海の見える坂道 01
「お父さんが,手術したの。心配はないのよ。ただ、家も携帯電話も、少しの間、繋がりにくくなるから、一応、連絡しておいたほうが良いかなと思って。」
母は、どこまでも、マイペースな人だ!
「父さんが、入院したことも手術したことも、事後報告かよ!」
「あら、だから、連絡してるでしょ。今。」
と、一昨日連絡があり、あわてて上司に相談して、やっと今日休暇が取れ実家へ向かった。昼下がりの駅から、実家へ向かっている今、僕は、久々に駅から実家のある街へと続く坂道の上で立ち止まった。
バブル全盛期に、住宅地はどんどん、都心を離れ開発されていた時に、親父が選んだマイホームの街だ。僕が住んでいた10年前当時とほとんど変わりない街の風景に、ほっと、息を吐く。
「いいなあー。カモメが飛んでいる。」
「トンビの声も聞こえてくる。」
「まだ、暑いけど、夕方には、海風が吹いてきて、気持ちいいんだよなあ。」
東京、豊洲の高層マンションで、僕は、便利な生活を送っている。でも、この街でしか味わうことができないこともあるんだ。
僕は、忘れていた。
この坂道が好きだった。
この街が好きだった。
僕の実家は、都心へと繋がる路線の駅の西口をでて、まっすぐに伸びている比較的大きな道を歩いていくと急に視界が開ける坂道を下りたところにある。僕は、この街が好きだった。街が好きと言うよりも、丘の上から見る、この坂道からの風景が好きだった。この丘の上からは、遠くに海が見えるが、おかしなもので、坂道を下りて海に近づくと、実際には海は見えなくなってしまうので、この丘の上から、眺めるのが一番景色が良いということだ。
中学に入るときに、東京からこの街に引っ越して来た。学校は、駅近くにあり、毎日坂道を上り下りしたものだ。夏真っ盛り、部活を終えて、帰宅するとき、この坂道を下るころ、夕日が遠くの海をオレンジ色に照らしていた。一瞬、波の音が聞こえてくるような錯覚に陥り、足を止めて、
「あー、泳ぎてえなあ」
と、良く言っていた。
そういえば、バスで10分も行けば、海水浴場だったのに、部活でくたくたになっている僕は、結局中学3年間、泳ぎにはいかなかったっけ。
そして高校も、駅を二つ行った先の高校だったので、この坂道を同じように通った。やはり、部活で毎日遅くなり、今度は、夕日を眺めることは無理になったが、丘の上からみる街の灯りと、岬の灯台の灯りを眺めるようになっていた。街路灯や、家々の灯りが、つつましくも暖かく感じられ、その先に、月明かりにきらめいている海が見えると、得した気分だったことも思い出した。
大学は、自宅通学のはずだったのだが、授業やサークル、バイトと忙しく、大学近くの友人のアパートに入りびたりで、月に何度、帰宅したか。どうしても、授業で必要な資料を取りに戻ると、
「あらー、今日は何の用事?」
母からは、驚かれたり、あきれられたり。そんな僕は、だんだんと、坂道からの景色を忘れていった。生活に余裕がなくなっていることにさえ、気づかないまま大人になっていた。
なんとか大学を終え就職。僕は自宅通勤が良かったのに、仕事はハードで、連日の深夜の帰宅となり、母のほうが根を上げ、厄介払いとばかりに、当時付き合っていた妻、和との結婚を急かせれ、花の独身貴族を満喫することもなく、平凡な家庭人となって、はや10年。マイホームを得るため、家族を守るため、残業も休日出勤もこなし、走り続けてきたが、最近、自分が疲れてきていることに気付いていた。
和も、マンションでの生活に、もやもやとしたものを抱え、子供に当たっては、反省しきりだ。彼女だって、妻となり、母親となり、平凡とは言っても、忙しい日々だったのだ。
窓を開けても、隣のマンションが、見えるだけ。便利な環境は手に入れたが、もう少し、ゆったりとした時間を送ることはできないものかと、疑問を感じていた。そんな矢先の母からの電話だった。
最近は、車で帰ってきていたので、丘の上からの景色を忘れていたが、今日は久々のこの景色を堪能して、ゆっくりと坂道を下りた。海は見えなくなったが、潮の香りが鼻をくすぐる。この街での生活が走馬灯のように思い出されてきた。
「懐かしいなあ。中学の奴らにも、今度、声をかけてみよう。」
実家の玄関先で、潮の香りを大きく吸い込んでドアを開けた。
「ただいまー。」
「お帰り、来なくてもよかったのに。」
「まったく、脅かさないでくれよ。」
「脅かすなんて、人聞き悪いでしょ。」
「外科なんて、手術してしまえば良くなるさって、父さんが言ってたわよ。」
「似たもの夫婦だねー。父さんも、母さんも。」
「昨日、まなとゆうすけをつれて、和ちゃんが病院に来てくれて、お父さん喜んでたわ。」
「俺もさっき、病院寄ってきた。」
「あんまり元気なんで、驚いたよ。」
「でも、本当はどうなの、父さん?」
「あー、和から大体は聞いたんだけど、母さんから直接聞きたいと思ってさ。」
「何を?」
「何をって、本人には話してない話もあるかなって思って。」
「何それ、ドラマ見すぎなんじゃないの!」
母は、涙を流して笑っている。まあ、これなら安心か。考えすぎか。照れくさそうにしていると、
「病人は、あんたや和ちゃんなんじゃないの?」
呑気そうにしている母だが、見るところは見ているんだ。僕も彼女も疲れていることを見抜いている。舌を巻いた。これじゃ、あべこべだ。
「あのさ、帰ってきても、いいかな。」
「部屋は、たくさん余っているから、良いんじゃない。」
「和も、きっと、賛成してくれると思うんだ。」
「一人で、決めないでよ。まあ、父さんも私も、うれしいけど。」
「子供たちも、あなたと同じように、この街が好きになってくれると良いんだけど。」
母は、僕がこの街を好きだったことも知っていた。
帰り道、丘の上で立ち止まり、遠くの海をみた。
海はオレンジ色に染まり、一瞬、波の音が聞こえてきたような気がした。