5.イブキのメモワール➄
5.イブキのメモワール➄
イブキに連れられるまま、屋上まで来てしまった練。
屋上は安全の問題から閉鎖されている。しかし、イブキの鍵はそれを容易く開けてしまった。どういう経緯でそれを入手したのか、聞いても答えてはくれなかった。
到着してすぐ、イブキが口にしたのは、
「あなたの記憶を奪ったのは、かなり危険なメモリアンだということが判明したわ」
という事だった。
メモリアンという言葉が夢だったらよかった。知らなければよかった。しかし、練はイブキにその記憶を消されることはなかった。印を施した相手が危険なメモリアンの可能性があったから保留になっていたが、それは紛れも無い事実になった。いや、事態はもっと深刻のようだった。
「メモリアンには実体はないわ。その分、様々な記憶の道を辿ってやってくるの。そしてちょうど、この町に《彼女》はやってきた。メモリアン達ですら恐れる《アムネジア》という名の怪物……今まで彼女に狙われて助かったのは、ほとんどいない」
「アムネジア? メモリアンも恐れる……まるでアニメでも見ているみたいだな」
ちゃかすように練は言った。実際はそんな冗談なんて言っていられないということは分かっていたが、どこかで誰かが、これは全部嘘なのだと言ってくれるのかもしれないと期待していた。しかしイブキは真面目に頷き、練の意見に同意した。
「そうね。でも、名前の通りだわ。彼女は記憶の中でも《忘却》を司っている。人の記憶を奪うことに対して、異常なまでの執着を持っているわ。そして彼女は、記憶を美味しくいただくためなら、人の記憶を書き換え、他のメモリアンをけしかけ、人間関係を破壊することだっていとわない。彼女に多くの人間が殺されているわ。嘘ではなく、本当の話よ」
練も自分の目でメモリアンという異形の存在を確かめていた。今更疑うなんてことはしなかったが、そんな強力なメモリアンが自分を襲ったということはにわかに信じがたかった。アムネジアと呼ばれるそれが、何故練を襲ったのか、練自身には心当たりがなかった。
「だから、あなたはしばらくの間、警戒していてほしいわ。もし、変な感じがしたら、すぐに私に教えて。一応、あなたが他のメモリアンに襲われないように記憶にロックを掛けておいたから、弱いメモリアンなら襲ってこないはずよ」
「……まあ、それは別に構わないけど、イブキはそれでいいのか?」
メモリアンと戦うのはイブキの役目だ。直接戦うイブキのほうが危険を伴わないのか。と練は思った。しかしイブキはそれを意にもせず答えた。
「いいのよ。アムネジアを倒すことは、私の願いでもあるから」
イブキは練をじっと凝視した。
「でも、問題もあるわ。私がやられた後のことよ。もし、私がアムネジアに殺されてしまったら、あなたもきっと同じ道を辿ことになるわ」
それは考えうる中で最も悪い状況。
「イブキには仲間もいるんだろう? 数を集めれば、勝てるんじゃないか?」
「残念だけど、私達の仲間は少ないわ。それに、相手がアムネジアだと知れば、誰も手伝ってはくれない。それくらい、彼女は仲間たちからも恐れられている」
「じゃあどうすれば……」
「心配はいらないわ。言ったとおり、私だけでもアムネジアは倒すわ。メモリアンが人の記憶を食べるなら、私達はメモリアンの記憶を食べて生きていく存在。戦いを否定することは、メモリアンの侵略を認めるようなものよ」
「……そうか」
イブキの口調には何の迷いもない。真剣にアムネジアに立ち向かおうとしている。しかし、それを考えるあまり、自分に危険が及ぶかもしれないということを考えていないのではないだろうか。練はそれが心配だった。
「もし、俺が助けられなかったら無理する必要なんてないんだぞ。その仲間みたいに、戦いを避けることだってできるんだろ?」
「そんなことはできないわ!」
初めてイブキが感情的になった瞬間だった。練は驚いて何も言えなくなった。
「そうやって誰も倒さない所為で、多くの人達が殺されようとしているの。あなただって、死にたくはないでしょう? だったら、黙って私にしたがって」
威圧を含んだイブキの言葉……しかし、練はそれには答えなかった。
――自分勝手だ。頼んでもいないのに命を助けてやるだの、自分の言うことに従えなど、あまりにも身勝手だ。意見を言えるような立場ではないと分かっていても、イブキの言葉を黙って受け入れることにも抵抗があった。
イブキは戦おうとしている。何人も殺すような相手と。
それに頷くことは、イブキを見殺しにするようなことだ。イブキが怪物に勝てる見込みがあったとしても、それを黙って見ていることなんて、練には出来なかった。
イブキから怒気が一瞬で消え去って冷淡に言った。
「それで話は終わりよ。あなたがこれからどういう目に会うことになっても、私が助ける。だから、あなたはいつも通り、学生としての生活を全うして」
練はまだ答えない。いや、答えられなかった。いま口を開けば、イブキのその優しさに甘んじてしまうような気がして。
一瞬、悲しみを浮かべたイブキは、すぐにいつもの無表情に戻り、屋上の給水塔にするりと登ると、そこから空を眺めるように首を僅かに上げた。
練は逃げるようにその場から立ち去った。