9.イブキのメモワール➈
9.イブキのメモワール➈
「なっ!?」
腕を振り払おうとしたが無駄だった。
「私の《すり替え》が効かない人が、イブキの他にもいたとは思わなかったからびっくりよ。まあ、イブキがアムネジアの介入を避けるためにロックを施したのでしょうけど、それも大したことなさそうね。そんなんじゃ、君、本当にアムネジアに殺されるよ」
「イブキを知っている……それに、アムネジア! お前、メモリアン――」
練は腕を振り払おうとするが、先程までの微笑んでいたエイラの姿はなかった。練の恐怖を感じ取ったのか、いじわるそうに頬を歪めた。
「記憶の中でしか生きられないメモリアンと一緒にしてほしくないわねえ。それに私はイブキのような記憶省の連中とも関係ない……獲物を求めてさまようフリーのメモワールなの」
「メモワール? なんだよ、それ?」
「あら、イブキのことは知っているのにメモワールのことも知らないの? メモワールっていうのは、メモリアンと契約して、共生している人間のことよ。メモリアンは人の記憶を食べて生きる異星人。私達は記憶を食べさせることを条件に、メモリアンから記憶をいじる力を与えられる。この共生関係がメモワール」
「記憶を食べさせる……」
イブキがあんな戦い方をしていたのも、メモリアンと協力しているからだとは分かっていたが、それを行うために、イブキは記憶を失っていたというのだろうか。
「本当に何も知らないのね? でもあんたは唯一アムネジアに通じる印を持っている。あんたにはもっと学んで貰わないと困るの。その前に、イブキのこと完全に忘れて貰うけどね。そして、あんたは私に協力する。いい考えだとは思わない?」
「何だって!」
せっかくイブキが命を掛けて取り戻してくれた記憶をまた失わなくてはいけないのか。そんなことは絶対に出来ない。練は激しく抵抗した。しかし握られた腕は解けない。エイラがまた意地悪そうに笑みを浮かべる。
「そんなに怖がらないでよお。私はこう見えて優しいのよ? お弁当を食べてくれたら、もっと楽に事が運んだんだけどね。女の子のお弁当が食べられるんだから、ちょっとくらい眠らされても、嫌じゃないでしょ?」
「ふざけるな! 離せよ!」
エイラの目が練の顔をじっと見つめてくる。不気味なくらいの微笑みを浮かべて。
「嫌に決っているじゃない。それとも、あんたはおとなしくイブキと手を切って、私に協力してくれるの?」
イブキには一度だけでなく二度助けられた。それを裏切って他の人間と手を組むなんてことはできない。練は必死に抵抗したが、エイラはもっと力を込める。まるで人間とは思えない怪力。もっと力を込めれば、簡単に腕の骨だって折られてしまいそうだった。無理に抵抗するのは、逆に危険だと思った。
「俺にどうしろっていうんだ。メモリアンだかなんだかも、俺は昨日初めて聞いたばかりなんだ。正直、お前の知りたいことなんて、何も知らないぞ」
「知らなくて結構。あんたはいること自体に意味があるのだから。さあ大人しく――」
「待ちなさい!」
二人の間を切り裂くような鋭い声。目の前にはいつの間にか、イブキが立っていた。
「この町に入り込むどこか、この私の記憶を勝手にすり替えて学校に潜入するなんて、随分と滅茶苦茶なことをするのね、渦雅エイラ……」
「これはこれは、存在しないはずのイブキさんではありませんこと?」
気取った風に言うエイラ。しかし顔は笑っていない。むしろ、イブキの出現を警戒して、かなりの威圧感を放っている。練に向けていたものなど、それに比べれば些細なものだった。
「レンくんを返して。あなたには関係のないわ」
「そういうわけにはいかないの。あんたも知っているはずよ。アムネジアという《ごちそう》のことを。私達メモワールは、メモリアンという料理を食べないと死んでしまうの。あなた一人で食べるなんて、ちょっと贅沢じゃない?」
「一応聞くわ。私に協力するつもりは?」
「そんなの、聞かなくても分かるでしょ?」
二人の事情は練には分からなかったが、一種即発にあるということは分かった。もし二人が戦いを始めれば、現実のような喧嘩よりも、もっと恐ろしいことが起こるような気がした。
「待ってくれ! 俺には全く分からないぞ。説明してくれイブキ。こいつは一体?」
エイラを睨みつけていたイブキが、ちらりと練を見た。
「渦雅エイラは、フリーのメモワール。獲物を求めて各地を渡り歩いて、必要以上にメモリアンを殺戮している狩人よ。そうでしょう?」
「その通り。よく知っていたわね」
「シロノが教えてくれたのよ。そして、あなたが危険なメモワールということも」
「私が危険? 勘違いしないでよ。私はこう見えて善良なメモワールよ。ただちょっと、今回ばかりは、私も手加減できないと思っているだけ。あなたも知っているでしょう? アムネジアの恐ろしさを。こうしている間もアムネジアはこの学校を占領しつつあるわ。ご飯ならあなた一人で食べ切らないくらいあるはずよ。いいじゃない、私が食べても」
「ええ。いくらでも倒してくれて構わないわ。アムネジアを倒す以外に興味ないから」
イブキが手を伸ばす。
「さあ。彼を返して」
エイラは意地悪に笑った。まるでイブキの弱みを握ってやったと言わんばかりの顔。
「どうしよっかなあ? レン君を返しちゃったら、アムネジアの手がかりがなくなってしまうじゃない。それはちょっと嫌なのよねえ?」
イブキは相変わらずの無表情だったが、銀色の髪が逆立っていくのが分かった。
「返しなさい」
流石のエイラも高まっていくイブキの感情を察したのか、練を掴んでいた手の力を緩めた。
「ふん。そんなにムキになって怒ることないでしょ? 返して欲しければ返してあげるわよ。ほら、どうぞ」
練を放るように手を離すエイラ。練はすぐにエイラから離れ、イブキの後ろに隠れた。しかし、エイラはまだ何かを企んでいるような、含みのある笑みを浮かべたままだ。
「とりあえず、記憶の改竄分は修復しておくわ。でも、アムネジアを倒すまでは当分ここに居させて貰うから。それと、レン君が望むなら、私がもっとメモワールのことを教えてあげるわ。そこにいるイブキは、なんにも教えてくれないでしょうからね。それじゃあ、また会いましょう?」
そういうと、弁当を入れた袋を手に持ち、悠然と歩き去った。
イブキが練の顔を見上げた。その表情にはまだ怒りが残っていた。
「あんまり危険なことはしないで。もし、アムネジアが相手だったら、今頃死んでいたわよ」
「……分かっているよ。でも、知りたかったんだ」
メモリアンのこと、アムネジアのこと、そして、イブキの事を。
エイラがアムネジア本人だったとしても、それを知ることができるなら、とそう思っていた。だが、エイラはアムネジアとは関係なかった。イブキと同じメモワールと呼ばれる、メモリアンを倒す側の人間だった。
それを知れたことでも練には大きな収穫だった。そしてそれは、イブキが必要以上のことを語ろうとはしなかった所為でもある。
「メモワールっていうんだろ。イブキたちのことを。それで記憶を失って、戦っているって。本当か?」
「……本当よ。でも、失う記憶は倒したメモリアンである程度まかなえる。だから、戦い続けるためならメモリアンを倒す必要がある。彼女もそれを狙ってきたのでしょう」
「でも、そんなこと、俺は聞いてないぞ。記憶を失うなんて」
「取るに足らないことだから説明しなかった。それでは駄目?」
「駄目だってことはない、でも……」
もっと自分の境遇について話してくれてもいいんじゃないか? そう言いたかった。しかしそれは敢えて飲み込み、メモワールのことをもっと知るべきだと考え直した。エイラというメモワールが、本当に信頼するに足るのかどうかを判断するために。
「他に何か隠していることがあるんじゃないか? メモワールっていうのは、どういうものなんだ? あのエイラって奴は?」
「あなたがそれを知ってどうするつもり? あなたにそれを知る必要はない。あなたは本来メモワールとは無関係。だから、メモリアンのことも、アムネジアのことも、必要以上に知る必要なんてない。もちろん、渦雅エイラのことも」
そういうと、イブキは踵を返し、校舎へと戻っていった。それを止める術は、練にはもうなかった。
――なんでイブキは、メモリアンや自分のことをひた隠しにするんだ?
エイラの言ったことは正しかった。イブキは何も教えてはくれない。だとしたら、頼るべきはイブキよりも――
練の悩みは結局解決することはなかった。昼休みが終わり、放課後になる頃には、エイラという名前の人物は学校から消え去っていた。代わりにイブキが戻ってきた。そして、誰もが思い出したように、あるいは忘れ去ってしまったように、自分のクラスのメンバーとしてそれを受け入れた。