聖女の深淵
もう、いつから線を引いていないだろう。
九十五本目の線を引いたあたりで使っていた破片は砕けてしまった。その様はまるで暗闇が覆うミコトの心を表しているようで、空虚な感情で床に散らばったかけらを眺めていたことをぼんやりと覚えている。
空を見上げることも外に出ることも叶わず、代わり映えも無く相変わらず悲惨な日々に、ミコトは希望を抱かなくなった。
凄惨な環境はミコトの身体も蝕んでいた。
ほとんど起き上がることもできず、鞭を打たれてどうにか祈りを捧げる。
そんなミコトを夜ごと弄んでいた者たちは、徐々にミコトに興味を示さなくなった。
食事も時々思い出したように差し出されるようになって、食べない回数が増えた。
頭も働かなくなり、ミコトは表情もなく人形のようにぼんやりするようになった。
────寝たきりになりつつあるミコトを彼らが持て余していることは、ぼんやりした思考でも感じ取れた。
外を見る術を持たないミコトは、もう考えることしかできない。
世界は今、どうなっているのだろう。
機械人形のように繰り返す祈りはちゃんと意味を成しているのだろうか。
幼馴染の彼は──いや、勇者は今どうしているのだろう。
幼い頃みたいに、泣き虫だった彼が誰かにいじめられている所へ駆けつけてあげられないような、そんなずっとずっと遠くに行ってしまっただろうか。
今度は俺が守る番だと言ったのに、一体彼は何をしているのだ。
こんなにも、こんなにも、求めているのに。
いつまで経っても、彼が迎えに来てくれない。
ここは一体どこ?
私は今どこで何をしていているのだろう。
何のために平和を祈り続けるのか。
夜ごと侵されている私の平和は一体誰が祈ってくれるのか。
ミコトの心は深い深い闇の底に堕ちていた。
堕ちた闇の底から心を掬い上げてくれる者は、彼女のそばにいない。
考えることさえ、暗闇に堕ちようとしていた。
異世界に来て、何日が経った頃だろう。
ある日、轟音が響いた。
バタバタと忙しない足音と悲鳴が、何か厄介ごとが起きたことを物語っていた。
それでも起き上がる体力も尽きかけていたミコトには何も出来ることはない。
聖女が衰弱した分だけ、祈りの力も弱まっていた。
神殿の上層部はそれを知りながらも、国に報告することもせず、自分たちが生きることだけを考えていた。
その結果が、襲撃だった。
モンスターを引き連れた魔王の手先が、神殿の結界を破り入り込んだ。
ミコトがいる部屋の外では、惨劇が繰り広げられていることだろう。
ぼんやりと寝台に寝そべりながら、ミコトは何かの咆哮と、ぐちゃぐちゃと肉を揉むような音を聞いた。
もうどうでもよかった。
彼らが死のうと、生きようと。
元々、自分には縁もゆかりもない世界だったのだから。
扉が破られ、ぐるるると唸る声と誰かがミコトの部屋に侵入した。
寝台にいたミコトは静かに首だけ動かして侵入者たちを見たが、視界もぼやけていて彼らの容貌は分からなかった。
誰かが何かを喋っている。
その声はミコトの耳には入らない。何でもいいから、殺すなら早く殺して欲しかったから。
唸り声と共に誰かが近づいてくる。
ミコトの耳には近づく気配がようやく迎えられる終わりの足音のように聞こえていた。
臭いにおいが鼻を突く。ハァハァと獣の息遣いと生温かくべとっとした液体がミコトの上に落ちた。
不快だったが、もう終われるなら何でもよかった。
ミコトはゆっくりと瞼を下ろした。
もう本当に終わりたかった。
視界を覆う闇に身を委ねれば、意識は泥濘のようなあたたかいところに沈んでいく。
次に瞼を開くことはない。
ミコトの意識は、深く深くまで沈んでいった。