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何か大事な場面で、ベストなタイミングというものがあるけれど。前世から数えても、いつも機会を見誤っている気がする。例えば、弟と幼馴染みが密室でコソコソ話してるのを覗いてしまった時だとか、時間がある時に限って面倒な不良グループとうっかり鉢合わせをした時だとか。今生でも、それは定期的にやってくる。
人生は長い。それゆえに、生きていればドキドキハラハラするような冒険をする時もあるだろう……なんて、前世ではよくアクション映画の煽りで見かけたけれど。なにも、全員が全員そのような体験をしたいと思っている訳じゃない。
前世での二十年間と今生の十四年間を足して三十四年も生きている僕が言うのだから間違いない。
何事も、平穏が一番!……なんだけどなぁ。
ああ、早くこの一件が終われば良いのに。なんて、思ってしまうのは罪だろうか。いや、でも今はネネ先生の為に動いているのだから、女神様はお許しになってくれたり……はしないんだろうなぁ。
そんな事を考えていたら、スローレン様が先ほどお出ししたお茶を持って、アーリラ様の隣りの席に座った。
「アーリラ殿、先ほどの指導要領についての貴殿の意見をお聞かせ願いたい」
「……分かりました」
昨日、リーンハルト先輩に、ネネ先生を取引きの席に着かせるように言われたけれど、僕はまだ命令を実行に移さず、ネネ先生の頼みを先に済ませる事にした。いや、正確にはネネ先生が大胆にも今日の午前中の休憩を使って、確認作業を行っている最中か。
どっちにしたって、僕もこのままでは動けないという思いもあって。
もし、先に女神様の聖遺物が本物じゃなかったら、話し合いの場なんて作らなくて済むんじゃないかな、なんていうのは僕に都合が良すぎるだろうか。
それに、そうだった場合、ネネ先生だったら交渉を止めてくれるかもしれないし。……僕は高望みし過ぎてるかな?まあ、僕の希望は置いといて。
作戦は、速やかに行われた。
部屋に書類を忘れたというネネ先生に付き添ってフェルメールが見張り役として一緒に同行する。残るスローレン様は念のためにアーリラ様の足止め。僕は、休憩中の先生方に給仕をしながら、全体を見ておくという役目を仰せつかったという訳だ。
初めは、僕を見張り役にという事だったけど、そこはフェルメールが強く反対をしてきたので代わりにフェルメールがついて行くことになったのだ。多分、責任感が強い彼の事だから、少しでも僕を一人にしたくはなかったんだろうなと思う。ちょっとぐらいなら大丈夫なのに、この約一年間に何度か襲われた事を気にかけてるに違いない。
だけど、守ってくれるのはありがたいけど、あまりにも大切にされ過ぎてて恥ずかしいのも事実で。こういう気遣いは、好きな子にすべきだと思うんだけどな。いや、いるのか訊いた事はないけどね。
きっと、コルネリオ様からの指示でもあるんだろうけど……二人して過保護過ぎやしないかな?
内心で息を吐きつつ、部屋から出て行く人間はいないかさり気なくチェックする。視察が今日と明日の午前中で終わってしまうという事で、名残惜しいのか大半の視察団の方はコルネリオ様との談笑に勤しみ、後はまばらにそれぞれの時間を過ごしているというのが専らだ。
ネネ先生からの依頼は、間違いなくフェルメールからコルネリオ様へと報告がいっていると考えても良いだろう。フェルメールにとって、それが仕事なわけだし。僕も定期的に父上には報告をしているから、コルネリオ様から父上の方に報告がいっても、辻褄は合っているはずだ。
ただ、どちらにも僕が今現在リーンハルト先輩から脅迫を受けている事は知らせていないから、問題が起きるとすれば今日の夕方になるだろう。
――僕がクルサード側についていると知られると共に。
せめて、それまではギリギリまで足掻きたい。なんて思うのは、僕の最低な我が儘だ。
「エーヴェリー君、ちょっと緊急事態かも」
「えっ?」
一通りお茶を淹れ直した所で、補佐役の同級生がコソッと耳打ちをしてきたので目だけで先を促した。いくらまだ十四歳でただの補佐役といっても、僕たちは一貴族として何事にも取り乱さないよう教育を受けている。
「えっとね、後半から使う資料の確認をしたら一枚だけ抜けているみたいで」
「けれど、昨日纏めている時には確かにありましたよね?」
「特務会室の隣りにある準備室に置き忘れてしまったのかもしれません」
そこで、もう少し彼に詳しく確認すれば良かったと思ったのも後の祭り。
その時は、自分がどうにかしなければなんて思ってしまったのだから僕の失態といえるだろう。
「分かりました、では確認してきます」
「すいません、宜しくお願いします」
急いで行けば、直ぐに帰ってこられるだろうとこの時は思ってたから。視界に映るスローレン様と目配せでこの場を頼み、何事もないかのように部屋を後にする。
リーンハルト先輩が、ずっと僕の動向を見ていたとも知らず。
「どうして、置き忘れなんて」
同級生の言う通り、足りなかったプリントは準備室の机の上に置いてあった。
昨日、三人で揃えたはずなのに、と目の前のプリントを今一度確認してみる。
……やっぱり、これは今日の会議で使う資料だ。
これを、今朝取りにきたのは確か同級生で一部だけ残して持っていくなんて事は、普通はしないはずなのに。
――だったら、どうして?
その答えを考える前に、カタリと入り口で音がしたので振り返る。
「フェルメールはどこですか?」
「……僕が知っているとでも?」
その突然の問いに、すんなりと嘘を言えた僕を誇りに思う。準備室の入り口から顔を覗かせたのは、当然ながらリーンハルト先輩だった。
ここまできたら、もうさすがとしか言い様がない。
僕と話をするために、わざわざこんな小細工を仕掛けたんだろう。なにせ、彼はリーンハルト先輩の補佐役で参加している訳だから。言葉巧みにわざと書類を置いてこさせておけば、後は僕を誘導するなんて容易い。
知略に長けた先輩の事だから、多分、フェルメールがネネ先生側に付いているのは予想しているはずだろうし。
けれど。
僕が、聖ヴィルフ国側とも精通しているとは思っていない……いや、可能性は考えているだろうけど、まだ確信は持てていない。
そんな気がする。
だから、ここは敢えてとぼけて流すしかない。
「君は、フェルの補佐役ですからね」
「補佐役でも、あの人の行動を逐一監視している訳じゃありませんよ。それに、確かフェルメールさんはネネ先生に付き添っているだけの話ですよね?」
あくまでも、僕は知らないという呈を前面に出してみる。それで簡単に騙されてくれたらどれだけ楽か。
「資料を持って行かなくちゃいけないので、そこを退いて頂いても?」
そう言って、何食わぬ顔でプリントを持って、未だに入り口から動かない先輩の近くまで歩けば。
「っふふ」
先輩からすれば、僕に苛立ちを抱いているだろうに、何故かクスクスと笑い出した。
「……何か?」
「実は、その資料なのですが、そこにあるのは多く刷ってしまったもので、ちゃんとあちらにあったんですよ。私の気のせいだったと、ここへ来る前に彼にもそのように伝えてあります。君があまりにも虚勢を張るものだから、つい苛めてしまいました」
「えっ?」
それは、あまりにも不意打ち過ぎた。なので、思いっきり顰め面になってしまったけど、僕は絶対に悪くない。それに、こんな小細工をしてまで僕を問い詰めたかったはずなのに、あっさり手の内を晒した事に驚きを隠せないでいた。
「君が裏切っていないか、心配だったので」
「……だからと言って、度が過ぎます」
全く、この人は何を考えているんだか。
口元にはいつもの優しげな笑みを浮かべたままなのに、その瞳はどこか冷たい。
――まだ僕を怪しんでいるという事か。
不要だと分かったプリントの束を置いて、怒りを抑えるため静かに息を吐き出した。
落ち着け、何とかこの場を乗り切ったら。
振り返れば、未だ僕を逃がさないようにするために扉から動かず、リーンハルト先輩が銅貨色の髪を耳に掛けている。その余裕ぶりに辟易してしまう。
もうここに用はないから、自ずとリーンハルト先輩の傍まで近づけば、間近の笑みはいつの間にかあの時と同じ背筋から凍るような冷たい微笑みへと変化していた。
「そりゃあ、疑いたくもなりますよ。何せ、君とフェルはルームメイトなんですから。いつでも相談出来る立場にいるのですから」
その微妙な変化に気が付きながらも、やはり自然と反抗心は芽生えるもので。
……は?いつでも相談だって?
「僕が、アーリラ様と貴方についたのは、誰が原因だと!人を襲っておいて、よくもそんな事が言えたものですね!」
前世だったら、その場の勢いで技を仕掛けていただろう。そこまではらわたが煮えくりかえっていたはずなのに、突然、廊下側から現れた手がリーンハルト先輩の胸ぐらを勢いよく掴んだのを見て息を飲んだ。
「ってめ、イオに手を出したのか!」
どうして、フェルメールがこんな所に?と驚く僕の目の前で、フェルメールは怒りを隠すことなくリーンハルト先輩をそのまま壁に打ちつける。
「……っ、ふふっ、そこですか?」
「ああ?」
「お前が、その部分にしか……ケホッ、反応を見せないのなら、この勝負は私の勝ちかな」
……何を言って?
――――勝負?
先輩は、フェルメールになにかしら勝負を挑んでいたということ?
――どういう事なの?
何がどうなっているのか全く分からない。ついていけない……けど、とにかく今はフェルメールを抑えなくちゃ、と手を出す前に、リーンハルト先輩の言葉によって、フェルメールはまだ顔が険しくともその手を緩めていた。
「お前……」
「コホッ、私よりも、先に話を聞くべき者がいるのでは?」
胸ぐらを掴まれていた息苦しさから解放された先輩の視線が、こちらに向いているのが痛いぐらい分かってしまう。
――ああ。
二人の関係などよりも、ここにフェルメールがいるという事実が、
その事実が、何を意味しているのか分からない僕ではない。
例え、リーンハルト先輩に促されなくても、フェルメールは、きっと、こんな風に真剣な顔で僕を見ていたに違いない。
「クルサードとも繋がっていたのか」
本当は、知られたくなかった。
僕が、フェルメールを裏切っていたなんて、知られたくなかったのに。
「…………はい」
泣いちゃ駄目だ。
例え、リーンハルト先輩に脅迫されてなし崩しでクルサードについているのだとしても。
受け入れたのは、僕なんだから。
「そうか」
だから、フェルメールが少し顔を歪めて泣きそうになっていても、僕は絶対に泣いてはいけない。
だけど、心の中でだけはせめて謝らせてほしいと願った。
――ごめんなさい。ごめんなさい、フェルメール。
絶対に、僕は許しを求める事はしないよ。
――それしか、償える方法が見つからないんだ。
先に、目を逸らしたのはフェルメールの方だった。
僕を殴って罵倒しても良いだろうに、フェルメールは顔ごと逸らして、そのヘーゼルブラウンの髪をくしゃりと握る。その胸中は計り知れず、僕はなんと言えば良いのか分からなくて俯くしかなかった。
少しだけ間を置いて――
次にフェルメールが視線を向けたのは、僕ではなくリーンハルト先輩だった。
「んで。お前は、何がしたいんだよ?」
「それなら、もう見当はついているのでしょう?」
「……っ、そうまでして何を企んでんだ」
「ふふっ。それは、秘密です」
僕には、目の前で飛び交う会話の内容が全く理解出来てないけど、二人はちゃんと通じ合っているらしい。それを、さすがだと素直に思えたらどれだけ幸せな事だろう。
どちらもまだ何かを隠し持っているようで、腹の探り合いにしか思えないけど。
「……はあ、俺の負けだ。お前の言う通りにしてやるよ」
それが、途中から諦めたようにフェルメールがため息交じりに呟いたので、リーンハルト先輩の目が僅かに見開かれた。
「ああ?何、驚いてんだよ」
「え、……いや。まさか、正直お前がそこまで本気だったとは、思いもしていませんでしたから。こんなにあっさりと降伏するだなんて」
「んだよ?人質とっておいて、何言ってんだか」
え?ちょっと、待って。人質って、もしかして僕のこと?
「そりゃあ、殴り飛ばされるのは覚悟の上でしたけど」
「いや、それは後でする気満々だけどな」
言いながら、フェルメールが己の左手を拳にして見せつける。その表情は、清々しいほどに満面の笑みだった。
うわぁ。これって、相当怒ってるって事だよね。
僕が脅迫を受けていた部分に対して怒りを感じているんだろう。
「フェルメールさんのお気持ちは嬉しいんですけど、僕も悪かったので先輩に暴力をふるうのは止めて下さい」
「お前は悪くねぇだろうが!」
「……っですが、最終的に受け入れたのは僕ですし」
「……ッチ」
ええ?舌打ちまでする?どれだけ、荒ぶっているんだか。
脅しに屈してしまったのは僕だから、フェルメールが憤りを覚えることはないだろうに。
初めてフェルメールに会った時は、腹の底が読めなくて性格的に僕とは合いそうにないなんて思っていたのに、いつの間にか僕たち双子にとって心強い味方だって思えるようになっていた。あのアルのアグレッシブさに付き合えるぐらいにタフな人で。そして、時々セクハラまがいの冗談を飛ばすけれど、真剣な時は同性から見てもかっこよく見える人。
そんなフェルメールだからこそ、これ以上心配はかけさせたくない。
「……フェ」
「っ前は、それで良いのかよ?」
「え?」
「お前は、それで良いのかって聞いたんだ!」
そんな事、言われても。
「……まあ、されてしまったものはもう取り戻せないので」
ここで少しだけ遠い目をしてしまったのは、致し方ないだろう。キスだって脅迫だって、あの時の僕にはどうする事も出来なかったんだし。
それにしても、ここまで気に掛けてくれるなんてフェルメールは優しいなぁ、と僕よりも何十倍も傷つけられたような顔をしている人を見ていると、もう一人の先輩が何故か口元を手で覆い隠しながら肩を上下に震わせていた。
「……なに笑ってんだよ」
僕同様に、その事に気付いたフェルメールが低い声音で殺気立つ。
ですよねー?笑ってるよね?うーん、……謎。
「い、いえ。それよりも、レベッカ・ネネ先生はどちらに?」
「ああ、聖ヴィルフ国が発行してる教育法の参考資料を確認したかったみたいで、それを探しに戻ってるよ。俺も一緒に行ってみたけど、他人様の部屋にゃあ勝手に上がりずれぇし、ましてや荷物を漁るのも悪いだろう?ってんで、引き返してきたって訳だ」
明らかにはぐらかされて、フェルメールは再び舌打ちをしながらも計画で考えた予定通りの言葉を返した。
「ほう」
フェルメールの言い分に別段おかしなところはないはずだ。それに、寮から会議室まで戻るのに、この特務会室付近を通るというルートも最短距離として合っている。
まさか、僕たちの会話をフェルメールが聞いてしまったとは思いもしていなかったけど。
そもそも、あんな扉付近に立っていれば、フェルメールの姿だって視認出来たはずじゃあ……って、あれ?
それって、もしかして。
あれは、フェルメールに聞かせるために、わざと僕をけしかけた――って事なの?
それは、どうして?――僕を脅迫しているという事がバレても、それで二国間の取引きをスムーズに進める事が出来るから、だ。
あの時、先輩に嫌というほど教えられたのは、アーリラ様とリーンハルト先輩は多少のリスクがあっても過程などどうでも良いと言える結果主義者であるということ。当然、そこに自分が僕を脅している事すら含まれているのだとすれば。
ああ、だから、フェルメールが『そうまでして、何を企んでいるんだ』って訊いたんだ。
腹の探り合いどころか、最終局面って言っても良さそう。
フェルメールは、あの時点で既にリーンハルト先輩の本質まで辿り着いてたんだ。こんな二人が『監督生』という看板を背負ってる事に恐れを抱いてしまう。ここは、ある意味グランヴァル学院より恐い所かもしれない。
と、同時に沸き立つ恐怖に耐えきれず、己の腕をさすって誤魔化す。
「寮にお戻りにねぇ。では、一緒に探した方がはかどるでしょうから、私もお手伝いをしに行きましょうか?」
「お前、何言ってんの?先生にだってプライベートがあんだから、俺は遠慮したって言ったよな?」
「フェルだと、何でも粗暴に扱いそうですからね」
「そりゃ、お前より適当かもしれねぇけどなって、違ぇよ!」
僕の怯えを察知した訳じゃないだろうけど、フェルメールはつい先程までの相手を射殺しそうな鋭い空気を霧散させて、いつも通りのノリと態度に戻った。
良かった、なんて思うのは悪い事なのかもしれないけど、内心ではホッとしている。
「それに、そろそろ休憩も終わるだろうし。ディートリッヒの野郎に任せておくのも不安だろうが」
「確かに、一理ありますね」
そこ、納得しちゃうんだ?ディートリッヒ先輩、どれだけ信用されてないの。
特務室の部屋に掲げてある時計を見て、リーンハルト先輩が大きくため息をはき出した。
「はあ。ここは、仕方ないので諦めます。あなた方が、何を企んでいるのか探ろうかと思っていたのですが」
う、……やっぱり。恐いですってば。
どこか黒い笑みを浮かべて探るような緑色の瞳で見つめられ、目を背けたくなったのは言うまでもない。
うん、だから頑張った。頑張りましたとも、ここは貴族のプライドにかけてね。
僕の行動で、これ以上バレてしまったら土下座以上の謝罪では済まなくなってしまうもの。切腹か?いやいや、この世界観なら斬首刑かな?考えたくない。考えたくない。大事なので、二回言った。
「フェルがいると、エーヴェリー君の反応が途端に面白くありませんね」
「……っ」
って、そっか。やっぱり、僕の失敗を待ってたんだ。ほんと、心臓にきたので止めて下さい。
喩えでいえば、蛇に睨まれたカエルの気分。しかも、その蛇は食事の前に嬲って甚振って弄り倒して愉しむ事が大好きときた。……あ、想像したらもっと恐くなってきちゃった。なんで想像したかな、僕!
どういう顔をすれば良いのか分からなくて困った僕を隠すように、フェルメールが間に入る。
「おいおい、止めてやれよ」
「さながら、可憐な姫を守る騎士のようですね」
「もう冗談はその辺でいいから。時間もあんまねぇんだから、さっさと決めようぜ。俺たちは、どうすりゃ良いんだ?」
……?いつもなら、ここで悪ノリして僕にごっこ遊びの一つでも提案をするだろうに。見た感じ、落ち着いたと思っていたけど、あまり余裕が無さそうだ。
まさかなぁと思うけど、それって――
「エーヴェリー君を守ることに必死ですね」
……やっぱり、そうだったんだ。
僕が気付くぐらいだから、先輩にだって気付かれて当然か。申し訳なく思う僕とは真逆に、リーンハルト先輩がクスクスと笑う。
「うるせぇ」
「まあ、良いでしょう。久しぶりに、お前の真剣な顔が見られただけでも可とします。時間は、午後七時。場所は、もう配慮しなくても良いので、……そうですね、今現在使用している会議室としましょうか」
「りょーかい」
「では、私は先に戻ります」
まるで、後はお二人でごゆっくりと、なんて言葉が続きそうな程鮮やかに微笑みながら、先輩は銅貨色の髪を風にたなびかせながら颯爽と出て行った。
「……」
室内の音がピタリと無くなる。
衣擦れする音でさえ躊躇わせるような、緊張感。
あんなサドっ気のあるリーンハルト先輩の毒舌すら必要としてしまうほど、僕にはこの空気がとても重く感じてしまう。
それは、ただ単に僕の罪の意識の表れなんだろうけど。
――――胸が痛い。
しかし、逃げ出したいという感情は一切無かった。
「……あの、ぅえ!?」
「悪かった!!」
一瞬、何が起きたのか分からなくて、息苦しさに目を見張る。問答無用で前触れなく抱きしめられたのだと理解したのは、制服越しにフェルメールの体温を感じたからだ。
「今回の視察、お前は俺たちに頼まれて動いてくれてたってのに……まさか、リーンの奴から巻き込まれちまってたなんて」
「いえ」
フェルメールが気付かなくて当たり前だ。
僕自身、必死で隠してきたけれど、先輩はちょっとやそっとの綻びにもビクともしない強い信念でもって僕を引き入れにきたんだから。
あの人は、自分の目的の為ならば全てを犠牲にしたって構わない人だもの。
「ほんとに、すまない」
いやいや、僕が悪いんだからそんなに謝ってくれなくても。……この人は、お人好しだなぁ。
「フェ」
「お前の貞操を奪われた事に、俺はどう償えば!!」
「……は?」
ちょっと待って!今、この人なんて言ったの?
「リーンは、昔から異性でも同性でも気に入った奴は直ぐに致しちまうのは知ってたけど、まさかお前まで奴の毒牙にかかるなんて!すまん、全ては俺の責任だ!」
「や、ちょ、ちょっと待って下さい!」
「いーや、待たねぇ!身持ちの堅いお前がどれだけ傷付いたかって思えば、俺は……俺はっ!!」
人の話を聞きましょうよ!ってか、苦しい!あ、ちょっ!
僕の制止も聞かず、ぎゅーっと抱きしめていた腕に力が加わり、僕の身体が悲鳴を上げる。
「っ、ふぁ、苦しい!た、たんま、って、ご、誤解ですっ!」
体格差がある上に、こんなにも強く抱かれたらまともに息をするのもやっとだった。なのに、こんな状態で必死に誤解を解かなくちゃならないなんて。
「貞操を奪われて、脅されて……恐かったよな?本当に、すまねぇ」
「……」
耳元から伝わる声は、真剣でフェルメールが本気で心配してくれているのだと分かる。気絶しそうなぐらいに息苦しいけど、それだけであの時の事が蘇った。
初めの部分は誤解だけど――襲われて無理矢理キスをされたのは恐かったのも事実だった。
フェルメールを引き離そうとした手が僅かに震えて、それを打ち消すように彼の服を握りしめる。
「イ、」
「フェルメールさんは悪くないですよ。だから、謝らないで下さい」
「けどな」
「キス、されたのはショックですけど」
しかも、二回。一度目なんて、身動き出来ない状態で半ば食われるように奪われた時は今思い出しても恐かった。
「……え?キス?」
そこで、ようやくフェルメールの力が緩み、顔をのぞき込もうとしてきたので恥ずかしさから今度は僕がフェルメールの身体にくっつき顔を隠す。
「キスって言ったのか?」
「……っ、そうですよ。リーンハルト先輩には不意打ちでキスされただけなんです。それを、だっ、だか、抱かれたなんて勘違いして」
もうやだ。
誤解を正すだけで、どうしてここまで僕が恥ずかしい思いをしなくちゃいけないの!?
きっと、今の僕の顔は茹でタコ状態になっているに違いない。
だからこそ、余計にフェルメールのお腹に顔を擦りつけていたのに、上手い具合に両手で頬を挟まれたかと思うとあっさり上に向かされてしまった。
「キスされたのか?」
視線の先には、驚きの表情を浮かべるフェルメール。
「だから、そうだと言って……あの、どうしたんです?」
何故か、苦虫を噛み潰したような顔で顔を背けるので首を傾げる。
「っの野郎!気付いてたクセに、黙ってやがったな」
えっと、それはどういう?
「寮から会議室に戻るのに、あいつがここに居るのが分かったが、まあ気にせず通り過ぎようかと思ってたんだ。けど、まさか話し相手がお前だなんて知らなくて。付近に来て、いきなり『人を襲っておいて』なんてお前の声が聞こえたらから、俺はてっきり」
あークソ!と、珍しくらしく顔を両手で覆いながら苛立ちに舌打ちを繰り返す。
なるほどなぁ。さすがはリーンハルト先輩だな。フェルメールの誤解をそのまま活用するなんて、実にあの人らしい。
「ああ。だから、さっきリーンハルト先輩は、僕たちの会話で主旨が全く違うのにかみ合ってたから可笑しくて笑ったんだ」
「……追い打ちをかけんじゃねぇ」
「あ、すいません」
今回は、リーンハルト先輩に二人とも上手く騙されたって事だろう。
しかも、フェルメールは僕が襲われたと思い込んで無条件降伏に至ってしまったわけだし。キス如きであんなに取り乱してしまってフェルメールには悪いことしたな。
そもそも、男のくせにファーストキスに夢を持っているのが間違いだ。ここは異世界なんだから、前世の感覚をいつまでも引きずる方が悪いだろう。ああ、なんて情けない。
「あの、フェ」
「謝んな」
どうして分かっちゃうかな、もう。
「たかがキスぐらいで、なんて思ってんだろう?じゃあ、なんであそこまで怯えてたんだよ?不意打ちにされたぐれぇで恐がんねぇよな?普通は」
「……」
あ、あれっ?
もしかして、今度はこっちの雲行きが怪しくなってきてない?
こんなフェルメールは、ヒューバート様に脅されていた時以来だなー……、とか。
「え、えーっと」
今は、余裕ぶってる暇なんてなさそうですね、ハイ。
どこか鬼気迫る気配を漂わせながら、徐々に距離を詰めてくるフェルメールから逃げるように一歩一歩と下がっていれば、案の定かかとが壁にぶつかってしまった。
「お嬢には黙っててやるから、俺にはきっちり全部吐き出してもらおーか」
そこで、ドンと片手を壁に突かれては、もう半ば諦めが付いてしまった。
――とりあえず。
見事、色んな種類のイケメンたちからの壁ドン三度目、おめでとうございます。
うん、全く嬉しくないけどね!




