付けば、靴は脱げていた。
それでも足は止まらなかった。
「やめろーっ」
もう一度、叫んだ。
しかし、どうやら少女に僕の声は届いていないらしかった。
海に飛び込む……自殺行為に出る少女に、僕の声は届いていないようだった。
コンクリートで舗装された灯台へと続く階段を昇り、少女の方に走った。
鎖を飛び越えて、灯台を横切って……。
「え」
海まで目前に迫った少女の手を掴むと、彼女からそんな間抜けな声が聞こえてきた。
間に合った。
しかし、少女を陸へと引っ張るも、無駄だった。
僕達は、大きな水しぶきを上げて海へとダイブした。
* * *
強い頭痛で目が覚めた。
見上げた天井には、いくつかのシミ。額にはたくさんの汗。そして、布のような肌触り。これは何だろうか。そう思って布に触ると、痛みの主因がそこら辺だったのか再び頭に激痛が走った。
頭痛が収まった頃、ゆっくりと体を起こすと清潔感ある白いベッドの上に自分が横たわっていたことに気が付いた。
そして、薬品の匂いが鼻孔を刺激した。
既視感のある匂いだった。
これは確か、おじいちゃんが死んだ時、病院で漂ってきた匂い。忘れられそうもないそんな匂い。
「あら、起きた」
シャーっとカーテンが開くと、そこにいたのは母だった。
「……ここは?」
戸惑う頭で開口一番に出たのは、そんな疑問だった。
「病院」
「……病院? なんでそんなところに、僕が?」
「海に落ちたのよ、あんた」
呆れた母の声に、僕は余計に戸惑った。
「僕が……海に?」
「そうよ。まったく。おじいちゃんみたいに海に通うようになったと思ったら海に落ちるだなんて。女の子が助けてここまで運んでくれなかったらどうなっていたことか」
「女の子? 助けてくれた?」
疑問符が途切れなかった。この頭痛のせいか、イマイチ記憶が定かではなかった。
ただ、母の言葉に強い違和感を覚える理由は、どうしてか。
「今度お礼言っておくのよ。その子に」
「……えぇと、その子どんな子?」
助けてもらっておいて覚えてすらいないのか。母はそう言いたげに、再び呆れたような顔をした。
「知らないわよ。あたしが来る頃にはその子、もう病院から出てたみたいだもの」
母は、少し怒っている風に見えた。
これ以上の詮索は、母の怒りに油を注ぎかねない。そう思って、一先ず苦笑して誤魔化した。
「……一応、頭を打って気を失ったってことで、あんた明後日まで検査入院することになったから」
「え」
「これ、そのための着替え」
母から黒のボストンバックを押し付けられた。
「迷惑かけないようにしなさいよ。本当にもう……」
「……ごめんなさい」
僕から漏れた謝罪の句に、母は少し気が済んだらしかった。一つため息を吐いて、そうしてそろそろここを去ろうとする気らしかった。
「安静にしてなさい。後、今度ちゃんと女の子にお礼を言う事」
そう言われても、身に覚えがなくてお礼は出来そうもない。
有耶無耶な言葉が口から漏れた。
母は、僕の態度から相変わらず僕が件の少女のことを思い出せないでいるらしいことを察したらしかった。
「看護師さん曰く、その子白いワンピースを着ていたって。季節外れで寒くないのかって聞いたら、よく覚えているって」
だから母は、そんな言葉を最期に残した。
季節外れの白いワンピース。
おぼろげな記憶が、蘇っていくのがわかった。
記憶が蘇ってきて沸き上がった感情は……記憶が戻ったことの喜びでも安堵でもなく、少女に対する感謝でもなかった。
「なんだって!?」
「静かに! 病院よ、ここ」
そう僕を叱責する母の方が大きな声だった。しかし、当然そんな文句も言う事は出来ず、僕は睨む母にもう一度謝罪の言葉を口にしたのだった。
季節外れの白いワンピース。
その少女に覚えがある。
が、母の供述には記憶がない。具体的に言えば、僕がその少女に助けられたとの供述と、僕が海に落っこちたとの供述だ。
「あの女」
怒りのあまり、一人になった病室で歯ぎしりしていた。
あのワンピースの女、嘘を吐きやがった。
自分が海に落ちそうになったのを、本当は僕が助けたのに。それをさも自分の手柄のように言いやがったんだ。
少女に対して、僕は言いようのない怒りを覚えていた。
* * *
病室での時間は、最近暇な時間が多い僕を以てしても思わず退屈だと感じてしまうくらい、暇な時間だった。
味気のない病院食。
質素な部屋。
持ち込まれた娯楽アイテムと言えば、最近母がハマっている文学小説二冊くらい。生憎、活字を読む気力が湧かない僕にとっては、娯楽とは言い辛いそんな代物だった。
さっきまでは病院の外を景色を見ていたが、この辺の景色は酷く殺風景だった。辛うじて、遠くに微かに青い海が見える。
しかし、意識してようやく見えるそれでは暇を潰せるはずもなく、不毛な時間は今日も過ぎていくのだった。
検査入院の三日は、学校も休みとなった。
休む前最後に行った学校では、二週間後に迫った中学二年の期末テストの話題が散見されたが、それすらもないとなると、日頃勉強の話は嫌いな僕でも、その話を久々に聞きたいと思う程度には暇だった。
見舞いの客は、一人も現れなかった。
一人遊びが好きな僕に、特別仲の良い友達はいなかった。
ただ、仮に仲の良い友達がいたとして、改まって見舞いに来られると委縮するのは目に見えていた。そういう男だ、僕は。
だから、それはむしろこれで良い。
でも、ただ一人に対しては別だった。
どうして今日まで一度も見舞いに来ないのか。掃除をサボった時にテレビの上に溜まっていく埃のように、僕の中のその人に対しての鬱屈した気持ちは積もっていった。
白いワンピースの少女。
僕が海に落ちた主因であり、元凶。
あまつさえ、虚偽の報告をし、この怪我が僕の自業自得のようにさせた憎き人。
その少女は、一度くらい見舞いに来て文句を言われるべきだと僕は思っていた。ただ、入院二日目の夕方に迫るこの時間にも、少女は姿を現す気配はまるでなかった。
それはまるで、自分は何も悪くないと言われているようで、心底腹が立った。
母が持ってきた文学書を読み、余計にイライラが積もっていったから、我慢の限界は間近に迫っていたのだった。
次会ったら文句を言ってやる。
そう決心も付きかけていた。
と、丁度その時、病室の扉がノックされた。
母親だろうか。疑問に思いつつ、どうぞ、と僕は言った。
「こんにちはー」
病室に入ってきたのは、笑顔の少女。
屈託のない笑み。長く艶やかな黒髪。そして、スレンダーな体形。
身に覚えのない人の登場に、僕は固まった。
「元気してたー?」
最初は、人違いなのではと思った。
が、どうやらそんなことはないらしい。彼女の口振り的にわかった。
「……えぇと」
「あれ、もしかして覚えてない?」
困り果てた僕に、相変わらず微笑んでいる少女。
「頭を強く打ったせいかな。まったく、危ないからもうあんなことしちゃ駄目だよ?」
頭を強く打ったせい。
それはまるで、今僕が入院する原因に関わっているような口振りだった。
しばらく考えて、
「あー、あのワンピース女!」
僕は少女を指さして、叫んだ。
あの日は、白いワンピースに気を取られるあまり顔をよく見ていなかったから、いざ来られてみてもすぐには気付けなかったのだ。
「しー。駄目だよ、ここ病院」
「あ、ごめんなさい」
謝って。
「いや、誰のせいで入院していると思っているんだよ」
「え、あたしのせい?」
「いや、そうだよ」
心の底から自分のせいと思っていなさそうな少女に、僕は文句を言った。
「あの時、君が飛び込もうとしているのを見て自殺だと思って。だから走って止めに入ったんだ。なのに君ときたら、まるで僕が海に落っこちて自分が助けたみたいに言ったそうじゃないか」
「アハハ。そうだっけ?」
「そうだよ。それで母さんにまで余計に怒られたんだ。折角助けようと思って慣れないダッシュまでして、なんでこんな仕打ちを受けないといけないんだよ」
「いやだって、助けられてないし。海に落ちたよ。あたし達」
「うぐ」
それを言われると弱い。
「それに、助けたと言いながら海に落ちて助けた側だけ気を失いましただと格好つかないじゃない? 君の為を思ったんだよ、あたし」
「……そうなの?」
「うん」
「じゃあ、まあ……」
確かに。
助けようとして助けられませんでした。それを当人の前でぐちぐち文句を垂れます。格好悪いことこの上ない。
「……良いんだ、それで」
少女は、小さい声で驚き交じりに笑ったようだった。
「何笑ってるんだよ」
「別に?」
ただ、と少女は付け足した。
「面白いね、君」
微笑む少女の笑顔は、整った顔立ちも相まって、とても美しかった。
その時僕は、自分の心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。
* * *
少女は、自分の名前を有恵と名乗った。
有恵は、不思議な人だった。年は当人曰く、僕と同じ十四歳。住まいはこの辺で、あの日海に立ち寄ったのは、海が好きだから。飛び込もうと思った理由は、結局最後まで教えてくれることはなかった。
有恵は、自由奔放だった。
あの一件以降、彼女は僕を気に入ったのか僕に付きまとうようになった。まさか昼間に学校にやってくるだなんてそんなことまでしてくるだなんて、されるまでは思うこともなかった。
ただ、彼女との時間は嫌いではなかった。
人との関わりが常に軽薄な僕にとって、向こうから興味を示してくれる有恵という存在は、まるで宇宙人との交信。未知との遭遇だったのだ。
新鮮なそんな時間は、今日も行われていた。
「喫茶店に行きたい」
有恵がそんなことを言い出したのは、つい先日僕達と同じ年頃の女子が海の傍の喫茶店に入店していったのを見たかららしかった。
あの店は何の店なのか。近所に住んでいる癖に、有恵はその店が喫茶店であることを知っていなかった。
「良いけど、お金はあるの?」
「ない」
「……また僕のおごり?」
「ごめんね?」
「悪気があるなら、お金を持ってきてくれ」
文句を言いつつ、僕達はその喫茶店に入店した。
僕がコーヒーを頼むと、有恵も同じものを店員に注文した。
まもなく運ばれてきたコーヒーを一口含んで、有恵は「苦い」と顔を歪めた。
その様子に、馬鹿な奴だとほくそ笑みつつ、僕はミルクとシロップを入れてコーヒーを飲んだ。
穏やかな時間を送っていた。
トラブルメーカーな彼女に振り回されている最近では滅多にない時間だった。
そんな喫茶店にピアノの音色が響いたのは、それからまもなくだった。
それなりに人気のある喫茶店。そこには、親同伴で小学生低学年くらいの少女達も来ていた。少女達は、世間話に勤しむ両親に嫌気が差して、ピアノで遊び始めたのだった。
とは言え、少女達はピアノを習っているらしく、拙いながらに覚えたての指捌きでピアノを演奏していたのだった。
……有恵は、
「何あれ」
知的好奇心が旺盛な少女だった。
「ピアノだよ。知らないの?」
「知らない」
そうあっさり言われると、馬鹿にする言葉も引っ込んでしまった。
そのままピアノを聞いているだけの時間を二人でしばらく送った。
「ねえ、ピアノ弾いてみてよ」
そんな時、唐突に有恵はそんなことを僕に言い出したのだった。
「嫌だ」
「いいじゃん」
「嫌だ」
むーっと有恵は頬を膨らませた。
「ピアノ弾けないの?」
弾けない。
そう言えば、この無駄な問答も終わる。
……が、何分嘘を付けない質なもので、その言葉は中々出てこなかった。
「弾けるんだ」
「うるさい」
「弾けるなら弾いてよー」
……失敗した。
さっさと弾けないと言えば良かったのだ。いつだって僕は、こうして後になって後悔をするのだ。
「お兄ちゃん、ピアノ弾けるの?」
さっきまでピアノを弾いていた少女達が、僕達の席にやってきていた。
羨望の眼差しで、少女達は僕を見ていた。
そして、そんな僕達を楽しそうに見ている有恵。
こうなれば、最早拒むことは出来ないことを僕は察していた。
せめて早く終わるように。
そんなことを考えながら、僕はピアノの前の椅子に腰を下ろした。
久しぶりの触る鍵盤は、酷く指に馴染んだ。
僕は懐かしさを感じつつ、ピアノを弾いたのだった。
* * *
「なんでもう帰るのよ」
一曲弾き終わって、僕はお会計を済まして有恵の手を引いて喫茶店を後にした。背後の有恵からそんな文句が漏れていたが、僕は無視して道を歩いた。
「戻ろうよ」
「嫌だ」
「もう一曲弾いてよ」
「嫌だ」
「なんでよ」
握っていた有恵の手が離された。
「あの子達より全然上手じゃん。もっと弾いてよ」
「嫌だ」
「嫌だ嫌だばっかり。なんでよ」
「うるさい」
本当に、うるさい。
ピアノを弾こうが弾かないが、そんなの僕の勝手だ。他人にどうこう言われたくない。
「弾いてよ。弾いてよー」
が、さすがにうるさい。うるさすぎる。
……面白くもない話だけど、多分、するしかないのだろう。
「弾きたくないんだよ」
「なんでよ」
「……誰からも、必要とされていないから」
「はあ?」
まるで意味がわからない。そう言いたげな声だった。
「あたしが聞きたいって言ってるでしょ」
「でも、すぐそうじゃなくなる」
沈黙が流れた。
ふと、背後にいる有恵へと僕は目を向けた。相変わらず彼女は、僕の言わんとしている意味を察していないらしかった。
「小さい頃から、ずっとピアノを弾いてきたんだよ、僕」
だから僕は、語りだした。
「白と黒の鍵盤。それを押すことで音が鳴って、最初は意味もわからず押して、どの音が出ているかもわからなくて、でも学び始めたらどんどん意図した音が鳴るようになって、それが楽しくて。のめり込んでいったんだ」
彼女を納得させるべく、語りだした。
「ずっとピアノを弾いていた。だから誰よりも上手くなった。小学校の頃は神童なんて呼ばれたりしてさ。出る大会出る大会で結果を出してさ、それも相まって、更に……楽しくなってさ。
でも、長続きしなかった」
……契機は。
「契機は、大会で結果を残せなかったことだった」
有恵は相変わらず、黙って聞いていた。
「一人の少女に負けたんだ。完敗だった。舞台袖から聞いたその少女の演奏は、今でも忘れられない。今でも。とても綺麗な音色だった。本当に凄くて……勝てるはずもないって、そう思わされたくらいだった」
「……それで?」
有恵は続けた。
「それで、嫌になったの?」
それで嫌になったのか。
井の中の蛙大海を知らず。まさしく僕は当時、そういう状態に陥った。自分の程度を知り、身の程を知り、しょうもないプライドを打ち砕かれた。
だから、嫌になったのか。
有恵の言いたいことは、つまりそう言う事だ。
……でも、残念ながら違う。
「まさか」
僕は微笑んだ。かつてを思い出し、微笑んだ。
「むしろ嬉しかった。沸き立った。自分でも敵わない相手がいるんだと。自分はまだまだ上手くなれるんだと。そう思って沸き上がった。負ける前より、ピアノに熱中したよ!」
どうすれば彼女に勝てるのか。
どうすれば彼女より上手くなれるのか。
あの時は、ずっとそんなことを考えていた。
本当に。本当に、楽しかった。
楽しい時間だった。
「練習の末、僕はその少女に打ち勝った。その少女がいる大会で、少女に勝る結果を残せたんだ」
あの時は、本当に嬉しかった。
「その結果、どうなったと思う?」
背後にいた有恵に、僕は苦笑交じりに尋ねた。
有恵は、何も言う事はなかった。
「……皆、僕をないがしろにするようになった」
それが、僕がピアノを辞めた理由。
結果を残した僕を、皆が認めてくれなかったから。
だから僕は、ピアノを辞めた。
「皆は僕に対して、打倒だとか、目標だとか、そういう言葉を掲げていたんだ。僕は打ち負かされるべき存在。そうして僕は、その役目を果たすべく一人の少女に打ち負けた。皆にとって僕は打ち負かすべき悪で、悪である僕を打ち負かした少女は悲劇のヒーローだった。
だから、そのヒーローが再び巨悪に負けた時、皆は僕のしてきた行いを否定した。僕に罵倒した。僕を罵声を浴びせた」
……例えば。
成金常勝プロチームを悪とする風潮がこの世には蔓延っている。巨額の資金を投入し、金に物を言わせて他チームを圧倒するチームを悪だと否定する人がいる。
でも、その行いのどこがおかしいことなのか。
良い選手を取られたくないなら。
巨額のチームに良い選手を引き抜かれたくないなら。
他チームだって金を出せば良い話じゃないか。
資金がないから。
ネームバリューがないから。
そんなのはただの言い訳だ。
そんな言い訳を持ち出す時点で、正々堂々と勝負する土俵に立たない言い訳にする時点で、相手を批判する権利は彼らにはない。
「だから、僕はもうピアノを弾きたくない。善良な僕を悪だと宣うろくでなししかいないこの世界に、関わりたくなんてないんだ」
それが、僕の全て。
ピアノを捨てた僕の全てだった。
……有恵は、
「しょうもない」
僕の話を一蹴した。
「……そうかもね」
ただ、言いたいことはよくわかった。
……ピアノがなくなった僕の人生は、実に空虚だったから。
暇な時間があれば、海を見るようになった。目的もなく、意思もなく。ただ昔に戻りたいと、海を見ていた。
そんな今の空虚な人生を鑑みると……嫌って程理解させられる。
自分には、ピアノしかなかったのだと。
「本当に、しょうもない人生を送っているよ、僕」
「しょうもない人生?」
有恵は、首を傾げていた。
「ピアノのない人生が、しょうもないの?」
そして、そう僕に尋ねてきた。
僕は、何も言えなかった。ただ少なくとも、僕はそう思っていた。
「しょうもない人生の基準って、何よ」
……が、どうやら有恵の言いたいことはそう言う事じゃないらしかった。
「……それは」
言われて確かに、僕はそれを決める基準がわからないことに気が付かされた。
「例えば動物。家畜としてただ食べられる運命の動物の生き様はしょうもないの? 漁師の網にかかった魚の生き様はしょうもないの? ううん。違う。当人達含めて、しょうもないなんて思っていないでしょうね」
「それは考える力がないから、だろ?」
「考える力がなかったら、じゃあそれは素晴らしい生き様なの?」
……違う。そんな気が、する。
「長生きすれば素晴らしいの? 子孫を残せば素晴らしいの? 名誉を得られれば素晴らしいの? ううん。違う。だって、そんなの人の捉え方で変わるじゃない。人によってはそれは素晴らしいと言うし、人によってはそれは大したことがないと言うし、人によってはしょうもないと言う。つまりね、人生にしょうもないも素晴らしいもない。序列なんてないのよ。生き物の生き様にはね」
有恵の話は、目からうろこだった。
……ただ。
「じゃあ、君が僕の何を思ってしょうもないと言ったんだ」
「自分のしたいことをしないことだよ」
……何を言っているんだ。
「ピアノ、弾きたいんでしょう?」
……僕は何も言えなかった。
「あなたの話だと、要はあなたは他人が自分を認めてくれないから、自分の好きなことを辞めたわけでしょう?」
「……そうだ」
「それがあたしはしょうもないと言っているの。だって、本当にしょうもないじゃない。好きなことなんでしょ? 誰にも負けたくないと思うくらい、好きなことなんでしょ? なのに途中で諦めて不毛な時間を過ごして、それで良いの?」
何も言えなかった。
「人生にはしょうもないも素晴らしいもない。でもね、そうやって今のあんたみたいに、人は比べるものなのよ、生き様を。二十歳になった時。三十歳になった時。あなたは今の選択を後悔しない?」
……何も、言えなかった。
「他人が自分の人生をどう評するかなんて、そんなの人次第」
有恵は……、
「でもね……」
僕の胸倉を掴んだ。
「自分で自分の人生をしょうもないと、そんなくだらないこと言ってんじゃないわよっ」
そして、そう叫んだ。
「他人が認めてくれない。だから好きなことを辞める? そんなの理由になってない! そんなのあたしにあんたの演奏を聞かせない理由になってない!」
有恵の気迫に、僕は気圧されていた。
「弾きなさいよ! 後悔がないと言えるまで。弾き切ってみなさいよ! もう辞めて良い。満足したと思えるまで弾いてみなさいよ!!!」
ただ、言葉は届いていた。
「……そうやって不毛な時間を送るのは、その後でも遅くないんじゃない?」
両耳に、しかと届いていた。
燻っていた何かが、燃え始めた気がした。
* * *
彼女に叱咤激励されたあの日から。
ただ空虚だっただけの僕の人生は、再び彩られた気がした。
ピアノは再開した。
他人に認められたい。
思えば僕のピアノに取り組む理由は、ずっとそれだった。だから結果を出しても尚認められなかった時、自棄になったのだろう。
ただ、彼女のおかげでそれも少し変わった気がする。
結果を残す。
認めてもらう。
それだけだったはずの僕の音色が、少し変わった気がした。
一年余りのブランクがあったのに、かつてと違う自分の音色に。
僕はまだまだ成長出来るのだとそう悟ると、涙が零れそうなくらい嬉しかった。
それからは、暇さえあればピアノに向き合うようになった。
どうすれば上手くなれるのか。かつてと同じ気持ちなのに、かつてと少し違う向き合い方を僕はするようになっていた。
その日は、有恵と出会って三か月程経ち、寒かった外も少しは温かくなってきた、春の訪れを予感させるそんな日だった。
運動が苦手ながら必死に、僕は走っていた。
練習が休みの日、有恵に会いたいと思い、海へと走っていた。
「有恵ー」
海岸に着くと、胸が高鳴った。有恵がいたからだ。
……有恵は。
あの、侵入禁止の灯台の傍に立っていた。
「おはよう」
「……おはよう、有恵」
胸が、ざわめいた。
灯台の傍に立っていた有恵の顔は、朗らかな彼女には似合わない……寂しそうな顔だったから。
「どうかした?」
だから僕は、気付けば開口一番にそんなことを聞いていた。
「え?」
「……有恵、寂しそうな顔をしていたから」
「……あはは。わかった?」
「勿論さ」
「……実は、さ」
有恵は、静かに語った。
「あたし、こうしてここに来たの。実は久しぶりだったの?」
「……どういうこと?」
転校していた、とかそういうことだろうか?
「ずっと遠くにいたの。でも、探している人がいたから。こうして戻ってきた」
「探している、人」
「うん。そうなんだ」
……僕は世間知らずで、知的好奇心が旺盛で、同い年とは思えないくらい人生観を持っている彼女に、救われた。
惹かれていた。
いつの間にか、そんな彼女に惹かれていたのだ。
胸が高鳴って。
彼女に会えると嬉しくなって。
ただ、気恥ずかしくて何を言って良いかわからなくて。
茶化されて。
悪態を突いて。
微笑まれて。
……そうして、一層惹かれて。
これが、恋なんだってことはすぐにわかった。
今、僕は初恋をしているんだってことはすぐにわかった。
だから、彼女の力になりたいと、そう思った。
「名前、わかる?」
「え?」
「探している人の名前、わかる?」
有恵は、僕が彼女が探す人の名前を尋ねる理由を最初わかっていないようだった。ただすぐに理由に気付いて、嬉しそうに微笑んだ。
有恵は言った。
「浜田雄二って言うの」
忘れない。
忘れもしない。
その名前を、忘れたことは一度だってない。
「昔、この海岸で助けてもらったことがあるの」
何度もこの海岸に一緒に来た。
「そう言えば、あなたと少し雰囲気が似ている」
死に際だって看取った。
浜田雄二。
それは、僕のおじいちゃんの名前だった。
同姓同名かもしれない。まったくの別人かもしれない。
でも……。
おじいちゃんがこの海岸に通った理由。
彼女が世間知らずな理由。
彼女が明確な人生観を持っていた理由。
あの時、彼女が海に飛び込もうとした理由。
全てが……繋がった気がした。
『僕の初恋相手は、人魚かもしれない』
よく人魚に行き着いたな、と若干思うが、タイトル以外で人魚を仄めかしたくなかったのでこうなった。
インパクトの強いタイトルにしようしようと思っているが、最近インパクトの強いタイトルがわからない