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1.イブキのメモワール➀



 イブキのメモワール



 1.



 十二月二日。

 暖かな冬だった。平均気温は前年よりも高く、土の中から生えてくる霜柱さえも、まだ芽吹く様子はなかった。この様子では関東地方は一度も雪が振らずに春を迎えてしまいそうな勢いだった。

 いづる市海原かいばら町にある小さな駅を降りた浜国練はまぐに れんは、灰色に染まった空を眺めながらため息をついた。白い吐息が朝焼けに照らされ、宙をわずかにさまよって消えた。

 寒いのは苦手だ。今朝だって確かにタイマーをセットしたはずなのに、起きてみれば時間は八時。電車を使って登校しているから、何も食べずに家を出てギリギリ間に合うくらいの時間。眠気は一気に覚めた。

 駅まで辿りついたことで、急いでいた気持ちもある程度落ち着いた。人の熱気に包まれていた電車内も、出てしまえば途端に冷めていく。

 通学路に生えている木々から葉が舞い落ち、すっかり秋から冬の景色へと代わり始めていた。この景色を見るのは今年で二度目。一年生の時と比べれば随分と見慣れたこともあり、小さな変化にも気づくことができた。

 いくら暖かいとはいえ、寒いことには変わりない。通学路を眠そうに歩く学生の集団はみんな厚手の服を着ているし、木々は緑の衣すっかり脱ぎ捨て、草は身を縮ませるように短く生えている。無遠慮に飛び回る虫ももうほとんどいなかった。

 再びため息を漏らす。やっぱり寒いのは苦手だ。

 練の通う入谷第三高校は、県内でも一般的な高校として知られている。偏差値以上でも偏差値未満でもない、ごくごく普通の学校。進学も就職も普通の高校。でも、普通に良い高校だ。二年目になってそう練は思っていた。

 駅からわりと近いこと、校則が厳しくないこと、何より購買のパンが美味しいこと。

 それを楽しみに思うと、学校に行くのも少しだけ苦ではないような気がしてくるから不思議だ。練のお腹が鳴った。朝食を抜いてしまったことを思い出すと、途端に腹が減ってきて、またため息を漏らした。

 ――はあ。飯ぐらいは食べてくりゃよかった。

 後で後悔しても遅い。一度気になりだすと、お腹の音は止まらなかった。

 きっと目覚ましのタイマーも同じくらい必死に自己主張していたのだろうが、気が付かなかったものはしょうがない。終始お腹の音を鳴らせながら、学校の門をくぐった。


 教室の中には練の友人である泡未二郎あわみ じろうと武林エミリ(たけばやし)の二人が何かを言い争っているようだった。練は席に着くと鞄を机横のフックに引っ掛けると、二人の元に向かった。

「よお。どうしたんだ?」

 練の声に反応したのは二郎だった。冬だというのに学ランのボタンを止めていない。

「おお! レン遅かったじゃねーか! そんなことより聞いてくれよ! エミリの奴がひどいんだよ!」

「ひどいのはあんたでしょっ!」

 エミリが二郎の声よりも大きく反論する。それと一緒に、特徴的なツインテールが揺れた。

「フツー学校にこんなモン持ってこないでしょ!」

「うるせー。これは授業の参考資料だ!」

「なんだ? ジャンプか?」

 練が聞くと二郎は自信ありげに首を振った。

「違うなあレンくん。君はボクのことを勘違いしているよ。あれはね、ウン、保健体育の参考……」

「ばば、馬鹿っ! 言うなーっ!」

 エミリが国語の教科書を丸めて二郎の頭を殴打した。二郎が言葉を継ごうとするとさらに激しく教科書が振り下ろされ、二郎はたまらず椅子から立ち上がった。

「いてーだろうが! この《茅の輪くぐり》が! なんだよその髪型!」

「なんですってーっ! 私のセンスにいちゃもんつけるつもり? 二郎のクセに!」

「茅の輪くぐり、ねえ」

 練はエミリの髪型を見た。両端に輪っかが二つ。綺麗に編まれて形ととどめている。その横から普通のツインテールのように髪が伸びている。

 ちょっと昔とかのアニメとかにありそうだ。だが、現実にこんな髪型をしているとは、かなりの勇者だ。と、毎回の如く思ってしまう。

 エミリの頭に輪っかが現れたのは、何も今日に始まったことではない。と語るのは二郎だった。二人は幼なじみで、二郎はこのかた十年以上、この髪型を貫き通しているということだ。

 そして二郎はこの髪型についてのツッコミを熟知している。この関係はまさしく。

「仲いいなー。付き合っているのか?」

「「そんな訳ないだろ!」」

 二人で声を合わせてそう言う所を見ると、やっぱり仲良しなのだな、と思ってしまうのだった。

 

 平均以上でも平均以下でもない練にとって、学園生活は淡々としたものだった。特に頑張ろうと思うこともなければ、頑張らなきゃいけないと思うような出来事にもおおよそ出会わずに二年生を迎えてしまった。

 小学生の頃は、この季節になれば授業もすぐ終わり、昼間から何して遊ぶかを必死に考えていたり、クリスマスプレゼントのことを思って毎夜、眠るのが楽しみだったり辛かったりと、いろいろと忙しかったのだが、高校生になれば欲しいものはバイトして買えばいいし、夕焼け小焼けのチャイムが鳴ろうといつまでも遊ぶことができる。

 自由というのはある意味では不自由だ。

 ぼうっとそんなことを考えて、練は窓の外へと目を移した。

 灰色の空から晴れ間が覗き、次第に暖かな陽気が教室に差し込んできていた。

 ふと、外の様子が気になった。体育の授業もないのか、グラウンドには誰一人として居ない。そのはずだった。

 だがよく見ると、校庭の端、木々の茂ったゴミ捨て場付近に、一人の少女がいることに気がついた。この高校の制服を着ている所から見て、この学校の生徒であるのは間違いない。

 ただ異様だったのは、その少女の髪の色がおかしかったこと。

 目の錯覚か? 次第に昇っていく太陽の光が少女の周りを照らそうとしていた。木々の影がゆっくりと縮んでいき、少女の姿が顕になる。

 やっぱりおかしい。

 その少女の髪は、真っ白だった。

 銀色の、もしくは白髪の生徒なんて、この学校に居ただろうか。もし、そんな生徒がいたらすぐに気がつくはずだ。エミリの髪でさえ、この学校では際立って特徴があるというのに、髪の色が全く違う人間がいたら、全校朝会の時にだってすぐ気がつくはずだ。

 確かに、この学校の髪型や髪色は自由に近いが、それにしても髪を銀色に染めるなんて自由すぎる発想だ。

 もしかして転校生だろうか? 練ちょっとだけ真面目にその姿を確認しようと、目を擦ってから凝視したがその瞬間、大きな声が教室に響き渡った。

「こらっ! こんなモノ持ってきて! 泡未くん、放課後で職員室に来てください。それまでこれは没収です!」

 二郎はさきほど持ってきていた不健全な教科書を没収されていた。教室中が笑いに湧いたが、他のことに気を取られていた練にとってどうでもよかった。

しかし、再び窓の外に目を移した時には、もうその姿は消え去っていた。


「それでは、午前の授業はおしまいです。最近掃除の時間にぶらぶらする生徒が多いので、授業が終わっても、きちんとホームルームまで出席するように、と教頭の言葉です。それでは解散」

 と、先生が言い終え、四時限目は終わった。教室の中は途端にざわざわと騒ぎ出す。先生はちょっと困ったという顔をしながら、教室を出て行った。授業の仕方も、ホームルームでもマイペースだから、生徒に振り回されっぱなしのようだ。

「練、ようやく飯だな」と二郎。

「ああ。待ちわびていたぜ。久しぶりにクリスマスを待つ子供みたいな気分だった」

 お腹はもうアラームを鳴らすのすらやめてしまった。もうお腹が空いているのか、いないのかすらも判然としない。

「こういう時に限ってお財布忘れていたりするのよね」

「いや、まさかそんなことは」

 急いでポケットの中を探った。ちゃんと財布はあった。財布の中に定期券も入れているのだから、なければ電車にすら乗れていないはずだ。小銭も十分な程にある。

「焦った。驚かさないでくれよ」

「そのくらいちゃんと覚えておかなきゃ駄目でしょ? そうしないと、コイツみたいになるよ?」

「コイツって誰のことかな?」

 二郎がそういうやエミリが食いついた。

「アンタよアンタ! ちゃんと隠しておきなさいよ! あの本!」

 まるで撒いた餌を瞬時に食べるコイのような研ぎ澄まされたツッコミだ。と感心していると、お腹が自分の仕事を思い出したように大きく鳴った。

「俺は腹が減ったよ。今日はサンドイッチだな」

「じゃ、急がねえとな!」

 二郎がいち早く駆け出すと、エミリがそれに続いた。

「先に行くなら私の分も買って来て。チョコレートパイがいいなあ」

「コッペパン? おっけー」

「違うわよ! こら、待ちなさーいっ!」

 練も二人の後に続いた。その頃にはすっかり白い髪の少女のことは忘れていた。

 ただの見間違いだったんだろう……そう納得してしまっていたのかもしれない。


 入谷第三高校には購買も学食もある。昼休みになれば食堂には人が押しかけ、大変な人口密度になる。それを知らないのは春の一年生くらいのものだ。冬になれば、誰だってこの学校の習慣に慣れる。二年立てば、この景色を見なければ昼食じゃないと言えるくらいになる。

 練は戦利品を脇に抱えながら教室へと後戻りしていった。

「二郎の所為でチョコレートパイなかったじゃん」

「そりゃあ、すぐに無くなっちゃうだろ。案外女子も殺到するからなあ。バーゲンセールみたいな気持ちになるぞ」

 二人の会話が耳に入らないくらいお腹が空いていた練は、走ってでも教室まで戻りたかったが、二人に合わせてゆっくりと歩いて教室を目指した。

 そして、教室に到着するとさっそくパンの包装を破ろうとして――落とした。

 唖然とした。すっかり忘れきっていた記憶が一気に頭の中へと流れこんできた。

 そこには授業中に見た、あの銀色の髪の少女が、机にお弁当を広げて座っていた。

「なっ……ど、どうなって?」

「ん? どうしたレン? パン落ちたぞ」

 練の落としたパンを拾ってよこす二郎。しかし練はすぐにそれを受け取れなかった。

 ――あれは見間違いじゃなかった? でも、本当に髪の色が違うじゃないか。おかしい。俺は夢でも見ているのか?

「おいレン」

 胸を叩かれてようやく気がついて反応した。その手に握られたパンを練に押し付けると、エミリの席の前に座った。

 ――何故、誰一人としてこの異様な光景に突っ込まないんだ? おかしい。

 練の記憶が正しければ、このクラスにこんな髪の生徒はいなかったはずだ。懸命にこの銀髪の少女のことを考えてみた。例えば、彼女が座っている席には本当に彼女が座っていたかどうか。ほぼ中央の席、前から三番目……思い出そうとしたものの、名前を答えることは出来なかった。おかしい。

 ならば、あの少女の顔についてはどうだ? 練は恐る恐る銀髪の少女の顔をのぞき見た。彼女は至って普通に食事をしていた。まるで自分はこのクラスのメンバーだと主張するように。しかし、その顔はどこか淋しげで、退屈そうだった。こうして食事をすることも、この学校にいることも、何もかもが面白くないと言いたげな表情。こんな女子生徒がいれば気がつくはずだ。おかしい。

 ……そして気がついた。この少女の瞳は一般的な黒っぽい色ではなく、透き通るような真っ赤な色をしていた。カラーコンタクトでも入れているのだろうか、と思ってその顔をさらに見つめる。見間違いじゃない。赤い色の目だ。おかしい。やっぱりおかしい。

「おいレン。腹減っていたんじゃないのか?」

 ぱんぱん、と二郎に肩を叩かれ、練は我を取り戻した。

「お、ああ……そうだったな」

 二人はすでに購買で買った昼食を食べ始めていた。それに対してまだ練は一口も食べていないどころか、包装だって半分ほど破ったままだった。エミリが不安そうに練の顔を覗き込む。丸い瞳が練を射抜いた。その色は茶色がかった黒。

「どうしたの? もしかして風邪引いたんじゃない? 頭痛いの?」

「冬は厄介なのが多いからな。インフルエンザとか……まさか、本当か?」

「い、いや、そんなことはない。ただ……」

 練は一瞬迷った。この話の流れから彼女を話題に出すのは問題ないと思った。「あの子の髪なぜ白いのだろう」「なんで赤い目をしているんだろう」「この教室にあんな子居ただろうか」「授業はさぼったのだろうか」「みんなあいつのことが気にならないのか」など……だが、それこそが不自然な話になるかもしれない、と思い直したからだった。

 午前に居なかった人間が増えているのに、誰もが気が付かないと言うようにそこに存在している。もしかしてこれは単なる幻覚か何かで、他の人には見えていないのかもしれない。だとしたら、二人を余計に心配させるだけだ、と。

「これはあれだな。恋わずらいってやつだ」

「はあ?」

「だって、さっきからじーっとイブキちゃんのこと見ていたじゃねーか」

「……えっ?」

 練は一瞬、自分が本当にここいるのか分からなくなった。イブキ? そんな名前には覚えがなかった。確かにクラスメイト全員の苗字と名前を一致させることは難しいかもしれないが、一度くらいは聞いたことがあるはずだ。だが、イブキという名前は二年生になってから聞いた覚えがなかった。

 練は答えを求めるように、銀色の髪の少女を見つめた。だがその答えは見つからなかった。あの子のことを練は一度も見たことがないし、そうなればもちろん名前だって分かるはずがなかった。

「おいおいお前ってそんな奴だったか? 確かにイブキちゃんは影薄いけどさ、忘れるなんて薄情じゃないか? レンだって言っていたじゃないか。あの子のことがなんか気になるってさ」

 練の背筋に何か冷たいものが這っていった。それは悪寒のようなもの。あるいは予感めいた何か。全身の毛が逆だってぞくぞくとするような恐怖。

 あの子ことが気になるだって? 一度だって会った覚えもなければ、名前も容姿も知らない相手のことを?

 自分自身に問いかけることではその答えは返ってきそうになかった。

「な、なあ、イブキっていうのは、その、あの子のことだよな?」

 銀髪の少女を見ながら言う。二郎もエミリもそうだというように頷いた。

「当たり前じゃない。私達、一年から同じクラスじゃない。忘れたの?」

 練は答えられなかった。思わず言葉を失ってしまった。

 一年から同じクラス……だった? 練がどんなに思い出そうとしても、彼女に対する思い出は見つからなかった。あんなに目立つ容姿をしているというのに、たったのひとつも関連性を持つ記憶はない。

「もしかしてあれか? 若年性なんとかってやつ」

「何言っているのよ。そんなの高校生のうちに発症するなんて、相当な確率よ。ちょっと忘れちゃっていただけよね?」

「あ、ああ、かも、な」

 反射的に返事をした。だが、二郎の言う通り、若年性認知症の可能性も否定出来ない。何故なら、彼女に関する情報が何一つ思い出せないからだ。二年間一緒に居たならば、記憶の片隅に残っていてもおかしくない。いいや、残っていなくてはおかしい。それがすっぽりと、イブキという少女のことだけが欠落している。

 血の気がさっと引いていき、気が遠くなるような感覚に陥った。

「じゃあ、さっさと飯食おうぜ。あと一〇分で授業だぜ」

 授業が始まるという言葉に、練の意識はなんとか踏みとどまり、ようやくパンの包装を破って食べ始めることができた。

 あれほど腹が減っていたのに、パンの味を感じ取ることはできなかった。

 しかし、次第に頭に栄養が巡り始めたのか、冷静に物事を考えられるようになってきた。きっと朝食を抜いて学校に来たせいで、頭が混乱していたのだろう。自分でそう納得させて、練はパンの包装を丸めた。

 そう。イブキという名前の女子生徒は確かに居たのだろう。ただちょっと思い出せないだけだ。話してみたらきっと何かを思い出す。銀髪に染めている理由や、カラーコンタクトを入れていること、授業中外に出ていた意味など全部。

 お腹が満たされると、次第に彼女のことも気にならなくなっていた。何よりも他の人が大騒ぎしていないのだから間違いない。これが自然な光景で、イブキという少女は、このクラスの一員なのだろう。そうでなければ、異質なのは自分であることを認めなくてはいけない。

 練は彼女の銀色の髪を見つめながら言った。あくまで自然な会話であるように。自分も、クラスのみんなと同じように彼女を見ていると主張するように。

「でも、銀髪で学校に来るなんて、勇気あるよなあ……」

 二人が揃って顔を見合わせた。

「何言っているの? イブキちゃん、普通に黒髪だよ?」

 銀髪の少女はお弁当箱を片付け始めていた。


 ――例えば、リンゴがあったとする。これを二人の人間が見たら、一方は赤色に、一方は青色に見えた。リンゴは確かに赤いはずだが、見る人が違えば、リンゴは青く見えるかもしれない。もしくは、リンゴの本当の色は、赤ではなく青なのかもしれない。自分の感じとった色の正誤を説明できないと、リンゴの本当の色を言い当てられない

 そんなどうでもいいことを思いながら、練は午後の授業を受けていた。

 いつもなら眠くなるはずの座学の時間も、心の中に生まれた疑問を晴らすために活性化していた。

 ――イブキの髪の色が違う? 一体何故?

 イブキの存在が異質に感じたのは、練から見て、イブキの髪の色が銀色だったからだ。銀色の髪の少女が存在するという確率は、この日本国内でもほとんどあり得ないだろう。だが、そんなあり得ない状況なのにクラスメイトは反応を示さない。それはイブキの本当の髪の色が黒色で、ごく一般的な日本人の髪色だからだ。

 横目でイブキの様子を見る。先ほどまで授業に参加していなかった少女は、真面目に黒板の文字を写しとっているようだった。至って真面目な学生に見えることから、髪を染めるなんて大胆なことはしそうにない。

 認めたくない。しかし認めなくてはいけない。

 ――おかしいのは、俺のほうだ。

 練はそれをずっと考えていた。目を閉じて一端休めてから再びイブキの姿を見る。しかし、何度見てもイブキの髪だけが、真っ白な光を放っている。

 他のクラスメイトが黒髪に見えているのだとすれば、イブキが誰の咎めもうけないのも頷ける。もし本当に銀色に髪を染めてきていたら、どんなに校則の緩いこの学校だって注意ぐらいはするはずだ。

だとすれば、おかしいのはやはり。

 心当たりは全く無かった。いつもと同じ日常。いつもと同じ学校。そしていつもと同じ自分自身。練は必死に昨日の記憶を呼び起こそうとした。そこにはきっと、今の状況を説明できるヒントが隠れていると思ったからだ。

 しかし、イブキの正体を見た時から知ることができなかったように、どんなに思い出そうとしても出てくるのは二郎やエミリと他愛ない話をしたこと、昨日の昼食はハムカツサンドだったこと、日本史の宿題があったこと、そして、何事もなく家に帰り、風呂を浴びて眠ったこと。たった一瞬もイブキは現れない。

 何故イブキが、イブキの記憶だけがすっぽり抜け落ち、そして髪の色が他とは違うように見えるのか? もし、これが幻覚だとしたら何故そんな幻覚が見えるようになったのか。誰か教えてくれ。

 練は机の上に腕を組んで顔を伏せた。もう手詰まりだ。何も分からない。

 練は考え疲れて机に突っ伏した。柄にもなく真面目に考えた所為で頭が痛くなってきた。もうどうにでもなれ。半ば自暴自棄になって、そのまま眠ってしまった。

 悩んで、どうしようもない時は眠ってしまえば忘れてしまう。もしかしたら、新しい閃きが生まれるかもしれない。

 人は眠っている間に記憶の整理をするという。だったらきっと、イブキの情報もきっと整理して、分かりやすい解決法を用意してくれるはずだ。

 それが練の悩んだ時の解決法だった。


 眠ったことが功を奏したのか、目が覚めた時はすっかりイブキへの悩みは消え去っていた。そして時間はちょうど最後の授業が終わろうとしている所だった。

「それでは、今日の授業は終わります」

 最後の授業が終わると同時に立ち上がる生徒達。

「さて、掃除の時間だ。いつまで寝ているんだレン」

 二郎がさっそく練の元へとやってきてその肩を叩いた。

「もう起きているぞ。ったく」

 さっきまで悩んでいたのが嘘のように頭の中がさっぱりしていた。今ならイブキのことを思い出せるはずだ。そう思ってイブキの席を見たが、そこに彼女の姿はなかった。

「俺達の掃除場所、確か今週は二階のトイレだったはずだ。行こうぜレン」

「あら珍しい。いつもならもう遊びのことを考えているのに」

「うるさい。俺だってたまには真面目なの! エミリこそさっさと掃除に行けよ」

「はいはい」

 エミリは友達と合流して教室から出て行ってしまった。

「じゃ、行こうぜ」

 二郎と練は一緒に廊下へ出た。後は掃除だけということもあり、辺りはざわざわと賑やかだ。二郎のように、これから遊びに行く話などで盛り上がっているようだ。

 やはりいつもと同じ景色。これがこの入谷第三高校だ。

 だんだん自分のペースに戻っていくのを感じていく。練はトイレに着くと鏡を眺めた。いつもと同じ顔。これが自分の顔だ。イブキというクラスメイトのことは、これから知ればいい。そういうことだ。そう鏡の向こうの自分に言った。

「そういえば、昨日は帰る前に図書室に寄るとか言っていたよな? それで、何を借りたんだ?」

「ん? 図書室?」

 昨日のことを思い出そうとする。図書室に行って借りたものと言えば……何を借りた?

 ――背筋を這う冷気。イブキを見た時に感じたものと同じ悪寒。

「おいおい、別に隠すことないだろう? どうせいつものあれだろ? なんだっけ、《上下工事》の――」

「あっ、ああ。そういえば、そうだったな」

 二郎の言う《上下工事》というのは小説作家の名前だ。推理小説を得意とする作家の中でも硬派な文体と、古風なトリックを得意とする、最近のお気に入りの一人だった。最近では小説がドラマになり、再び脚光を浴びるようになったが、彼は三年前に亡くなった。重い心臓の病気だったらしい……というのは小説に詳しい後輩の受け売りだ。正直、読み終えた小説以外のことはよく知らない。

そういえば、彼の小説《時間を三歩進む男》を読了し終え、図書室に返しにいく予定だったのだ。そして、まだ読んでいない小説を再び借りようと思っていた。

 そこまでは覚えている。いいや、そこまでしか覚えていない。

 ――昨日、俺は図書室に行ったのか?

 自問するが、練の記憶の中には借りに行った覚えがなかった。

「あのドラマすごいよな。まさか犯人があんな所から出てくるなんてな。でも、もう死んでいるなんて、本人は悔しいだろうな。生きているうちにやれよ! って感じでさ」

「そうかもな」

 うまい具合に話が流れたおかげで、借りに行ったらしい本の題名を聞かれずに済んだ。掃除が終わったら鞄の中を確認してみる必要がありそうだ。

 

 ホームルームの終了を担任が告げる。すぐさま二郎が練の元にやってきた。

「おい帰ろうぜ」

「悪い。今日もちょっと図書館に用事がある」

「何だよ。ま、いいけどな。それに、俺も用事があるし、な」

「ああ……あれか」

 授業中に没収された邪な教科書のことか。と朝のことを思い出しながら言った。

「まあ、すぐ終わると思うけどな。チクられた先生にもよるからなあ」

 遠い目で昔を懐かしむ二郎。この前はゲームのソフトを没収されていた。前科持ちというやつだった。こんな呆れてしまうような事ばかりしている男だが、クラスの仲では人気がある。女子の中でも大胆さと人の良さから頼りがいのある男だと思われているようだ。だが不思議なことに、二郎を好きだという話はちっとも聞いたことがなかった。

「ま、ちゃんと反省することだ。お前もたまには漫画本以外を読んだほうがいいぞ」

「そりゃ無理だ。俺は三行以上の文字列を見ると睡眠状態に陥って行動不能になってしまうのだよ。そこらへん、何度も言っているはずだぜ?」

「そうかよ。ま、そう言うと思ったけどな」

 二郎が小説を読んだりしないのは知っていたし覚えていた。一緒に来ると言われても、今日ばかりは困ってしまうが。

 練のこれからの用事は、鞄の中に入っていた《箱の中の時計》がどういう経緯で鞄の中に入っていたかを調べにいかなきゃいけないのだ。

「じゃあなレン、また明日」

「ああ」

 二郎は一人、教室から出て行った。練は鞄の中からそれを取り出した。

 この《箱の中の時計》という小説は、上下工事の書いた小説。まだ練が読んだことのない小説だった。つまり、練はこれを昨日のうちに借りていた。だが、当の本人である練は、この小説を借りたことを覚えていなかった。

 そして、入っていたはずの《時間を三歩進む男》がなくなっている。読了したことは覚えているから、昨日、小説の貸し借りが行われているはずだ。練自身は覚えていなかったが、もし本当に貸し借りが行われているなら、図書室が管理しているパソコンにその履歴が残っているはず。それを確かめなくてはいけない。

 図書室に向かう途中、クラスの中を見回してみた。そこにイブキの姿はなかった。ホームルームの時に、彼女は戻ってこなかったのだ。担任の言いつけを守り、真面目に掃除して、ホームルームに出席すると思っていたから意外だった。

 教室を出て図書室を目指す。この入谷第三高校の周りはほとんどが住宅地だ。高いビルがないからか、ここの夕焼けは圧巻だった。山の稜線へと沈んでいく夕日は、まるで燃え上がる炎のようで、ゆっくりと燃え尽きるように沈んでいく様子は、どこか悲しい気持ちにさせた。

 練は子供の頃を不意に思い出した。しかし、それは明確には形を止めていなかった。漠然とした思い出。どんなに心動かされた瞬間も、時間を経れば次第に記憶はすり減っていってしまう。だからこそ、こうして記憶の一部がふとしたことで消える訳が知りたかった。それが、本当に起こっていることかどうかも。

 図書室には数人の生徒が談笑などをしながら机の上に本や紙を広げていた。漫画研究会や小説サークルが放課後に集まるのが、この図書室の普段の光景だ。

「あの、すみません。二年二組の浜国練っていうんですけど、昨日の本を返したかどうか知りたいんですけど」

 受付に座っていた女性の司書さんは少し訝ってはいたが、ノートパソコンを操作してすぐに調べてくれた。

「浜国さんの賃貸表はこれですね。どうぞ」

 表計算ソフトにそのまま書かれた賃貸表には、練が今まで借りた本の一覧が記録されていた。上から順に覚えているものと覚えていないものを比較していく。今まで読んだことのない本はない。そして最後の欄には《時間を三歩進む男》を返却し《箱の中の時計》を新しく借りていたことが、昨日の日付、時刻と一緒に記載されていた。時間は五時三十二分だ。

「ありがとうございます。もう大丈夫っす」

 ノートパソコンを司書さんの方に向けて返した。

「ええ。また困ったことがあったらどうぞ」

 軽くお辞儀してカウンターから離れた。とにかくこれで、昨日は本を借りて帰路についたのは明らかになった。練は心を落ち着けて、図書室の一角に腰掛けた。

 整理しなくてはいけない。一体何が起きているのかを。

 昨日のことを事細かに思い出そうとした。どこまで覚えているのか、どこから抜け落ちているのかを。昨日の朝、一時間目の授業、昼食、午後の授業、そして放課後。

「昨日のトイレ掃除のことは、覚えている、な」

 二郎がトイレのブラシを持ったまま担任の先生に説教されていた。

 練は机の上に紙を広げ、時間帯を書き込んでいく。

 この次はホームルームだ。ホームルームの内容は……思い出せない。

 おおよそ四時くらいから記憶が抜け落ちているらしい。これも書き込む。

「夕飯は食べた。刺し身だったはず……昨日の駅のこと……駅?」

 覚えていなかった。そうだ。どうやって家まで帰ってきたんだ?

 帰り道の光景をある程度思い出せるはずだ。しかし、その日はどうやって帰ってきたのか曖昧だ。覚えているのは、夕食のことからだ。つまり、七時くらい。

「四時から七時の間の空白の時間がある。なんで思い出せないんだ?」

 イブキの記憶だけでなく、この時間帯の記憶が抜け落ちている。だが、その予兆はまったくないと言っても良い。もしかしたら、痴呆の類が突然発症してしまったのだろうか。そう思って悩みもしたが、抜け落ちたのはイブキのことだけではないようだ。だとすれば、この記憶の欠損には、なんらかの意味があるのではないか。

 例えば、記憶を喪失するような出来事にあった、とか。

 練はまるで推理小説を読んでいるような気分だった。他に変えるもののない、自分の体のことなのに実感がまるで湧かない。だが、このことを証明しなければ、練の頭がおかしくなってしまったことを認めることになる。病院に一度行く必要があるかもしれない。恐ろしいのは、それでも解決しなかった時だ。

「……この空白の三時間に、きっとイブキとの関連性があるはずだ。たぶん」

 そうでなければおかしい。記憶の喪失がどうやって起きるものか詳しくは知らないが、この空白の三時間とイブキの記憶は、きっと繋がっている。例えば、この三時間の間に、イブキと出会い、そして、記憶を丸々無くすような出来事が起きた。

 その出来事とは?

「普通に考えれば、記憶がない時間から気を失ったとかなら分かるよな、でも、そうじゃない。この三時間の中には、俺がこの図書室で本の貸し借りをしているんだ。その間の記憶もない……何故だ? まるで切り抜いたみたいに、そっくり綺麗に記憶喪失になることなんてあるのか?」

 時間帯の表の中、三時間の空白の中に図書室での貸し借りを書き込む。確かにこの間に何かがあったはずだ。借りた時間は五時三十二分。

「いつものこと、だったら、ホームルーム終了からこの時間まではきっと、この図書室に居て、どの本を借りるか悩んでいたはずだ」

 つまり、四時から五時半の一時間半は、この図書室に居た。残りの一時間半は帰宅時間。家についてほっと一息ついている間に夕食の七時になる。

 図書室の中で記憶にまつわるようなことが起こったとは考え難い。となると、図書館を出てから家に帰るまでの一時間半の空白。その間に、何か秘密がある。記憶を失ってしまうような何かが。

「うーん」

 出揃ったが、やはりこれだけでは何も分からない。分かったことと言えば、もしこれ以上《この症状》がひどくなったら、病院のお世話にならなければいけないということだけだった。

 いよいよ困ったことになった……練は心の中でため息をついた。

 その時だった。自分の背中にふと視線を感じて椅子に座ったまま後ろを振り向いた。

「あっ、浜国先輩……こんにちは……」

「花園か。どうした?」

 一年生の花園恵はなぞの めぐみだった。彼女とは文化祭実行委員の仕事をしている間に知り合ったのだった。文化祭の実行委員は文化祭の時以外に活動しない代わりに、文化祭前日からの準備が忙しく、恵を始めとする文化祭実行委員はクラスや学年の関係なく協力してやることが多かった。

 恵はあまり人前で話す方ではなかった。だから一人で困っていることも多く、それを見て練が手伝ったことが始まりだった。文化祭当日の退屈な時間などにいろいろ話したこともあり、恵がどんなことに興味があるのかも知っていた。

 ――そういえば、上下工事のことを教えてくれたのも彼女だったな。

 恵は放課後、小説を批評したり、自分で執筆した小説を部誌として発行しているサークル(名前は忘れた。変わった名前だったことと、メンバーが少ないということだけは覚えている)で活動していて、この時間に図書室にいるのは何の不思議もない。こうして時々話すこともあった。

 しかし彼女のほうから話しかけてくることは珍しい。丸い眼鏡の奥で黒い瞳がくるくる動いた。

「い、いえ……いたから話しかけてみただけです……なんだか深刻そうにしているみたいだったから……」

「そうか。いや、別に対したことじゃない」

「そうですか? もしかしたら、昨日勧めた《箱の中の時計》がお気に召さなかったのかと思いまして……そんなことはありませんでしたか?」

「……《箱の中の時計》……」

 まさか、と練は思い至った。だが、すぐにそう聞くことは出来なかった。

 ――まさか、昨日の俺に会ったのか? 俺の空白の時間に。

「そういえば、まだ読んでいなかった。勧めてくれたのに悪いな」

 そういうと両手をぶんぶんと振り回しながら恵は答えた。それと一緒に一つに結ってある三つ編みも揺れた。

「いえいえ! そんなこちらこそ、無理矢理読ませようとしたみたいになって、ごめんなさい!」

「いや、そんなことはないんだ。ただな……」

 昨日の自分に会っている。恵に話を聞くことは全ての解決に繋がるかもしれない。変だと思われてもきっと恵なら他言はしないはずだし、冗談話で片付けたりしないはず。練は変な奴だと思われてもいいという覚悟で恵にそれを聞いた。

「昨日のことがちょっと思い出せないことがあるんだ。例えば、図書館で何の本を借りたのか忘れて、ちょっと戸惑ったんだ。昨日、俺は本を借りた後、どうしたか覚えているか?」

 一瞬練が何を言っているのか理解できなさそうな顔をしていたが、眉をひそめて何かを思い出そうとしているしぐさを取った。思った通り真面目な子だ、と練は思った。

「えっと……? そ、そうですね……私が勧めた小説を借りて行くと、そのまま帰って行きましたよ……そういえば、一度、図書室の前で誰かと会っているのか、ぴたりと止まったような気がします……その、はっきり見たわけではありませんが……先輩が図書室から出た後のことまでは、ちょっと分かりませんけど……」 

「そうか……」

 部活動の途中に図書室を抜けだしたりはしないだろう。練の空白の時間は図書室で本を借り、家に帰るまでの三時間くらい。その少しでも埋まれば、何かが分かるはずだ。

「じゃあ、俺が本を探している時に、どんなことを言っていたか覚えているか?」

「ええと、はい。今度はちょっとやさしいのにして欲しいって言っていました。だから、わりと難しいトリックのない「箱の中の時計」を選んだんです」

「なるほど……」

 つまり、その図書室にいる間は恵と過ごしていたということだ。

「それで、いつもの俺と違うって思う所とかあったか?」

「い、いえ……いつも通りだったかと……」

 流石の恵も練の質問攻めに少し気圧されているようだった。声がどんどん小さくなる。

「分かった。ありがとう。変なこと聞いて悪かったな。それと、本はちょっとずつ読んで、また借りに来るよ……今日はもう帰ることにする。なんだか疲れているみたいだ」

 取り立てて重要な記憶を失ったわけではないはずなのに、何かが足りないような感覚。練はそれをずっと感じていた。もっと大事なことを忘れているのかもしれないという恐怖が、密かに練の心を疲弊させていたのは確かだった。

「そうですか……気をつけてくださいね。冬は、いろんな病気がありますから……」

「ああ。じゃあな」

 恵に挨拶して、練は席から立ち上がった。鞄を手に持って出口へと向かう。

 ――結局何も分からなかった。思えば、記憶なんてものは簡単に消えていってしまうものだ。人生という延長線上において、記憶がぽっかりと抜け落ちることも、実際は知覚していないだけで、本当はよくあることなのかもしれない。忘れていたことを忘れてしまった、という風に。

 もしかしたら、ふとしたことから思い出すことがあるかもしれない。

 それに、この問題を解決する方法がもう一つある。

 イブキに直接このことを聞けばいい。恵と一緒に居た図書室での時間が埋まり、残りの半分の時間の間に、きっと彼女の存在があるはずだ。もしイブキが知らなければいよいよ手詰まりだ。

 半ば諦めながら、練は図書室を出た。

 

 ほんの一瞬、記憶の片隅から、何かが去来した。


 いわゆる既視感。どこかでこの光景を見たような、そんな感覚。

 練が感じたのは、こうして図書室から出て、何かを思い出す、ということ。

 思い出すということを思い出した練は、何か不吉なものを感じた。

 イブキを見た時の形容しがたい嫌な予感。背筋を走る寒気。生物的な本能が告げるサイン。それは次第に強く、鮮明に。

「そうだ。確か、そうだった。俺はこうやって、図書室から出て、そして――」

 廊下を見渡す。そうすれば、その何かをはっきりとさせることができる気がして。

 練はまっすぐ前を見つめた。廊下を照らす夕日が、いつものように、そこに。

「なっ!?」

 目を疑った。

橙色に染まった廊下はそこにはなかった。目の前に広がったのは、紫色の不気味な太陽に、空を漂う朱色の雲。住宅地はまるで肋骨のようなねじ曲がったオブジェに変わっていた。

「なんだよ……これ夢だろ?」

 廊下の窓に近づいて、変わり果てた世界を見た。

 そこはもう練の知っている入谷第三高校でも、海原町でもなかった。町も人も、木々や小さな生き物たちも住むことができないような荒廃した世界……いやそれを世界と呼ぶことができるのだろうか。まるで、何もかもが死に絶えてしまったこの風景が。

「これ、現実か? それとも、本当に俺の頭は壊れちまったのか?」

 記憶障害だけでなく、もっと根本から脳に異常があったのだとしたら、今の状況だって納得できる。いいや、それ以外でどう納得すればいいというのか。

 練は混乱する頭を必死になだめようとした。

 ――そうだ。これはきっと夢か何かだ。目を瞑って眠れば、いつも通りの日常に戻るはずなんだ。だから、俺は、狂ってなんかいない。

 しかし、この異様な景色はいつまでも消えることがなく、どんなに祈っても誰にも通じなかった。

「そ、そうだ、図書室、図書室に行けば、誰かいるはず」

 後ろを振り返る。学校の形は現実にあるものと変わらない。その扉を開ければ、この異世界から出ることができるような気がした。図書室の扉からこの場所に出たのだから、この扉を開ければ、いつもの図書室に通じているのが道理だ。練は少し急いで引手に手を掛けた。

 だが、どんなに力を入れても扉は開きそうにない。鍵が掛かっているのか、それともこの異世界のものだから、扉の形をしているが、扉のように開くことができないのか、この扉は幻で、現実の練は何もない壁を押したり引いたりしているのだろうか。

「嘘だろ、そんなことなんて、あるのか?」

 頬をつねって夢が覚めるなら覚めて欲しかった。しかし、扉を開けるために力を入れて分かった。これは現実とまったく同じだった。力を入れれば指先まではっきりと動かせる。開けるために力を込めれば、指先には痛みが走った。

 夢ではない。しかし、現実でもない。

 ここはなんだ?

「ここは」

 練の疑問に答えるように、少女の声が廊下に響いた。

「現実でも、夢でもない世界よ」

 練は声の方を振り向いた。廊下に立っていたのは――長い銀髪の少女。

 記憶の中から完全に抜け出てしまった、たった一人の女の子、イブキ。

 学校では、明らかに異質な存在。銀色に光る長髪に、赤い両目。

 でも、その姿は、この異世界の中では自然だった。

まるでこの世界の一部であるかように。

「どういうことなんだ?」

「言った通りよ。ここはもう、普通の人間の世界ではないわ」

 イブキはかつかつと靴音を鳴らして練の元へ歩いてやってくる。

「どうやら、あなたの記憶の中に、この場所へのループが仕掛けられていたみたいね。朝から様子が変だったから、気になってはいたけれど」

「意味がわからない。ループ? それがここにいる原因なのか?」

 話したことはないが、知り合いに出会えた安心と、未知の言葉に対する不安が入り交じる。ここはどこなのか、俺はどうなるのか、お前は何者なのか。焦る気持ちを僅かに抑えながら、練はイブキに問うと、イブキは表情を変えずに答えた。

「あたなの言う通りよ。ここは私達の言葉で《デジャブ空間》と呼んでいる場所。残念だけど、一回ここに迷い込んでしまったら、出る方法はほとんどないわ」

「なんだって? デジャブ?」

「そう。デジャブ。ここは宇宙生物の一種が作る巣の中、のようなもの」

「う、宇宙、生物だって!?」

 突然現れたのは、突拍子もない単語。

 宇宙生物。古来より宇宙の生き物はなぜかこの地球にやってきて、地球人を大量に虐殺し、侵略しようとしたり、資源を奪おうとしたり、UFOを使って地球観光してみたりする、あの存在のことだろうか。

 まさか、そんな馬鹿なことが……練は途端にイブキの言うことが信じられなくなった。これからSF小説顔負けの突飛な発想が展開されると思うと、混乱している頭がついにビッグバンを引き起こすかもしれない。

 訝しげな目を向ける練に、その赤い瞳がじっと睨みつける。

「嘘ではないの。証拠として足りるか分からないけど、あなたの記憶を消したのは、この私。それを説明すれば、分かってくれることと思うわ。それに、認めても認めなくても、あなた一人ではここから出ることはできないわ」

 イブキは練の目の前までやってくると、その顔を上げた。透き通る真っ白な肌に、血のように真っ赤な瞳が、じっと練の顔を見つめる。

 イブキは練が思ったよりもずっと小さかった。そして、近くにくれば来るほど浮世離れした雰囲気が伝わってくる。それを一番に伝えてくるのは怪物じみた銀色の長髪。

 ともかく、練には選択肢はなさそうだった。イブキの話を聞く、という選択以外は。

「分かった……教えてくれ、ええと、イブキ、でいいんだよな?」

「ええ。でも、この前まであなたは私のことを《貝住》と呼んでいたわ。もしかして、私のことを思い出せないかしら」

「うっ、そ、そんな、ことは」

 否定したものの、練のその一言でイブキは全てを察したようだ。

「そう、覚えていないのね」

 嘘をついてもしょうがない。練は素直に自分の調べたことを伝えた。

「その通りだよ。お前の記憶だけ、すっぽりと抜けているんだ。今日気がついた。それだけじゃない。夕方ぐらいの記憶もないんだ」

「だとしたら、それは私の所為かもしれないわ。察知するのが遅かったわ……」

 イブキは絞るように目を閉じた。まるでこぼれ落ちる涙をこらえるように。実際には涙どころか目が潤むことすらもなかったが。

「ごめんなさい。きっと、驚いたでしょうね」

「いや、大丈夫だ。思ったより、冷静だ」

 練はそう答えたが、本心は全く違う。イブキの言っていることを最初は理解しようともしていなかったし、する必要もないと思っていた。しかし、練の中には忘れてしまっていた時間があり、そこにはイブキのことも含まれている。これは真実だ。

そして、イブキの言うことが正しければ、昨日の空白の時間に、イブキと出会っていることになる。そして彼女の言う宇宙生物とも。

「理解が早くて助かるわ。ともかく、ここを出る方法を早く探さなくてはいけない。話しながら行くわ。ついて来て」

 そういって踵を返すと、一人廊下の奥へ歩いていってしまった。練もその後を追う。

 廊下は紫色の太陽の光が侵食し、辺りを不気味に照らしている。その中を物怖じせずに進むイブキ。彼女は本当に人間なのだろうか? 練は疑問を口にしようとしたが、その前にイブキが口を開いた。

「私達はこの宇宙生物のことを《メモリアン》と呼んでいるわ。人の記憶を糧に生きる生物よ」

 記憶――メモリーと、宇宙人、異星人を差すエイリアンを組み合わせた造語だと言う。

「メモリアンねえ……それより、私達ってことは、まだイブキみたいなのがいるのか?」

「ええ。でも多くはないわ。ほんのごく一部。メモリアンの捕食から逃れることのできた人と、さらに特殊な人だけ」

 メモリアンは、人の記憶を食らうことでしか生きられない。形を持たない彼らが生きるためには、形はないが意味があるものを食らう必要があった。様々な物質、生物を選定した結果《人間の脳に収納された記憶》を食事対象に選んだ。

 ――ますます訳が分からなくなってくる。唐突にそんなことを話されても、理解しろという方が無理だ。

と、否定できればどれだけ楽だったか。すでに練はメモリアンの巣におり、そいつが捕食しようとしているのは他ならぬ練自身だった。

「一人きりで逃げ切るのはほとんど無理。でも、運良く生き残ることができるものもいる。それが私達。メモリアンの中にも、いろいろな種類が居て、人の記憶を自分の本能の赴くまま捕食する者と、捕食するのではなく、共存することで人と共に生きている者とがいるの」

「共存……そんなことができるのか? 侵略が目的なんだろ?」

「それも、メモリアンによって考え方が違うわ。あなたをこの空間に誘い、私の記憶を奪おうとしたメモリアンは捕食者としての本能に従うもの。メモリアンの中にも、成長の度合いがあって、下位のメモリアンは、本能に忠実だけど、人の記憶を喰らい、成長した上位のメモリアンは、人の記憶を操ることができるようになったりする。上位のメモリアンなら人間世界の侵略も考えるだろうけど、あなたに襲いかかっているのは、それすらも考えられない下位のメモリアン。餌がそこにいるから襲っただけだと思う」

「そうか……じゃあ事故みたいなもの、ってことか」

 イブキが階段を降りていく。不気味な太陽の光は階段をも飲み込んでいる。確かに、こんな風景を見せられたら信じてしまいそうだ。

 ――しかし、そんな未知の存在に殺されかけているんだよな? 何で俺が?

 イブキにそれを聞こうとしたが、先にイブキのほうが口を開いた。

「メモリアンの中には、人と共存することを選んだ者もいると言ったわよね。私がこうして、デジャブ空間の中に居られるのは、それに干渉することのできるメモリアンと一緒にいるからよ」

 そうイブキが言うと、空中を何かがさまよい出た。それはイブキの頭の上をくるくると回った。

 小さな、真っ赤な金魚だ。

「私が死にかけた時に助けてくれたの。《ワルツ》と呼んでいる」

 金魚はそれに応じるようにふわりと浮上した。

「意思疎通は私との間でしかできないけど、力なら、ここを作り上げているものよりも強いから安心していいわ」

「強い……ねえ」

 ただの金魚が? 嫌な予感がした。

「さて、出口についたわ」

 イブキが立ち止まったのは昇降口だった。下駄箱が並び、汚れた靴が辺りに散乱している見慣れた昇降口。しかし、その扉は固く閉ざされている。これでは下校することが出来ない。

「メモリアンのエネルギーは、人の記憶、それも、本人が大事にしている記憶ほど、彼らは美味しいと感じる。だからメモリアンはむさぼり食う。人の記憶を」

 ざわざわと、耳を微弱に振動させる音。一体どこから?

 練は耳を済ませ、目を皿のようにして周りを見渡した。

 そして、気がついてしまった。下駄履の中に何かがいる。それも一つじゃない!

「あなたを罠に掛けた張本人よ。昨日倒したと思ったけど、もう一匹いたのね」

 下駄箱の中からぬっと、黒い影が現れ出た。それはまるで、犬の口のような牙を生やした化物。それが、無数の下駄箱の穴の中から、まるで蜂の子のようにぬるぬると沢山顔を覗かせ始めた。

 不気味な光景だ。いろんなホラー映画があるが、そのどれよりも恐ろしい。

 それは当然だ。フィクションとノンフィクションじゃ、差がありすぎる。

 ぬめぬめとした黒い体から、真っ白な液体が滴り落ちる。それは唾だ。ごちそうを前にして垂涎するのは動物の本能だ。奴らは、人間というごちそうを前に、よだれを垂らしている――そう思うと、練の背筋の悪寒は今までで一番強烈に反応した。

 殺される。

「レンくん。動かないで」

 イブキに名を呼ばれて、練の錯乱しかけていた心に正気が戻った。

「下位のメモリアンに話し合いは通じない。だから私達は、メモリアンを倒す」

 その声には強弱がほとんどなかった。イブキの言葉はそうだった。心を量らせないような、冷淡すぎず、心を込めすぎないその口調。それが練には、少し怖かった。

 しかし、練の錯乱を止めた時の声は、少しだけ違かった……ような気がした。

 六本足の、成犬ほどの大きさを持つ生き物はざっと二十頭。さらに、下駄箱の中にはまだ出てきていない犬もいた。イブキはそれらを睨みながら、練の前に立った。

「行くわよ。ワルツ。力を貸して」

 イブキの声に反応するように、ワルツがくるりとイブキの手のひらを転がった。

 すると、金魚の体は爆発するように、一度バラバラになった。それは空中をぐるぐると回転しながら、一本の棒の形を創りだした。先端には、丸い形の刃物が付いている。

 どことなく虫取り網のようにも見えるその武器を、イブキは薙刀のように構える。

「下位でも上位でも、メモリアンは人の記憶の力を使うことで、このデジャブ空間の物体を変質させることが出来る。それはメモリアンにしかできない能力よ。だからこそ、メモリアンと戦うためには、メモリアンの協力が必要なの……あなたには何もできない。だから、下がっていて」

 犬はさらに十頭ぐらい増えていた。まだまだ増えそうだ。

「あなたの記憶を食べた所為かしら。随分とあなたのことを好いているみたい」

 機会を伺うように待機していた黒犬の一頭が練目掛けて飛びかかってきた。それを、イブキは虫取り網のような長柄の武器を振るい、それを断ち切った。

 少女とは思えないような鮮やかな太刀筋だった。練は思わず、その光景に釘付けになった。斬られた犬は真っ二つに切れて、床のタイルの上に散らばった。

 すると、頭がズキンと大きく痛んだ。練は思わず頭を支えた。

「う、くっ」

 唐突な痛みに片足の力が抜け、練はその場に跪いた。

「記憶を食べたメモリアンを倒せば、記憶は戻る。もっとも、完全に吸収されたら、もう戻らないけど……まだ間に合いそうね。全て倒せば、きっとあなたの記憶も戻る」

 一頭が跳びかかったのが合図になったのか、今度は二頭がイブキに向かって飛んだ。

 黒く細長い顔がぱっくりと二つに割れると、そこにはまるで剣山のような鋭く密集した歯が現れた。あんなものに噛まれたら、肉をまるごと持っていかれるだろう。

 しかし、イブキはそれには怖じなかった。くるりと武器を回すと、一度に二匹の体を切り裂いた。まるで人の技とは思えない速さ。練にはその太刀筋を見極めることが出来なかった。

 イブキは武器を構え直すと、今度は群れに向かって横一閃を浴びせた。輪の形をした刃は阻むものを知らず、一瞬のうちに黒犬が黒い塊へと帰っていった。

 だが、黒い犬は下駄箱の中からまだ這い出してくる。べちゃべちゃという音がさらに激しくなる。まるで巣を壊されて慌てふためくアリのようだ。

「このメモリアンはまだ子供……くるわ」

「来るって、一体な――」

 言い終えるよりも早くそれは現れた。昇降口の扉を突き破り、ガラスを辺りに撒き散らしながら、巨大な口が二人に向かって伸びてきた。

「危ない!」

 イブキは武器を放り投げ、練の体を突き飛ばした。思ったよりも強いその力に練の体は廊下へと投げ出された。真っ黒なその口は下駄箱を貫通し、階段の奥までぐんと伸びた。もう少し遅ければ、二人共あの口の中に入っていただろう。その巨大さは、二人を食ったとしても満足しそうにないほどだった。

「ま、まじかよ……でかいな……」

 恐竜の動物園にでも迷い込んだ気分。だが相手は本物の殺意を持った生き物。スクリーンという檻の中から出られない恐竜たちを鑑賞しているのではなく、サバンナのど真ん中で、腹を空かせたライオンと相対しているのと同じだ。そこにはドキドキもなければワクワクもない。恐怖で足が竦み、すぐに立ち上がることも出来なかった。

「立って! 子供が来るわ!」

 かちかちという足の爪の音が廊下に響いてくる。巨大な口がぬっと昇降口に戻っていく間に、黒い犬がこちらに向かってきていた。

「さっきのでかいのが、こいつらの親ってわけか……くそっ!」

 死にたくはなかった。震える体をなんとか持ち上げ、イブキの後ろに下がった。

「あんなやつ、どうすればいいんだよ!」

「落ち着いて。言ったはずよ。彼らは下位のメモリアン。勝機は十分にある」

 イブキの頭の上には金魚のワルツがいつの間にか戻ってきていた。そして再び、金魚の形は、虫取り網に似た武器に変わった。

「じゅぐじゃらぐじゃあ!」

 鳴き声、というよりはまるでうがいをしているような音だった。口の中から大量のよだれを滴らせながら、三頭の犬が襲いかかってきた。

「ふんっ!」

 円形の刃が犬の頭を切り裂く。イブキの強さは黒い犬たちにも伝わったのか、やられた犬の死骸より先に進もうとしない。

 あくまで奴らの狙いは練のようだ。

 もし、イブキが居なかったら、今頃俺は……練はそう思って戦慄した。

 こんな状況にあるとは知らず、もし昇降口の扉に手を掛けていたら、あの巨大な大口の中に放り込まれて死んでいただろう。しかし、この状況は果たして優勢なのか。多勢に無勢。群れる相手にたった一人で挑むイブキの背中に聞いた。

「お、俺にも何か手伝えないのか?」

 練は思い切ってそう言ったが、イブキは敵のほうに顔を向けたまま答える。

「何を言っているの? そんなのは無理」

「でも、これは俺の問題だろ? 俺自身で解決したい。方法はないのか?」

 スポーツは得意というわけでもないが不得意でもない。中学時代はバスケットボールをやっていたこともあり、体力には自身がある。ただそれは中学まで、高校に入ってからは体育の授業くらいでしか体を動かしていなかった。

 それでも、イブキが戦うよりはずっと力を発揮できると思っていた。練の自身に満ちた発言に、イブキは何の逡巡もなく答えた。

「ないわ」

 ばっさりと一言で練の提案は退けられた。

「で、でも! 男の俺が戦ったほうが――」

「大きな声を出しては駄目!」

 イブキは小さな声で、しかし怒りを顕にして言った。それを聞き終えるより早く、黒い犬の一匹が飛びかかってきた。イブキはなんということもなくそれを切り裂く。

「敵を無駄に刺激するだけだわ。あなたにできることは黙って私の後ろにいることだけ」

「くっ……」

 犬を刺激したのか、一度は様子を伺っていた群れが一斉に飛びかかってきた。

「面倒ね、一掃するわ」

 虫取り網の円を頭上に掲げると、それで空を薙ぎ払った。しかし刃のほうではなく、刀身でのほうで払った。それでは、敵を切ることは出来ない。

 だが、イブキが敵を切ったのではなかった。

 輪っかの中から、色とりどりに光る球体が無数に現れた。それはさながら、シャボン玉のようだった。そう思えば、イブキの持っている虫取り網のような武器も、シャボン玉を作るための、大きな《枠》のようにも見えるのだった。

 現れたシャボン玉には頓着せずに進み出る黒い犬達。しかし、イブキはただ遊びでシャボン玉を浮かべたわけではなかった。一瞬、燃えるような閃光と共に、黒い犬の群れが爆発を起こした。

「くっ、す、すげえ……」

 空間の熱が一気に上がったのが肌に伝わってきた。目を見張るような大爆発。日常生活でおおよそ見ることのできる火を圧倒的に凌駕したそれは、練に衝撃を与えるのに十分だった。炸裂と同時に走る激痛。頭に電気が走るような衝撃。怪物の殆どがシャボン玉の攻撃で消し飛んだことを意味していた。練の中に記憶が戻ってきた証拠だ。

「来わね、レンくん、端に寄って!」

「あ、くっ……分かった」

 痛みにこらえながら、教室側の壁に飛び退いた。正面は爆風の影響によって生じた煙でなにも見えない。煙の中を見極めようとしたが瞬間、何かが廊下を猛スピードで通り過ぎていった。

 何が起こったのか練には分からなかった。だがその痕跡は廊下の床にはっきりと残っていた。真っ黒な液体。どろどろとした血液のようなそれは、廊下の奥までずっと続いている。そこにある足跡は、子供の体よりもずっと大きかった。

「どうやら、あと一匹みたいね。でも、油断しないで」

 廊下の奥の暗闇から、それが顔を覗かせる。

 黒い犬たちの親というに相応しい恐竜のような顎、八本の足を無数の穴が開いた背中を持つ怪物。地球には、こんな生物は存在しない。それはまさに、エイリアン……。

「なんだよあいつ……完全にバケモンだ」

「あれが記憶を食べて生きるメモリアン。あなたをここに呼び出し、喰らおうとしたのも彼女の仕業よ」

「彼女ってことは、メモリアンってのにも性別があるのか?」

「いいえ。メモリアンに性別はないわ。便宜的にそう区別しているだけ。メモリアンにも、子供を増やすタイプや、単独で生活するもの、個体が分裂するものなどがいるの。厄介なのは私達が戦っている子を作るタイプ。あなたの記憶を食べ終えれば、きっとこの子供たちが解き放たれ、この近くにいる生徒を餌にする」

 怪物の背中の穴から、小さな黒い犬が這い出てきた。どろどろとした液体は母親が子供を出産する時に排出する羊水のようにも見えた。

「まじかよ。そんな奴が、本当にいるのか? 映画の話じゃ、ないんだよな?」

「食べられてみれば分かるわよ。どうする?」

 真面目な顔でイブキが言う。

「冗談はやめてくれ……」

 ちっとも笑えなかった練は、顔を引きつらせながらもそう答えた。

 べちゃべちゃと、次から次へと子供を生み出す怪物。せっかく減らしたのに、これではきりがない。

「しょうがないわ。もし襲ってきたら、自分でなんとかして」

「えっ?」

 イブキが怪物のほうへ歩み寄る。その目線は、母親に追従する子を見ていなかった。怪物の親でもある、巨大な化け物だけにその敵意を研ぎ澄ませていた。

「さっき一緒に戦いたいって言ったじゃない。あれは嘘?」

 子供達の視線の先にイブキはない。彼らの目的はあくまで練を食べること、それだけ。

「お、囮になれってことか? でも、俺は――」

「じゃあ、行くわよ」

 練の話を聞き終えぬうちにイブキは敵前へと飛び込んだ。突撃するイブキに驚きながらも犬の子供たちが迎撃しようとするが、イブキがそれを無視して進むと、子供たちは戸惑いながらも勢いそのまま、練の元へと駆けて来た。

「本当に来やがった!」

 幾ら生まれたばかりの子犬でも、その足取りはしっかりとしている。口をぱっくりと開けると、すでに歯がびっしりと生えていた。どうやら人間とは生育スピードが違うらしい。地球上の生物とは明らかに異質。まさに地球外生物だ。

 犬の一匹が練に向かって飛びかかってきた。こうなればしょうがない! 練は自分を励ましながら、その拳を固め、向かってくる犬に向かって右フックを食らわせた。

 運がいいことに、その拳は濡れそぼった鼻のような器官を捉えた。もんどり打って苦しむ犬に、残った二頭の犬が立ち止まった。

 拳に残るのは、ぐじゃぐじゃとした感覚。硬いというよりは肉の塊といった感じで、気持ち悪さと不気味な感触が体液と共に残った。

 ホッとしたのもつかの間、犬の一匹がぐるぐると涎を含んだ唸り声を漏らした。かなり練を警戒している。今にも飛びかかってきそうだった。

「素手でこいつらを倒せるのか?」

練が躊躇っている間にも一匹の犬が飛びかかってきた。それを反射的に右足で蹴り飛ばすが、その横からもう一匹の獣が、左腕に向かって噛み付いてきた。痛みに悶えている暇はなかった。先ほど追い払ったように、鼻先を思い切り殴りつけると、顎の力は緩み、練の腕から離れた。しかし、腕の傷は練が感じたことのないような激痛が走った。

「く、くそっ……痛い、夢じゃ、ないよな。やっぱり」

 その時、イブキの戦う方向からすごい爆発が巻き起こった。あのシャボン玉の攻撃をまた放ったのだ。熱風が廊下を突き抜けていった。

「イブキ!」

 爆風の中をじっと見つめた。そこには深手を負った巨大な獣に止めを刺そうとしているイブキの姿があった。円形の刃がついたその武器を高く振りかざすと、薙刀で切るように、上段から振り下ろした。顔面が横ではなく縦に裂けた。四つに分かれて裂けたその口から、大量の黒い液体が吹き出し、廊下を染め上げたが、イブキにその飛沫が掛かることはなかった。イブキに向けられる液体は、空中で白い光に還元され、消えていく。

巨獣の体はもう動かなかった。そして、練を取り囲んでいた犬の群れも消えていた。

「どうかしら、これでもう、戦いたいなんて言わないでしょう?」

 銀色の髪を揺らしながら歩いてくるイブキ。自分の体の数倍も大きな異星人を平然と倒してしまう彼女に、練は小さな恐怖を抱いた。

 そんなことは練には出来ない。いや、練だけではない。普通の人間にはできないことだ。人間にできないことをやってのけるイブキは、人と呼べるのか?

「メモリアン……信じられねえよ、あんなの。でも、本当にいるんだよな……?」

「信じられないかもしれないけど、これは事実よ。それと、あなたの記憶は、じきに元に戻るはずよ。怪我した腕を見せて」

 イブキがぎゅっと練の腕を掴む。その腕は他の女の子と同じく、細くて白い腕だった。とてもじゃないが、怪物を倒すために鍛えたようには見えない。

 練は学ランを二の腕まで押し上げ、噛みつかれた腕の傷を見た。確かに傷ついているし、痛みだって感じる。血はまだ固まらず吹き出し続けている。

「このデジャブ空間で負った傷は、放っておけば現実世界にも影響を与えるわ。だけど、ここでなら簡単に治せる。ここは記憶の空間、記憶を消費すれば、あなたの記憶の中の傷を癒すことができるわ。じっとしていて」

 イブキは血まみれの腕に自分の手を重ねた。すると、練の腕に伝わっていた痛みが次第に和らいでいくのを感じた。気が付くともう痛みは完全に消えていた。イブキが手を離すと、傷は完全に消えていた。残っていた血の塊は、白い光の綿になって、空中へと飛んでいった。

「これで大丈夫よ。さあ、ここから出ましょう」

 イブキは一人で廊下を歩き始めた。黒い液体も、白い綿となって空中で消えていく。練はイブキの後をつけるように歩いた。

「なあ、イブキ。いつもこんなことをやっているのか?」

「そうよ」

「なんのために?」

「……そんなのは、あなたの知るべきことではないわ。それに、帰ったらあなたの記憶を消去するわ。メモリアンに関する全てを。でも安心して。図書室や帰宅時の記憶は戻っているはずよ」

 下駄箱の周りの死体はすでに消え去っていたが、怪物の残した傷跡は消えずに残っていた。

こんな衝撃的な事実を忘れることなんてできるだろうか。忘れていいのだろうか。

「どうしたの?」

 練の心中を悟ったのか、イブキは立ち止まって練を見た。

「いや……その、忘れなきゃ駄目か? やっぱり」

「当たり前でしょう。あなたは殺されかけたのよ。それに、メモリアンという、普通の人が出会わないものに出会ってしまった。それは私の所為でもあるわ。私がメモリアンの痕跡を残した所為……あなたを日常に戻すのが、私の仕事」

「でも、そうしたら、イブキはどうするんだ? あいつらに殺される可能性もあるんだろ? お前に、味方はいるのか?」

「そんなのいないわ。この町には、私だけよ」

「町で一人……それじゃ、大変じゃないか」

「そう。大変なの。だからこれ以上、私の手間を取らせないで」

「…………」

 そう言われてしまうと、練はもう何も言えなかった。

「外に出たら記憶の整理をするから、もう少し時間が掛かるわ。急ぎの用事は?」

「いや、ない」

「そう。では、デジャブ空間から出るわ。安心して。図書室の前に戻るわ」

 イブキはそう言って半壊した昇降口の扉を開いた。中からは強い閃光が照らす。

「先に入って」

「……分かった」

 イブキの言う通り、練は昇降口をくぐった。

 本来であれば、外へと抜けるはず。

 だが、目の前に広がったのは、夕焼けの映る窓の前だった。

 そして、そこには練を待つ人影があった。

「おかえり」

燃えるような夕焼けに……その影が照らされた。真っ白な流れは朱色に染まり、まるで幼い頃に見上げた遠いあの日々を思い出させるような淡い色を映し出していた。

 ――長い髪の少女。その姿は、どこかで見たことがあるような。

 今度ははっきりと思い出せた。一度頭の中から消えた空白の時間に答えはあった。

「イブキ……やっぱり、夢じゃ、ないんだな」

「その通りよ。ちなみに、あなたが向こうに行ってから、こっちの時間はまだ三分ぐらいしか経っていないわ。それまでの間、あなたは無意識のうちにこの廊下を歩き回っていたのよ」

 イブキはそういうと歩き出した。

「ついて来て。あなたの記憶を整理するわ。空いた教室を使うわ」

「やっぱり消さなきゃいけないのか?」

「当たり前でしょ」

 イブキの後についていく。一年生の教室に到着すると部屋の中を見回し、誰もいないことを確認すると適当な席に座った。練もイブキの前に座った。

「どう? 私の記憶は戻ってきたかしら」

「ええと……ちょっと待ってくれ」

 空白の三時間のことを思い出そうとする。昨日の図書室での出来事。

 ――そうだ。確かに俺はどの小説を借りるかで迷っていた。その時花園に出会って、おすすめの小説を選ぶことにした。できれば分かりやすい奴というリクエストに花園は例の「箱の中の時計」を勧めた。そして、本を借りると――図書室を出て、そのまま何事もなかったかのように家路へとつき、夕食を終えて寝た。

「それであっているでしょうね。でも、あなたが図書室に出た後、私が消した記憶もあるわ。メモリアンに関することは消したけど、辻褄を合わせるために、図書室の前で私に出会ったことになっているわ。一時的に昨日の戦いの記憶を戻すわ」

 それは、練がデジャブ空間に引きずり込まれた時間。イブキはあの黒い犬と昨日も戦いを繰り広げた。そして、イブキは戦いが終わると、今日のように空いた教室に導き、メモリアンに関する記憶を消去した。

 ――これで、失われた記憶は綺麗につながった。

 そして、イブキが一年生の時からいることも思い出した。しかし、数えるほどしか話したことがなかった。覚えていることなんてないと言ってもおかしくないくらいだったが、「クラスに居た」ということを思い出せただけでも大きかった。

「そう。ちゃんと思い出せてよかったわね。でも、昨日の記憶と、今日の記憶は消させて貰うわ。あなたが明日から、普通の人間として生きていくために」

 ――しかし、気になっていることが一つあった。

「ちょっと、ちょっと待ってくれ」

 それは、記憶を取り戻した今でも、イブキに共通していること。

 怪物を倒したのに、変わっていない記憶。

 しかし確かに間違っている記憶。


「イブキ。お前の髪、なんで白いんだ?」


 その言葉を聞いたイブキは、怪物と対峙した時にも見せなかった動揺を露わにした。


次話投稿などの情報はホームページやTwitterなどから行なっていく予定です!

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