坂の上の魔女-Witch,special,and Cinderella-
お久しぶりです。
短編を作りました。
イミイルの方もよろしくお願いします。
毎日の中で、あなただけの特別があったなら。
それはとてもすごいことだと思います。
坂の上の幽霊屋敷には魔女が住んでいる。
それは小学生の頃から有名だった噂話の一つだった。
小学生というのは噂話が好きで、なぜかというと、それは恐らく友人と共通の話題を常に欲しているからだ。誰かと話をするためには話題が必要で、それが誰でも知っているものなら話しやすい。知らない人とも話すきっかけになる。
だから皆噂話を広げている。
噂話の信憑性なんてほんとはどっちでも良くて、ただその話で友人と盛り上がることができればいいのだ。
本当か偽物かなんて関係ない。
今日の給食のメニューに嫌いなものが入っているとか、昨日の好きな番組の話とか。
そういった日常の話題の中の一つに、それは紛れ込んでいる。
魔女というのは、魔法を使うことができる女の人のことだ。
魔法を使うことができる人なんて見たことがないから、魔法がどういうものなのかなんて知らないけれど、恐らくはキラキラとした不思議な力のことを言うのだろう。
おとぎ話の中に魔女はよく現れる。
王女様にかぼちゃの馬車を与えたり、王子様をカエルに変えてしまったり。
そういった、物語の中の重要なファクターとして魔女は登場する。
魔女は不思議な力で登場人物の助けになったり、邪魔をしたりする。
物語の中の魔法は何でもありで、大抵は物理法則に反している。だから魔法というものは魅力的に見えるのだ。
魅力。
人を惹きつけるもの、魔女が登場する話を考える。何だっていいのだが、ここではシンデレラにするとしよう。理由は単に認知度が高いからだ。所謂、噂話と同レベルの話なのだ。
シンデレラという話の中で、女の子が憧れるのは何だろう。
例えば学校でシンデレラの劇をやったとする。
シンデレラはたくさんの生徒が希望するはずだ。それはシンデレラが女の子の憧れだからだろう。
でも、それは少しズレている。
意地悪な家族にこき使われて、それでもめげずに頑張ったことに憧れている人は少ないように思う。
女の子が憧れているのは『魅力的に生まれ変わること』なのだ。
恐らくは物語の中でシンデレラが元々馬でも牛でも大差ないだろう。
綺麗なドレスに着替え、ガラスの靴を履き、豪華な馬車に乗って夜のパーティに出かける。それはシンデレラでなくてもしていることだ。だが主人公のシンデレラにはパーティに参加するまでに一度生まれ変わっている。
そこが、逆に言えばそれだけがシンデレラの違いだ。
シンデレラが生まれ変わる条件には、日々の努力によって魔女に認められることがある。
意地悪な家族に虐められていたから可哀想に思って、ではないのだ。綺麗なドレスも、豪華な馬車も、ガラスの靴も同情されて贈られた品ではない。あれらは全て努力によって得た報酬なのだ。
クラスの劇で、主役を勝ち取った女の子は前半のシーンで努力するのだろうか。
意地悪な家族から虐められ、それでも雑用を頑張ることができるのだろうか。
恐らくそれはない。
理由は、クラスの劇では時間が経てば勝手に魔女が助けてくれるからだ。
後に来る救済を知っているなら、それには何の意味もない。
そう、ジャンケンで勝ったとか、くじ引きで引いたとか。そういった理由でシンデレラをやっているに過ぎない。
他の誰がやったとしても、程度の差はあれシナリオには何の変化もない。
意地悪な家族に虐められて過労死するわけではないし、劇が進めば勝手に魔女が助けてくれる。
当然魔法はバレないし、ガラスの靴はシンデレラの足にぴったりとはまる。
誰がやっても王子様には一目惚れされるし、ハッピーエンドは時間経過の産物だ。
誰だって結果の付いてくる今に憧れるものだ。
見えない未来に向かって努力し続けるのは難しいし、シンデレラのように生まれ変わりたいのだ。
そんなものが空想の絵空事だと気付いていても、くじ引きで、あるいはジャンケンで勝った女の子はシンデレラを演じる。
安っぽいドレスと、ダンボールの馬車に乗って、クラスのよく知らない王子様に一目惚れされ、決められた幸せを受け取る。
そういうものがキラキラした魔法だとは、あまり思えないのだけれど。
「はぁ」
頬杖をついて、教室の外を眺める。
規則正しく並べられた生徒用の小さい机と、高さを六段階で変えられる椅子。
それらが向かっている壁に貼り付けられた黒板には、今年の学芸会で行われる劇の役割分担が書かれていた。
メインヒロインの部分には実に十人に及ぶ名前が書かれている。別にこの作品は群像劇ではない。
シンデレラ。
それが今年このクラスで行われる劇の題名だ。
シンデレラは人気がある。大人の事情により、一人のお姫様を選ぶことができないらしく、なりたい女の子はみんなシンデレラになった。
シンデレラを虐める意地悪な家族は、その名前とは裏腹に一人しかいない。しかも教師だった。
人気がないためそこの穴埋めらしい。これはこれで問題が起きそうだった。
シンデレラに魔法をかける魔女の役も一人だけ。あまり話したことのない女の子の名前が書かれている。内気の、あまり他の人に意見しない人だった気がする。
これはクラスの中での自分の位置付けに重要なイベントなのだろう。
自分がクラスの中で上位層であることを示すためには、シンデレラの役にはまっていなければならない。先生に『他の役に回ってくれないか』と言われて流される優しい子は、光の当たる場所から転げ落ちてしまう。
キラキラとした舞台を傍から見る羽目になる。だから優しい人ほど損をすることになる。光の当たる場所にいなければ、誰からも評価されないのだ。
余った男子生徒は馬車だったり下手をすると木になっている。定番すぎて何も言えない。木の役というのはつまり、ダンボールの背景と価値が同じということだ。そのくせ、無駄に目立つ。
「はぁ」
もう一度ため息をつく。
あまりあの黒板は見たくない。
自分の名前が書いてある場所を見たくない。ぎゅうぎゅうに並べられたシンデレラの横に少しだけ空白があって、その隣に書かれている名前。
王子様。
それが自分に与えられた役名だった。
劇の中で、王子様はあまり多く登場しない。主人公はシンデレラなのだから、最後に少しだけ出てくるだけだ。大抵はナレーションや、名前だけの登場になる。
王子の役は一人だけだった。
選ばれたことに理由なんてない。
希望する女の子が全てシンデレラに名前を書いた後、時間がなくなったため男子生徒の役はくじ引きで決められることになったのだ。
男子生徒は何の役であろうがあまり興味がなかったのか反対されず、どうせ一般人Aのような役だろうと甘く見ていた自分は、見事に地獄への引換券を当ててしまったのだった。
反対しようとして、くじ引きで決められた役は変更できないことに同意していたことを思い出した。その記憶と、甘く見ていた自分と、これから来る面倒な未来に吐き気がして、どうにも叫び出したくなった。
実際には教室は静かだったし、自分は表情をまるで変えず、わかりましたと口が勝手に告げていた。
自分が嫌になっている理由は主に二つだ。
一つは簡単、王子様の役を拒否できなかったこと。
嫌だと言えば教師はおそらく変えてくれたし、他の男子生徒で王子様をやりたい人だって皆無ではないはずだ。
何がわかりましたなのだろう。何もわかっていない。
何も知らない。知識も品格も経験もない。王子様なんて見たこともない。そも、絵本に登場する王子様がカッコいいとは思えなかった。
何となく気にくわないだけなのかもしれない。
王子様はいつだって受身的で、シンデレラと結ばれる最後もなんだか曖昧に濁されている。パーティに来た女性を全て集め、その中にいたボロボロな服のシンデレラに自分から気づいて愛の告白をしたならば、もう少し気も紛れたかもしれないのだけれど。
二つ目は、これまた簡単で、シンデレラがやたらと多いことだ。
最後の場面などどうすればいいのだろう。
大勢に愛を囁くことなどできない。王が国民に演説する様になってしまう。
王子と結ばれるお姫様が十人もいれば、夫婦になったというより供物として捧げられた年貢のようなものだ。なんの特別感もない。
これで練習が始まってしまうことにはかなり不安がある。見ていて面白いのかもわからない。同じ衣装を着たお姫様が舞台を埋め尽くす様は見ていて滑稽だ。
箱詰めされたヒロイン。
なんだか夜にやっているドラマの題名になっていそうだ。
内容はともかくとして、体育館の狭い舞台にこう何人も並んでいては、不思議というより混沌を感じる。そして子供たちの親が自分の子供を探すのに苦労することも簡単に想像できる。
パーティのシーンでは軽く踊りがあるはずなのだが、場所が足りないことは明白だ。
数に釣り合いが取れていない以上、その踊りの部分が無くなる可能性もあるが、確定ではない以上不安になる。
「憂鬱だ…」
黒板に書かれている名前をノートに写し終わるまで待っていた。
やたらと蔓延したシンデレラに劇のまとめ役をさせるわけにはいかず、王子役である自分にそれが回ってきていた。
ノートにはあまり綺麗ではない文字で役名とそれに当てられた生徒の名前が書かれている。
下の名前を知らない生徒も少なくない。文字を書いたところで顔が浮かんでくるわけでもなかった。
それをランドセルにしまって、教室に鍵をかける。これを職員室に返せば今日は帰ることができる。
人がいなくなった廊下。
中学校と併設されたこの小学校では、放課後になれば中学校のグラウンドから活気のいい声が聞こえてくる。体格の違いから、中学生は得意ではない。
上から見られているだけで怖いと感じてしまう。自分は身長が高くない方だから、上級生というのは誰も同じく少し怖く感じるものだった。
親くらい歳が離れていたら、そういう気持ちもあまりないのだが、中学生やその辺りの歳の人は歳があまり離れていない分奇妙な感覚になるのだ。
こちらを子供扱いしてこないことが一番なのかもしれないが。
「先生、鍵を返しにきました」
職員室の扉をノックして出てきた教師に鍵を返却する。
「遅くまで残っていたけれど、大丈夫?」
教師は心配そうな声を出す。人の目の多いところを帰り道にしているので、あまりそういう心配をしていなかった。
社交辞令に似た教師のそれに、少しだけ笑顔を見せて、
「大丈夫です。少しだけ走って帰りますから」
これは嘘だった。
自分は今日まっすぐ家には帰らない。しかし、送ってやるからと誰かを付けられると面倒なのでそういうことにしておく。
こういう時、万が一にもバレないか心配になる。言っているそばから嫌な汗が背中を伝う。
「気をつけてね」
教師の声は優しい。
こういう声は好きだった。自分が安心するような言葉の使い方を、大人は心得ている。クラスメイトのように変な気をつかうことをしなくていい。言いたいことを言えば、正しい答えを返してくれる。
そういうものが、なんとなく心地良かった。
「ありがとうございます」
明日には忘れていそうな感謝を述べて、学校を後にする。
履き潰した上靴を脱いで、かかとの潰れた下靴を履く。黒の記事に赤のラインが入っていて、メーカーのロゴが小さくなっているのが気に入っていた。
校門から外に出ると、向かい側に中学校のグラウンドが見える。青いユニフォームを着たサッカー部と思われる男子生徒が走り回っている。白と黒のボールがせわしなく転がっていた。
学校の前にある道路を進み、最初の十字路をまっすぐ行くと長い坂道がある。
徐々に左に曲がって行くため一番上までは見えないが、あの坂の上には一軒の家が建っている。
それが噂の幽霊屋敷だ。
山を越えると隣町なのだが、この坂を上っていても隣町にはいけない。
隣町に続くトンネルはもう少し東にあるからだ。
幽霊屋敷の周りには他の建物が建っていないため、町に住んでいる人からすれば全く行く意味がない。
坂の途中にも家は建っているが、それは坂の真ん中辺りまでの話なので、本当に幽霊屋敷の周りには何もないのだった。
そんなことだから、魔女が住んでいるなどという噂が出るのだ。
小学生が坂の上まで行くには時間がかかってしまうし、親に頼もうとしても何もないところに行くためあまり言う気にはなれなかった。
しかし、今日だけは特別だ。
放課後から行くため時間がないかもしれないが、それでも今日でなければもう他に行く機会がない。
小さな勇気を持って、坂を上って行く。
教科書の入ったランドセルが歩くたびに揺れ、重さを自分に伝えてくる。
放課後の時間は長いようで短い。
見上げれば、この坂道にはあまり街灯が立っていなかった。夜なってしまうと辺りが見えなくなる。
幽霊屋敷の散策はあまり時間を取れないだろうと考えた。
「はっ、はっ」
坂を上り続けていると息が上がってくる。体力に自信がないわけでもないが、それでもこの長さは気が滅入る。
幽霊屋敷に行こうとしているのは自己満足だ。
幽霊屋敷に魔女がいる。
それは噂話だったが、幽霊屋敷に魔女の存在を見に行った人は見たことがない。
魔女の見た目も、魔女がどういうことをしているのかも知らない。
ただいる、ということだけがみんな知っている。
だから知りたかった。
いることはみんなわかっている。ならその先を見て見たかった。
ほんの少しでもいいから魔女の見た目を知りたかったし、魔女がどういうものなのか見たかった。
だからこのすぐにでも身を翻して帰りたくなるような坂道を懸命に登る。
思っていたよりも時間がかかったのか、それともそれほど時間がかかっていないのか。そんなことの判断もうまくつかない内に幽霊屋敷の前に辿り着いていた。
太陽はそろそろ夕方に近づいてくる。
まず、幽霊屋敷を正面から見た。
幽霊屋敷には鉄柵がついていて、屋敷そのものはもっと奥に立っていた。
鉄柵はなんだか金持ちの家にありそうな形をしていて、そのほとんどが錆びていた。
屋敷の前に見える部分、つまり庭園のような敷地は枯れ草と雑草でごちゃごちゃとしており、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
曲がりくねって、本来は庭園の草花を眺めるのであろう道も足の踏み場もないほど荒れている。
外周に植えられたいくつかの木々も枝が折れていたり、周りに家がないことをいいことに伸び放題だった。落ち葉も、当然掃除されていない。
屋敷は赤煉瓦の建物で、予想していたよりも少し大きかった。市役所よりも大きいかもしれない。
三階建てのようで、所々をツタが壁を覆っていたが、窓の位置は見える。
窓はその全てがひび割れているか割れて穴が空いているかのどちらかで、この幽霊屋敷が廃墟であることを伺わせた。
だから、そう。
「…何か、あたしの家にご用?」
後ろから声をかけられるなど考えもしなかった。
心臓が飛び出そうだった。
実際に体は飛び跳ねたし、恐る恐るといったような、絵に描いたようなビクビクとした動きで体を後ろに向けたから、後ろに立っている人を確認するまでにやたらと時間がかかった。
「あっ!あの、えっと、その!」
実に動揺していた。
心臓がドクドクとうるさい。口がカラカラに乾いている。目の前にいる人間の見た目もはっきりしない。緊張で吐き気がしてきた。
「…とりあえず、落ち着いて」
「えっと、あの…はい」
言われるがままに深呼吸をして気を落ち着かせる。口が渇いていたので深呼吸はあまり気持ちがよくはならなかった。
「驚かせてしまったわね。ここに郵便局以外の人が来ることなんてないからあたしも驚いたの」
子供に話しかけるように、その人は少しだけかがんで話しかけた。髪の毛を耳にかける姿は母親に似ていたし、そういうことを普段からしているような自然さがあった。
茶色の髪の毛をしていた。少しだけウェーブがかかっていて、それを肩の少し下まで伸ばしていた。
夕日のオレンジに似合う黄昏の色だった。瞳は黒の中に茶色が混ざっていて、この髪の毛の色は染めているものではないのかもしれないと思わせた。
真っ黒の制服を着ていて、それが中学校のものではないことを理解する。知らない学校の生徒なのだろうか。高校はこの街にはない。隣町に行っているのかもしれないが、どこなんてわかるはずがなかった。
「えっと、この家を見に来たんです」
それは嘘ではなかったが、なんというかとても表面的な発言だった。
自分が見に来たのは幽霊屋敷ではあるが、幽霊屋敷の魔女がいるのかどうかであり、それはこの発言からは少し外れている。
だから、
「そう。幽霊屋敷って有名だものね」
そう言われた時には、自分の発言がとても軽率だったと反省せざるを得なかった。
「………っ」
唇を噛みそうになる。後悔した時、自分を痛めつけようとするのは自分の悪い癖だ。それをすんでで止めて、高校生と思われる少女に向き直った。
「もう遅いわ。暗くなる前に家に帰ったほうがいいと思うの」
その高校生は優しく言った。わざわざ確かめたりはしないが、同じ言葉を何度も言ったことのあるような、やってきた客に説明するファミリーレストランの店員のような言い方だった。
その時に、自分はこの人が幽霊屋敷の魔女なのだと半ば勝手に確信した。それは小学生ながらの無邪気であったし、相手を傷つけてしまうかもしれないという恐怖にさえ気づかない無知であったからだった。
しかし、そこではいそうですかと帰るわけにはいかなかった。
勝手にこの人が魔女であると確信したのは自分だが、そうであるとこの高校生が口にしたわけではないからだ。
それは完全な自分の欲であったが、一度湧き出したそれを自分で沈める技術を、まだ自分は身につけていなかったのだ。
ともあれ、自分はまだ帰りたくなかった。
家に帰っても家族がいないことが、尤もらしい理由だったが、自分がここにいる理由の大部分は、おそらくなんとなくであっただろう。
「今日は…」
自分は帰りたくないのだと、いや帰らないのだと説明する必要があった。
この高校生が魔女であるならば、まだ自分はまともに彼女と話していないのだ。この高校生は初めから決められていた定型文を読んでいただけで、なんの会話もしていない気がしてならないのだ。
ここで帰ってしまうと、おそらくは次がなくなってしまう。理由も証拠もないが、そういう気がしていた。
「貴女に会いにきたんです。…なぜか、って言うと、その」
「あたしが魔女だからね」
びくり、と体を跳ねさせる。
どう言おうか迷っているうちに、その高校生は自らのことを魔女と言ったのだ。
まさか自分から言うとは思わなかったので、開いた口が塞がらなかった。
「あら、違ったかしら」
「い、いえ…。そうなんですけど」
「…まぁ、いいわ。あなたは帰らないのでしょう?ここで話すのもなんだから、上がりなさいな」
帰る帰らないの話はまだしていなかったはずだが、魔女は少しだけ微笑んで鉄柵の扉を開けた。
錆びた鉄の蝶番がギシギシと嫌な音を鳴らしている。痩せた木にとまっていたカラスが飛び立っていった。
何でもないように魔女は枯れ葉や枝が落ちている庭を歩いていく。左手に持っているコンビニの袋が、その空間からひどく浮いていた。
子供らしく体を縮こめていたが、何のためにここにいるのかを思い出して、慌てて魔女の背中を追いかけた。
「さぁ、上がって。何もないけどね」
玄関に落ちた葉っぱを扉で押しのけて、魔女は家の中に案内した。
「ありがとうございます。…えっと」
「私のことは魔女でいいわ。その方があなたにもいいと思うから」
「………」
それがどう言う意味なのか、あまり理解できなかった。
理解できないことが不思議で、それが魔女たる所以なのかもしれないと、子供ながらに納得してしまう。
ただ、魔女は自分のことをそう呼称するたびに、少しだけ顔を暗くしていた。
そんな顔をするなら言わなければいい。そう言えたなら良いのだが、自分はそれを言うための強さを持ち合わせてはいなかった。
促されるままに魔女に家に入る。
クラスメイトの誰かの家や、自分の家のような、玄関にあるはずの段差はなく、靴箱も置かれていなかった。
床にはタイルが敷き詰められていて、それが模様に組まれている。赤と青のタイルが、母親がよく使っているバンダナの模様に、よく似ていた。
外の様子からして中も破茶滅茶になっているのだろうと思っていたが、綺麗とまではいかないでも、時々は掃除をしているのだろうことを思わせた。ただ、玄関の隅には取り損ねたような土の塊ができていて、生活する環境としては疑問視せざるを得なかった。
「こっちよ」
魔女は玄関を真っ直ぐに進んだ先の階段を上っていく。玄関の天井には窓が付いているようで、上から差し込んでいる光が魔女をこの世のものではないような、幻想的な雰囲気を纏わせていた。
天窓がある家なんて見たことがなかったものだから、どうしても不思議な、もやもやした気分になってしまう。
本当に、こんなところに住んでいるのかという疑問が浮かぶ。
空き家に勝手に住んでいる、と言った方が納得できるだろう。
自分が階段に足を乗せると、魔女が歩いていた時のように優雅ではなかったし、歩くたびに木が軋んで煩かった。
「どうかした?」
階段を登りきった魔女が頭の上から質問する。
「いえ。貴女のようにはいかないなと」
「あたしみたいに?……ふふっ」
あははははは、と魔女は上を向いてたいそうな笑い声をあげた。
吹き抜けで音がよく響く玄関には、魔女の笑い声が、耳が痛くなりそうなほど大きな波を作っていた。
見た目から想像していたよりも、ずっと朗らかな笑い声だった。
魔女はやけに気に入ったのか、自分が階段を登りきるまで、ずっと笑っていた。
「あぁ、面白かった」
「…そんなにですか?」
「えぇ、そんなによ。誰かがあたしの真似をしようとしたことなんてなかったもの。さ、好きなところに座っていて。あたしはお茶を淹れてくるから」
階段を上って左手にある扉を開け、魔女は中に入るように言った。
玄関のそれよりもずっと酷く荒れた部屋だった。窓ガラスは外から見たように全てにヒビが入っていたし、割れたガラスが中に散乱していた。割れたところから入ったのだろう枝や枯れ葉が、中と外の区別を曖昧にしていた。
座っていて、と言われたのだから椅子があると思ったが、脚の折れたボロボロの椅子が一脚あるだけで、机もなければ棚もなかった。
この部屋には家具がないらしい。魔女の自室に案内されると思っていたため、あまりの荒廃具合に呆気にとられてしまった。
「あら、座っていたら良いと言ったのに」
「座るところが見当たらないので」
「“好きなところ”と言ったはずだけど?」
魔女は少しだけ楽しそうに言った。その言葉は座るところが多くある場合にしか使えないはずだ。
「なら座りませんよ」
「そう。なら、私は座るわね」
魔女は倒れた椅子の、残りの脚を全て折って同じ高さにすると、さも当たり前のように椅子に腰かけた。
「……」
変わった人だと思った。事実変わっているが、こんな人が現実にいるということを知らなかった。
小学校にも変わった人はいる。人の言うことを全然効かない生徒や、普段何もしていないのにテストで良い成績を取る生徒もいる。みんなの憧れになるような美少女や、誰からも好かれる男子生徒もいる。
ただ、魔女のような予測がつかない行動ばかりを取る人は見たことがない。
これが小学生と高校生の違いなのだろうか。高校ではこんな人ばかりがいるのだろうか。あまり信じたくないことだった。
魔女が座った椅子は、脚の先が床の木にめり込んでいて、いかにも危うい感覚を抱かせた。
窓から差し込んでいる夕日が魔女を照らす。脚を半ばで折られて高さが低くなった椅子に腰かけた魔女は、どこを切り取っても今まで自分が知っていた現実のものとは異なっていた。
「食べる?」
コンビニの袋から、よく見るメーカーのスナック菓子を取り出して、魔女はその一つを自分に差し出した。
「新発売だって」
「そうですか」
スナック菓子はクラスメイトの家に遊びに言った時にしか食べたことがない。両親が家にいることが少ないため、家にはそう言った菓子類がほとんどなかった。
ただ、今の状況は明らかにクラスメイトの家に遊びに行っているのとは違っていたし、それを差し出しているのは先程知ったばかりの魔女であった。
魔女は本当の名前ではないのだから、実質自分は彼女の何も知らないのだ。
差し出されたそれをつまんで、口に放り込む。仄かな塩味と、上についた海苔がパリパリと音を鳴らす。つまんだ指先に油がこびりついていた。
「どう?」
「味が濃いですね」
「そうね。これは失敗だったわ」
そう言いながら、魔女は失敗のスナック菓子を食べ続けた。
魔女は笑っていた時を除いて全くの無表情だった。
表情が薄いというよりは、意図的に無くしているような、“そういうイメージ”をわざわざ作っているような様子だった。
無表情のままスナック菓子を食べ終えると、コンビニの袋を小さく畳み、それをスカートのポケットに入れた。片方のポケットが、バランスが悪く膨らんでいた。
「あの、質問してもいいですか」
「どうぞ」
魔女は窓の外を見ていた。こちらを見ている雰囲気はずっとなかったから、もしかしたら人見知りなのかもしれなかった。
「ここに住んでるんですか?」
「そうよ」
短い返答。
魔女は会話を好まないのかもしれなかった。
「一人で?」
「そうよ」
魔女から“そうよ”以外の返答を聴きたくなった。
魔女はおそらく大抵の言葉に返答をくれる。しりとりをしても返してくれるだろう。
「いつから?」
「子供の頃からね」
魔女はそれまでと反対に、こちらを真っ直ぐに見つめて答えた。
それがなぜか嬉しくて、この問答をもう少しだけしたくなった。
「好きな食べ物は?」
「何も」
「嫌いな食べ物は?」
「何も」
「明日の天気は?」
「雨が降るわね」
それは知っている。天気予報は家を出る前にテレビで見ていた。ランドセルに入っている折り畳み傘は、硬い側面に当たって歩くたびにカタカタと音を出した。
「あたしからもいいかしら」
言われて、数秒固まってしまった。それはおそらく魔女が自分から話題を振ってくるとは思っていなかったからで、そんなことをしてこないだろうと勝手に思い込んでいたからだった。
「…何か変なことを言ったかしら」
「い、いえ。どうぞ」
「あなたが浮かない顔をしているのはなぜ?」
床に飛び散ったガラスに自分の顔を映す。いつも通りの自分の顔が見えた。
そこまで、浮かない顔をしているようには見えない。ましてや今日会ったばかりの人にそこまで見て取れるとは思えなかった。
「…なぜでしょう」
知らず知らずのうちに下を向いていた。
「当てて見ましょうか?」
人差し指をピンと立て、魔女は片目を閉じていた。まるで物語の中に登場する探偵のような仕草で、自分の考えを当ててみせようと言ったのだ。
自分は頷いて、その先を促した。
「あなたは悩んでいる…いえ、憂鬱なのかしら。あなたを憂鬱にしているもの…そうね、学校の行事かしら?」
「!」
「ここまでは当たり、ね」
魔女は心なしか嬉しそうな声で言った。
顔は相変わらず無表情のままだったが。
指の先と指の先を当てて、アーチを作るように組んでいた。考えているというよりは、そういう仕草をすることを演じているような。
「そうね…この時期なら、クラスの演し物で劇をする、とか?」
「すごい!」
自分はらしくなく賞賛の声をあげた。
その声に驚いて、魔女は少しだけ眉を釣り上げる。
「ありがとう」
魔女は無表情のまま、無機質に礼を言った。
「それで、何を悩んでいるのかしら」
魔女は椅子に座って、足を組んだ。椅子は背が低いので、足をかなり前に投げ出していたが、やけに長いスカートの丈が気になるような姿勢をしていた。
「クラスの劇ではシンデレラをすることになったんです」
「人気があるものね」
「それで、シンデレラの役はなりたい人が全員なってしまったから、十人くらいいるんだ」
「まぁ」
無表情の魔女はさも興味なさげな声を出した。
聞いてきたのはそちらなのに。
あるいは魔女は自分が彼女と話していたいことを読んで、わざわざ話を広げてくれているのかもしれなかった。
「でも反対に王子様の役は一人しかいなくて、それも自分に回ってきていたんだ…。王子様には似合わないと思ったのだけれど、勇気がなくて先生に言う気にはならなかった」
それは人数の問題だけではなかった。
しかし、それを咎める人は自分以外にはいなかったのだ。
きっと普段着ないような服を着た自分はおかしく見える。王子様のような格好良さは自分には必要ないような気がするのだ。
「そう」
「でも、それは仕方ないことだってわかってる。自分で選んだ役ではないけれど、それをやること自体は嫌じゃないんだ。頭の中を憂鬱にしているのは、多すぎるシンデレラのことだ」
「それは何?」
シンデレラは参加したパーティで、自分の本当の姿を隠したまま、魔法にかかったまま王子とダンスをする。
本来の脚本ではそうなっているが、シンデレラと王子の割合が同じではないから、誰か一人だけと踊ってもおかしいはずだし、全員とは踊れない。
一々人を変えていても時間がかかるし、なにより順番を決めるので必ず問題が起きる。それを全て教師がやってくれるとは思えないのだ。だから自分は憂鬱になっていた。
明日からダンスの練習が始まってしまう。そうなる前に何か提案できるような策が欲しかった。
「それくらいなら、なんとかなるかもしれないわ」
魔女は、間違いなくその時笑っていた。
気のせいではなかったと思う。同じ場面に二度遭遇しても笑ってはくれないような気がするが、その時を思い出しても、記憶の中の魔女は鮮明に笑顔をしていた。
それくらい、自分には印象的だった。
「なんとか?」
「えぇ。明日、その練習を抜け出してここにいらっしゃい。そうしたら教えてあげるから」
練習を抜け出すことはできるのだろうか。
自分は魔女の提案を承諾するか断るかを考えるよりも先に、抜け出す方法について考え始めていた。
「どうして明日なんですか?」
それは純粋な疑問だった。
今案が浮かんでいるなら今教えてくれてもいいと思ったのだ。
ただそれだけのことだったが、魔女は少し困ったような顔をして、
「なぜかしらね」
小さくそう呟いた。
「はっ……!?」
朝だった。
自分の家の、自分の部屋のベッドから体を起こした。
身を起こした瞬間、昨日の記憶を再生した。夢ならきっと忘れているだろうから。
「いや、夢じゃない…」
学校のこと。
黒板に張り出された役名。クラス全員の名前。
坂を登る自分。
そして、幽霊屋敷の魔女。
顔も、魔女の仕草も思い出せる。昨日の終わりに約束したことも。
ただ、どうやって自分は家に帰ってきたのか。それだけがわからなかった。
気分をモヤモヤさせていると、下から親の呼ぶ声がした。いつのまにか着ていた寝間着を着替えて一階に向かう。
した覚えはなかったがランドセルの中の教科書は今日の時間割のものに変わっていて、首をひねりながら学校への通学路を歩いた。
自分はその日、授業の終わり際に教師に声をかけた。
担任の教師に今日は用事が入っていてダンスの練習に参加できないことを伝えた。
教師は、まだ最初だから大丈夫だと自分を励ましてくれた。別にその心配はしていないので、ひとまず安心した。
そのまま、家に連絡をすることなくランドセルを背負って魔女の家に向かった。
幽霊屋敷に行くのだと言えば、クラスメイトは少なからず驚くだろう。
噂話をしているあの子は、幽霊屋敷に行ったことすらないのだから。
坂を登り、住宅街を抜けてまだまだ登る。
街の全貌が見渡せるくらいの高さになると、周りにはすっかり家がなくなって、木の根っこによってヒビがはあったアスファルトの道が現れる。
その先に、幽霊屋敷は建っていた。
「いらっしゃい」
鉄柵の扉は開いていて、そこに足を踏み入れた瞬間、屋敷の扉から魔女が出てきていた。
坂を上って息が上がっていた自分は、魔女がいつ出てきたのかわからなかった。
魔女は昨日見た制服ではなく、澄み渡る青空のような水色のワンピースを着ていた。
それは街で流行っているような服ではなかったが、どうしてか魔女を魅力的に見せていた。そういう力があるような、まるでシンデレラが魔女から与えられたドレスに似ていると思った。
「こんにちは」
「えぇ、こんにちは」
挨拶と共に、軽く会釈をする。
魔女は服が変わっても相変わらず無表情だった。いや、こちらが感じた印象によって、わざわざ表情を変えてくるとは思っていなかったけれど。
魔女は自分を昨日と同じ部屋に案内した。昨日と変わらず落ち葉や枝が散乱していて、魔女はこの部屋の掃除を一切していないことをうかがわせた。
ただ、昨日はあった足が折れた椅子が無くなっていたこと、代わりに足の細い小さなテーブルが置かれていた。
「紅茶は好きかしら」
「あまり、飲みませんけど」
飲んだ回数が少ないから好きでも嫌いでもない。どちらかといえば興味はある。
魔女はティーポットと二つのカップアンドソーサーを部屋に新しく置いてあったテーブルに置いて、カップに紅茶を注いだ。
それほど辺りは寒くないが、カップからは湯気が出ている。ソーサーには白い角砂糖が二つ置いてあった。
「あなた、お砂糖は入れる?」
「お願いします」
背の高いテーブルは、紅茶がどうなっているのかを自分が立っていても見ることはできなかった。
ただ、間違いなく見ていても見ていなくても自分の返答は変わらなかっただろうと確信できた。
甘い方が好きだ。
それはなんであれ、おそらく。
魔女はソーサーの角砂糖を二つ溶かして、それを自分に差し出した。
少しだけ湯気を立てている紅茶を、息をかけて冷やす。
「猫舌なのかしら?」
「…えぇ」
今日の魔女はやけに話しかけてくるな、と思った。
昨日は自分から話しかけるときはわざわざ言葉にしていたのに、そういう素振りがない。
気を許してくれているのか、それともその服を着ていることで気分が高揚しているのか。魔女とは昨日会ったばかりなので、自分はその判断を決めることはできなかった。
紅茶は暑かったが、茶葉の苦さが砂糖でぼかされていて、口の中に程よい甘さが広がった。
「お気に召したかしら。これは正解ね」
昨日ボリボリとスナック菓子を食べていた人と同一人物とは思えない行動をしているな、と思った。
しかも昨日はお茶を入れてくると言って、結局何も持ってこなかったのである。
なんだかよくわからない人だと、漠然と彼女の日常を考えた。
魔女は失敗や成功、間違っているや正解で物事を判断するらしかった。
そして、それを自分だけでは決められないらしい。
だから家の掃除もしていないのだと、魔女はそう言った。
玄関だけは毎日歩くから、ゴミが踏まれて避けられて行っているらしい。
「変かしら」
ソーサーにカップを置いて、魔女は言った。
椅子に座っていないものだから、立ったまま紅茶を飲んでいる光景は少し奇妙だったが、どうせ見ているのは自分だけなので気にしないことにした。
「…どうでしょう」
自分は返答をはぐらかした。そういう、人の根本に関わるような問題を自分が答えるのはどうにも嫌だった。
もし自分の発言で相手に何か変化が起きてしまったらと思うと、そんなことはあるはずがないのだと思っていても、その質問の返答には答えたくなかったのだ。
それは魔女には伝わっていないだろう。しかし、彼女は確かに少しだけこちらを見てから、もうそれについて聞くことはなかった。
代わりに、魔女は続きを話した。
「自分でなんでも決められたなら、それはきっと正しいわ。自分の思っていることは常に一つではなくて、相反する二つの考えや、よく似ているのにそれに気づけないありふれた考えがたくさん詰まっている。それの決定権は自分にあるのだから、全てを自分で決めて行動できる人はとても正しいことをするでしょう。でも、それは本当は間違っているのかもしれない」
魔女の話はよくわからなかった。これは彼女の根本に関わる話なのかもしれないし、本の中にある物語の登場人物が、魔女唇を借りて話しているだけなのかもしれなかった。
「間違い?」
「そう。その人が決めた正しいことが間違っている可能性はゼロではないわ。でも、きっと決めなければ何にもならないから、皆悩むのね」
自分のカップにはもう紅茶は入っていなかった。ティーポットには入っているはずだが、おかわりをもらおうとは思わなかった。
「あなたが悩んでいることへのあたしの解決策は、もしかしたらとても間違っているかもしれない。だから、それをするのかしないのかは、あなたが決めて欲しい」
「……」
それは魔女が、自分自身を守るために言った言葉のように聞こえた。ただ実際は、自分を庇ってくれているのだと、魔女を言い訳にしてもいいのだと言ってくれていたのだ。
「…わかった。その考えを教えて欲しい」
その言葉を聞いて、魔女は一度ゆっくりと頷いた。
ブラウンの瞳を細めて、魔女は自分がするべきことを告げた。
「あなたはシンデレラを一人だけ選ぶの。大勢いる偽物のお姫様の中から、あなただけの特別を選ぶ。でも、あなたが自ら選んではいけない。それは本物にはならないから。特別で、本物でなければならないの。だから、あなたが用意した舞台に自ら上がってきた最初のシンデレラと、あなたは一緒に踊る」
「特別?」
特別とはどういう意味なのだろう。クラスメイトの、自分の欲のままにシンデレラに立候補したあの十人に、自分が特別だと思う人はいない。
選ぶことと選ばれること。自分が選んだことは、特別なのだろうか。
「特別とは、唯一を表すこと。そして、それだけでは駄目。誰かから憧れを抱かれなければならない。誰よりも輝いて、それが誰にも届かない場所で、そして皆が見つめる星のようなものでなければならないの」
「星…」
星の輝きは一つ一つが違う。でもそれらには、皆名前が付いていて、それを特別だと思っている人がいる。
ありふれた特別の中から、自分だけが選んだ一つを決めなければならないのだと、魔女は言った。それがたとえ、とても間違っていたとしても。
「あなたは舞台で、誰も踊っていない内から一人で踊り始める。皆知っている王子は、まだ誰も選んでいないから、大勢の人間がいる舞台で一人で踊る。その一人の王子に、十人のシンデレラのうちの誰かが一人でもあなたの手を取って、一緒に踊ってくれたなら、それが本物の…」
言葉の先を、魔女は途中でやめてしまった。
しかし、自分は魔女が言わんとしていることを理解した。
「本物の、特別」
呟くような、親に自分の秘密を告げるような細い声で言ったそれに、魔女は少しだけ頷いた。
それは確かに肯定だったし、自分の考えが魔女と同じであったことが、何よりも嬉しく感じた。
「それじゃ、ダンスの練習は本番までしないの?」
練習中にシンデレラと踊ってしまったらこの話に意味はなくなってしまう。だから本番になるまでシンデレラとは踊らないことが必要だと考えたが、それはとてもしんどいように思えた。
その劇において自分の役名は重要だ。誰とも知らない脇役ではないし、必ず登場する王子様なのだ。それが練習の間はずっと踊りに参加しないというのは、あまりクラスにとって良くないように思える。
「劇のセリフを覚えたり、それを他の役者と合わせるのは重要だわ。パーティというのは最後にあるのだから、練習の最初からあるわけではないのでしょう?」
「うん。それはそうだけど」
「なら、練習には参加すればいいわ。ダンスが始まったなら、その時はあたしと練習しましょう」
魔女は自分の前に来て、そっと自分の手を取った。
魔女とは随分身長が違うから、見上げてしまう。王子が相手を見上げて踊るというのは、いかにも滑稽そうだが、踊る相手はシンデレラではなく魔女なので、そこを深く考える意味もないのかもしれなかった。
「貴女は踊れるんですか?」
「もちろん。それにあなたは、クラスの誰よりも上手く踊らなくてはならないのだから」
自分に踊りの経験がないことを、魔女に言うべきだと悟った。
クラスメイトの、それもシンデレラの役をやる誰かにはバレエをやっている人がいた気がするのだ。その子よりも上手く踊ると言うのは、とてもじゃないが無理なのではないかと、弱々しく告げた。
「そんなことはないわ。だって劇を見るのはバレエの先生ではないもの。素人が素人の劇を見るのだから、あなたは誰よりも輝ける可能性を秘めているのよ」
それは励ましのような言葉だった。
魔女が言いたいことは、おそらく半分も理解できていないのだけれど、それでも彼女と一緒にいることは知らない誰かと話している時に感じるモヤモヤとした違和感がなく、とても心地がいい。
それでもいいのだと、自分を許せる時間だった。
「わかったようね。…ダンスの練習がしたければ、またここにいらっしゃい。鍵は開けておくから、自分から入って来て」
魔女はブラウンの瞳の中に、無数の星を浮かべた夜空の輝きを見せて、自分を帰り道に送り出した。
それからの三日間、暇を見つけては幽霊屋敷に通っていた。
幽霊屋敷への町は人が通らないため、クラスメイトや先生に見つかることがなく、自分が思っていたよりもずっと簡単にそこへ行くことができた。
自分がそこを訪れた時、魔女は常に同じ部屋にいた。
割れたガラスと、飛び散った枝と枯れ葉の中で、魔女は自分の知る限り誰よりも可憐に踊って見せた。魔女はきっと踊りが好きなのだろうと思った。
魔女は自分に踊りを見せるだけで踊りを教えてはくれなかったが、軋む床や少しだけ振動を伝えてくる部屋から、自分はすっかり雰囲気に呑まれてしまっていた。
踊っている間の魔女に話しかけようとした時、魔女は聞こえていないかのように振る舞ったものだから、おとなしく魔女の踊りが終わるのを待つことになった。その時間も、おそらくは有意義だったのだ。
四日目から、自分は魔女と一緒に踊り始めた。
魔女は相変わらず部屋の中で一人踊っていたが、少し離れたところで魔女の真似をしてやると、彼女は自分の手を取って、くるくると二人で踊り始めた。その時、おそらく魔女は笑っていたのだ。
楽しそうな笑い声が、頭のすぐ上から聞こえてきたのだから。
「踊るのは好きですか?」
「そうね」
「いつも一人で踊っているんですか?」
「そうね」
「貴女にとって踊りは特別ですか?」
「そうね」
「貴女の踊りは本物ですか?」
「そうね」
「正解か失敗かと言うと?」
「どちらかと言うと、失敗に近いわね」
魔女は最後の日、ヒールの踵折って床に転んだ。
声を出したりはしなかった。
不思議と魔女がこの屋敷で何かをしても音は鳴らなかった。
魔女が転んだ時、散らばったガラスのかけらで、魔女の顔に傷がついた。
赤い血が少しだけ流れて、魔女はそれを人差し指で掬うと、自分の唇に薄く塗った。
「さぁ、いってらっしゃい。誰よりも輝いてあなたは踊るのよ」
魔女の血で赤くなった唇は、目の前の傷のせいで震えてしまっていた。
その日は本番の朝だった。
早起きをして、魔女の家で練習をしていたのだ。
魔女はいつも通り部屋にいたが、彼女が来ていたのは制服でも、青空のようなワンピースでもなく、真っ白なフリルのたくさんついたドレスだった。
魔女はそれを昔はよく着ていたのだと言って、少し恥ずかしそうに朝日を見た。
「怪我は…」
「さぁ、行きなさい。あなたは誰もが賞賛する王子なのだから、魔女がどうなっていようと気にしてはいけないの」
もうすぐここを出なければ、集合時間に間に合わない。それはわかっているが、魔女の酷く痛ましい姿から目を背けることはできなかった。
「それはどうして?王子ならば人を救わなければ。貴女が傷ついたのなら、きっと貴女を救わなければいけないはずだ」
「それは違う。あたしはあなたが救うべき人間ですらない。だってあたしはあなたより強いもの。あなたが救うべきなのはあなたより弱い人」
「それは誰のこと…?」
自分より弱い人など、該当するものは考えられない。
たった三十人のクラスメイトの中でも、自分より弱い人なんていないと思えた。
「それは自分。弱い自分。弱い自分を、強くなったあなたがきっと助けてね」
魔女は銀糸のような言葉を最後に、床に伏した。
規則正しい呼吸音が部屋に響いて、魔女は眠ってしまったのだと知った。
それを見て、何もかけるものがないとわかってから、きっと自分は魔女に何も与えるものはないのだと悟った。
部屋を出て、屋敷から走っていく。
空に輝く太陽よりもずっと、自分は舞台で輝くのだと信じて。
シンデレラの劇の脚本は、終盤にて一人の役者によってその悉くが変わってしまった。
観客はあっけにとられて顔を見合わせていたし、他の教師はヒソヒソと内緒の話をしていた。
物陰から見ていた教師は呆然と立ち尽くしていた。
ただ人の心が置いていかれた空間に、スポットライトが一つだけ、王子が誰も手もとらず一人で踊り続けたその最後を、全員が見ていた。
劇の幕が下がる。
舞台が赤い布によって閉じられていく。
音楽だけが鳴っていた空間に、しかして大きな喝采が送られた。
それを受け取るべき人間が、もうそこにはいないとも知らずに。
「はっ、はっ…!」
自分は劇が終わったと同時に、学校から飛び出していた。
もうここには用はない。
ただ自分は、あの舞台の上にいた誰もが本物のシンデレラではないのだと証明しただけだ。
そんなものを求めている人なんていない。
皆シンデレラに憧れて、あの煌びやかな舞台に立ったのだ。
それを自分が壊した。いや、登るべき場所、手を取るべき人間をいたずらに遠ざけたのだ。
自分は間違いなく悪だった。失敗だった。
どちらかというと、なんて話ではない。問答無用で冷たい滝の水に打たれるよりもずっと自分は冷ややかな空間にいたのだ。それを作り出したのだ。
「それでも…!」
それでも、悪ではない。
きっとそのために、自分は今走っているのだ。あの場所から逃げるためではない。
シンデレラのようなカボチャの馬車も、ガラスの靴もない。
自分にあるのは何かよくわからないピンバッジと、真っ黒な軍服だけだ。
そんなものは欲しくなかった。
自分が本当に欲しかったのは、きっと。
「なんで…私が王子様なんだ…っ!」
胸が苦しい。
服に締め付けられるのは嫌いだった。
選ばれた理由も、反論できなかったあの時も。きっと後悔ばかりだった。こうなることを最初から理解していた。
こんな特別なんていらない。
特別は一つだけだ。
それもただ一つなのではいけないのだ。
誰かが自分を見て、憧れてくれなければいけないのだ。
だから、この王子は特別なんかじゃない。
特別ではない王子が特別なシンデレラを求めてはいけない。
シンデレラがあの時誰も自分の手を取らなかったのは、踊っている自分の輝きに、誰も憧れなかったからなのだ。
それでも。
それでも一つだけ、今は欲しいものがある。
坂の上の、誰も見向きもしない洋館へ。
「…随分、騒がしいのね」
走って暑くなった自分とは正反対に、荘厳な雰囲気を出している屋敷の中に、彼女はいた。
夕日に映えていた少しウェーブのかかった髪の毛も、ブラウンの瞳も。
その顔についた、決して小さくない傷も。
まだ、朝のままだ。
真っ黒な服を着た王子は、真っ白な彼女に言った。
「私と、踊ってくれませんか?」
遠く、走り去った小学校では未だ喝采が鳴り響いている。それを、二人は知る由もない。
知らない誰かに認められたことと、認められたことを自分が知らないのは、きっと同じ。
だから、ただ一つの特別に、自分は手を伸ばしたのだ。それが手の届かない、星の輝きだとしても。
手の中にあったガラスの靴。劇で使っていた、安物のプラスチックのものだ。
折れたヒールを脱いでいた魔女の足に、それを履かせる。サイズが合うはずもないのに、魔法がかかったようにすんなりと足に収まった。
彼女の顔を見上げると、今までの思い出の中のどれもが色褪せてしまうような泣きそうな顔で、魔女は言った。
「…えぇ、特別よ」
人が住むはずのない屋敷の、くたびれた床に、踵の音が四つ響く。
魔女は白く、王子のように導いて。
王子は黒く、姫のように導かれた。
「あなたの…名前は?」
くるくると手を取り合って回り続ける。
ずっと聞きたかったことを、ようやく口にした。あの時、どうして暗い顔をしたのか。言いたくもないことを、言ってしまったような顔をしていたのか。
それはきっと、名乗るべき名前が、
「えぇ…あたしは!」
シンデレラに違いないからなのだ。
花粉症が収まりかけました。
でも腹痛が始まりました。




