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……。…………。……なんでしょうか?我が主君を、一言で?はんっ。私から聞いてどうなさいます?あなた様が同じ立ち位置だと勘違いをされておられるのなら、申し訳ございませんが反吐が出ます。あの方こそ、私が求めていた至宝の存在。血濡れの道を歩む私に手を差し伸べてくれた唯一、残された希望です。私が、一生涯をお仕えするに値する人物。それなのに、あなた様の存在によって無意味に苦痛を強いられ、苦悩せざるを得な……ちょっと、どちらへ行かれるおつもりでしょうか?
俺は、自分の存在を甘く見ていたのかもしれない。
いや、正確にはこのファンタジーな世界における俺の立ち位置というべきか。
いくら双子の妹の身代わりをしているとはいえ、結局このグランヴァル学院という狭い檻の中に最初から登場していたのはイエリオス自身なわけで。こいつが、この学院でアルミネラ・エーヴェリーという少女をこのような地位に立たせたのだ。
自分自身の行いとはいえ、今の記憶のない俺からすればマジ勘弁して下さいということ。
まあ、つまり俺は今、かなり途方に暮れている。
「……その、なんだ。声を出せないというのは中々不便だろう。まあ、貴様にはちょうど良いだろうがな」
「オーガスト、ひどい!アルミネラ様が、それでどれだけ心を痛めているのか分かってないわ!」
「う。そ、そうか」
俺の目の前で、今現在ぷんぷんと怒っているセラフィナから既に話しには聞いていたが、この世界はやはり創られた世界で、乙女ゲームのような世界だという事は嫌でも認識せざるを得なかった。何せ、毎日の昼休憩によくこれだけ見目麗しい集団が集まるな、と言わんばかりのキラキラした団体の中で、俺もサラが作ってくれた弁当を食べているからだ。
目の前には、アルミネラの婚約者であるオーガスト・マレン=ミュールズ王子。これがまた、大層なイケメンで獅子を彷彿させるかのようなワイルドさがかっこいい。俺もこんなワイルドな見た目になりたかった……いや、既に死んでいる以上今更だけど。
ただ、彼の特徴である燃えるように赤い髪と情熱を焦がしたような赤い瞳を初めて目にした時に、アルミネラが『トマト王子』と野次ってくれたおかげで吹きだしそうになったのは言うまでもない。
トマトが嫌いだからといって、嫌いな相手にもそれを名付けるアルミネラには感心する。
後は、あまり覚えなくても良いと言われたが、セラフィナと王子を挟んで左側に座っているのはテオドール・ヴァレリーという金髪碧眼のイケメンで、王子が王位を継承すれば補佐役となるそうだ。その他、ずらりと色んな種類の美男子軍団が並んでいるが、彼らは何でもセラフィナのシンパのようなものらしい。
乙女ゲームというものをよく知らないが、セラフィナは主人公だから自然と連中が集まってくるのだとか。それって、めんど、いや大変そうだ。
そのシンパの中でも、セラフィナが話しやすいというのが俺の左横に座るマリウス・レヴィルという少年だった。
黒髪で黒い瞳という純日本人的な特徴の彼も、いわゆる王子のご学友というやつらしいが、さっきから何度もツンデレというものを俺に対して発動してくるので、正直扱い辛い思いをしている。
セラフィナやエルによれば、記憶を失くす前の俺が彼をとても気に入っていたという事だったが、チラチラと視線を感じるので何だろうなと顔を向けたらツンとそっぽを向かれたり。かといって、放っておいたらとても不安そうな表情でこちらを見たりするので気になって仕方ない。
親戚の甥っ子を見ていると思えばいいのか?
そんな中、ここで唯一安心できるのが、俺の右側に座るエルの存在だろうか。小さな口で美味しそうにご飯を食べる仕草が可愛く、戸惑う俺にそっと小声でサポートしてくれたりと、健気に尽くしてくれるのでイエリオスが彼女を大切にしていた気持ちが俺にも分かる。うん、まあイエリオスは俺なんだけど。
エルフローラ以外の女の子に目がいかなくなるのは、すごく当然のような気がした。
そんな美男美女の集団が一同に集まって食事をしているのだから、そりゃあ他の生徒たちもこぞって学生食堂に集まるのは当然の理で。
そこは、確実に俺一人の責任ではない……と思う。
特に、女子の集団なんかはこの集まりの誰かがお目当てだったりして分かりやすい。
ただ、アルミネラ・エーヴェリーが階段から落ちて声が出ないという事は、既に学校中に広まっているようだ。というのも、明らかに物珍しげに俺を注視している生徒がいるのでよく分かる。特にそういった連中は、食堂内をさっと軽く見渡すだけで、心配そうに伺っている者が多い中、制服を着崩した輩や厭な笑みを浮かべている集まりに多かった。
貴族ばかりの学校だという話だったが、この世界にも社会からのはみ出し者が居た事にびっくりしている。今の俺は、非力だし一応公爵家のご令嬢という役割だから、そういう連中とはなるべく距離を置いて関わらないでいたいと思う。うん、気をつけよう。
とまあ、この学院でアルミネラがどういう風に見られているのかは、午前中でだいたい把握出来たといえる。
後は、そう。
昨日、突撃見舞いで俺をかなりビクビクさせたオリヴィアの事だが。
「今日は、来ないようですわね」
「……」
昨日までは、必ずといっていいほど俺の真後ろの席を確保してランチをしていたというオリヴィアが、今日は食堂にすら現れなかった。
それどころか、何故か今日は朝から全く会っていない。エルたちの話によれば、毎朝靴箱でアルミネラを待っていて、休憩時間でも訪れる時があったという事だったが。
……まさか、入れ替わりに気付いてない?
いや、それならば今日も来ないとおかしいはずだ。彼女の身に何かあったのかとも思ったが、休憩中に偵察と称してセラフィナが言い寄る男たちにオリヴィアの話を聞いた際、普通に登校してきているという事だった。まさに、謎が謎を呼んでいる。
このまま、フェードアウトしてくれたら助かるだろうが、何か企まれているのだとしたら不安でならない。
だから、しばらくは用心するべきだという方向になったのは、今や俺を守る事に闘志を燃やしている二人の少女の見解なのだが。
よもや、こんな如何にもか弱い少女たちに守られる事になろうとは。
伊織として生きていた頃は、思いもしていなかった。きっと、記憶を失す前の俺も毎回苦労していたんだろうな。
いつもこういうものなのか王子とセラフィナの賑やかな漫才をBGMにしながらお弁当を完食した所で、何やら出入口周辺にいた生徒たちが突然ざわつき始めた。
「んあ?何だ、一体」
王子が訝しげに呟いたと同時に俺も振り返るが、何せ国中の貴族の子供が集まる学院の食堂という事で結構広く出入り口までかなり遠い。だから、当然何が起きているのか全く見当が付かなかった。
「はあ。何だか分からんが、学院の秩序を乱すなら生徒会長として見逃す訳にも行かんな。テオ、ついて来い」
「殿下の行く道とあらば、どこへでも?」
彼の性格を表すかのような真っ赤な髪をガシガシと掻きながら立ち上がったオーガスト王子に、大仰な手振りで恭しく頭を下げたテオドールがにやりと笑う。
「はっ」
そんな茶目っ気に、王子も牙をむき出して笑って応えるのだから楽しそうだ。
俺も出来れば、そっちでお願いしたかった。ああ、でもこんなやせ細った体なら、王子もついて来いとは言ってくれなさそうだけど。
「ぼ、僕も行きます」
「私も行くわ」
まるで女の子のように白い己のすべすべな手を開いたり閉じたりして悩んでいると、俺の横に座っていたマリウスとセラフィナも席を立つ。
「……仕方ない。荒事だったら、離れておけよ」
「うん、分かった!」
少しだけ逡巡した後、警告だけで彼女たちを受けいれたので興味が湧いた。なんだ、アルミネラにトマト王子だなんて変なあだ名を付けられるぐらいだから、よほど見た目だけのイケメンなのかと思っていればちゃんと行動力も備わっていたのか。
さすがは、ファンタジーの世界の王子様というべきか?――これは、もう少し見ておきたいかも。
そう思って、俺も机に両手を置いて席を立った。
「……ア、アル」
心配しながらも付き添ってくれるエルに小声で詫びながら、じろりと俺を睨みつける王子の緋色の瞳を見つめ返せば。
「いいか。絶対に、手を出すなよ」
うんうん、俺もそう思う。もし、ここに俺じゃなくて本物のアルミネラが居たとしたら、多分もめ事があるというだけでさっさとそっちに向かっていそうだ。
まだ彼女をよく知らない俺だって、簡単に予想が付くのだから双子とは幼馴染みのような関係だというこの王子様もさぞや心労があるに違いない。
王子と記憶を失す前の俺に対し、もう何度目になるのか哀れみと同情を送りながら、俺は敢えて頷かずエルを連れて入り口の方へと歩き始めた。
「あっ、おい!勝手に行くな」
そんな俺に対して慌てて王子が追い越して、先頭を進む。
結局、俺たち以外にも結局数名の生徒たちがついてきたが、近付くにつれて集まっている生徒が多くて驚いた。こういう名門校でも、野次馬っているんだな。
俺が高校生の時は、たいてい道場に居る事が多かったから、校内で何かあっても気付かなかった事が多かったけどな、なんて思い返していると。
「あら?あたくしがいつ、その殿方を誘ったというのかしら?」
どこかで聞いた事のある高飛車な声に、嫌な予感を覚えてしまった。
「つい先ほどですわよ!わたくしがちょっと席を外している時に、声をかけていらしたでしょう?知っていますのよ、カミーユ様。ねぇ、そうですわね?」
「は、はい」
どうやら、女子同士の争いらしい。それに、相手の喧嘩を受けとって、対抗しているのが我が従姉のオリヴィアだという事も……はあ、やっぱり。
内心で深く息を吐き出しながら、一応俺の身内な訳だからどうしようかと迷っていたのだが、俺の傍にいた王子が歩を進めながら仲裁に現れた事で、自然と俺も生徒たちから囲われてしまった。
……なんで、俺まで。
「こんな人通りの多い場所で止めないか。一体、何があったんだ?」
相手が女の子という事もあってか、王子は声を荒げず紳士的に対応するようだ。へぇ、と感心するが、さっきまで俺に対して不遜な態度を取っていたのでそれに留まる。アルミネラとは婚約しているというのに、犬猿の仲だという話は聞いているが、それならその態度も改めてほしいと思う。妹だからではなくて、女性全般という意味で。平等といこうじゃないか。
王子が声を掛けた事によって、ようやく彼女たちも俺たちの存在に気がついて、オリヴィアと相対していた垂れ目がちの金髪の少女が我先にと王子へと駆け寄ってきた。
「まあ、殿下。お聞きくださいませ、そこにいるクレイス様がわたくしの大切な婚約者を唆そうとしていたのですわ!」
「誰がそんな不細工を。唆すなら、もっとあたくしにふさわしい殿方を選ぶわ」
「キーッ!!よくもわたくしのカミーユ様を侮辱してくれたわね!」
「とにかく、落ち着け。君は確か、フィファナ・ピューター嬢だったな」
今にも洒落たレースのハンカチを噛みちぎらんとしていたフィファナという少女は、王子から名を呼ばれて目を見開いた。
「あっ、あの、どうしてわたくしの名前をご存じで?」
「俺は、王家の人間にして、このグランヴァル学院の生徒会長だからな。全校生徒の顔と名前は全て覚えているぞ。だから、当然そこに居るカミーユ・ディヒカルトとつい先日、婚約を交わした事も知っている」
「ありがたき幸せでございます!」
と、今度は心配そうにフィファナを見ていた少年が感動して飛びついてきた。さっきまでは、彼女の横で顔を真っ青にしてアワアワしていただけだったのに。
気弱そうなタイプの少年にとっては、まさに王子が救世主だったのだろう。
「それから、オリヴィア・クレイス嬢は確かアルミネラの従姉だったな」
そこは、余計な一言だと言わせて貰おう。
当然、その言葉で王子の隣りに立っていた俺も注目を受けたのだから。
まずくないか?と思った時には、既にオリヴィアとばっちり目が合ってしまって、厄介な事にならないかといっきに気が重くなった。
――のに。
「おっしゃる通りですわ」
「……?」
……うん、えーと?
もしかしなくても、睨んだあげくに無視された?
これって、考えたくはないが……まさか、俺が『アルミネラ』でも『イエリオス』でもないって気付いてしまったとか?
アルミネラやエルの話からするに、イエリオスに対しては強い思い入れがあるようだし、もしかしたら今の意識の状態が別人だと気が付いたのかもしれない。
……だったら、どうしよう。
「もめ事の原因は、一体何なんだ。オリヴィア・クレイス嬢がカミーユ・ディヒカルトに声をかけたというのが発端か?」
傍らで俺が悶々と悩んでいる事など知らず、王子もオリヴィアの無礼な態度に眉を顰めながらも話を進める。
「ええ、そうですわ!殿下!このお、この方は、わたくしの婚約者に色目を使って」
「呆れてものもいえませんわ。貴女、ご自分の婚約者をいたく評価しているようですけれど、回りも同様だと勝手に決めつけているのではなくて?」
「なっ!!」
回りにいた女子生徒たちの幾人かがオリヴィアの言葉に賛同するかのようにクスクスと笑い、辱めを受けたフィファナの顔が一瞬にして真っ赤になった。
「クレイス嬢。俺の前で、これ以上臣下への侮辱は許さんぞ」
フィファナが手を挙げた瞬間、王子が直ぐに叱責して事なきを得たが、一体どういうつもりなんだか。わざと相手を煽ったように見えなくもないが、彼女の目的が分からない。
「申し訳ありません、殿下。以後、気をつけます」
「あっ!おい、まだ話が」
一人、彼女を見ながら訝しんでいると、俺に目もくれることなくオリヴィアは王子に対して詫びてから、その他の当事者たちも残してさっさとその場から離れて行った。
話はまだ全く終わってもいないのに。というか、何気に嫌な予感しかしない。
この世界での記憶はすっぱり忘れてしまった俺だけど。
都内でも、一軒家に住んでいて両親が別に高給取りだったという訳でもないただの庶民の息子である俺だけど。
己の親族が行った償いをせねばならない事ぐらいは、そんな平凡な俺だって分かる。
……ああ、マジか。
これって、まさか俺の正体がバレていて、ふふん!あんたなんか、こうしてくれるわ!っていう虐めだったらどうしよう。
絵に描いたような悪役の笑みが似合うオリヴィアを想像しながら、これからどうすれば良いのか途方に暮れてしまう。エルやセラフィナが心配そうに見守っていてくれているので、冷静さを失ってはいないが。
「すまないな、二人とも。俺がもっとしっかりとしていれば」
「そ、そんな事は!」
「殿下が仲裁に入って下さったおかげで、私共は助かりました。頭を下げるのはこちらの方です。……だよね、フィー」
「……カミーユ様」
なんだ、この男気は。体格もさることながら、立派な精神を持ち合わせているし、こんなファンタジーな世界じゃなかったら、とっくに柔道に誘ってる。……はっ!今はそんな事はどうでもいい。
というわけで、俺も王子に続いて声が出せないため身振り手振りで被害者の二人に謝罪して、困惑されながらも何とか受け入れてくれたので胸をなで下ろした。
俺より先に王子が謝罪に入ったせいで、俺が王子を利用してしまった気がするがそれは周りに判断してもらうほかないだろう。
本当は、なるべくアルミネラという名前に傷を付けたくはなかったが。
まあ、とにかく王子が取りなしてくれたおかげで大きなトラブルにもならず済んだ事にホッとした。
内心では握手でもしながら感謝の言葉を贈りたいぐらいだったが、そのどれも彼らの関係には論外なので我慢する。今の俺は、満足に話すことも出来ないし。
これ以上ここに居るのも注目を浴びるだけなので、一応、お礼の代わりに王子を一瞥してみる。
「……あ」
「……」
王子が何を言いたかったのかは分からない。ただ、この場合はこうする事が正しいのだろうと判断して、俺は制服のスカートの裾を翻してエルと共に食堂を後にした。
しばらくゆっくり歩いていても、セラフィナがついてこない所をみると、まだ王子たちと一緒にいるという事だろう。
それなら、教室で大人しくしていようか。
先程の面倒事を思い出して、どっと疲れが出てしまい、思わずため息がこぼれ落ちた。
記憶を失くす前の俺は、一体どういう生活を送ってたんだ?
伊織として生きていた頃は、朝から晩まで練習漬けの毎日を過ごしていたのに……ここでは、双子の妹と入れ替わりなんかして、女装する事を受け入れて女の子として時を過ごす。ずいぶんな変わりようだな。
……だけど、変わりすぎてハチャメチャなのが面白い。
そう思ったら、何だか笑いがこみ上げてきて、自然と口元が緩んでしまう。
「あら。どうされました?」
「いや、まあ。……楽しいなって」
小首を傾げるエルの耳にそっと小声で呟いてから、笑いかけた。
「……っ」
一瞬、言葉に詰まって困った表情を浮かべたエルが急に真っ赤になって俯いたのが可愛くて、ついクスクスと笑ってしまう。表向きは美人なのに、たまに可愛い仕草をするこの婚約者が愛おしく感じられた。
――――同じ少女に、俺は多分、二度目の恋をしている。
きっと、そうだ。
そんな確信をして、暖かい陽射しと少し冷たい風を感じながら俺たちの教室がある校舎へと続く渡り廊下をゆっくりと歩く。先程から黙って俺の後ろに付いてくるエルの存在にドキドキしながら階段を上っていると、階下から彼女を呼ぶ声がした。
「エルちゃん、エルちゃん」
そんな小さな子供を呼ぶような呼び方だっただけに、他にも『エル』というような名前の女の子がいるのだろうか辺りを見たが、彼女以外に該当者がいなかった。
「エルちゃん」
返事をしなかったが為に、もう一度呼びかけるその声が明らかに男の声だからこそ、エルを呼ぶ事に眉をひそめてしまうのは仕方ない。彼女に対して、好意を自覚したばかりなのだから。
「……えっと。あっ、お兄様?」
振り向いたエルの視線の先には、満面の笑みを浮かべた学生が立っていて彼女は嬉しそうにその声の主へと近寄って行ってしまった。
「……」
……面白くない、がここは行かないと拙いだろうな。
エルが行く以上、放っておく訳にはいかず俺も渋々付いていくと、俺たちより年上だと分かる大人びた男子生徒がニコニコと愛想の良い笑みを浮かべて彼女を見ていた。
見た目は、さっき食堂に集まったイケメン集団程ではないがそれでもかっこよく、黄色味が強い金髪を爽やかにかき上げながら、エルを映す紺碧色の瞳に優しさを滲ませていた。
……うん。悪いが、この男何故だかすごく気にくわない。
昨日、彼女たちに教えてもらった生徒たちの中には該当しそうな人物がいなかったので、しばらく様子を見ることにする
「この間、留学先のティリアから帰ってきていたんだけど、中々会えなかったから本当にエルちゃんが入学していたのか不安だったよ」
「まあ」
彼の冗句にクスクスと笑うエルだったが、そこではっとなって俺を見た。
いや、ちょっと存在を忘れるぐらい気にしてないから。だから、そんな柴犬の子供みたいに申し訳なさそうな顔をしないでほしい。
「確か、初対面でしたわよね?この方は、昔から私のお父様と親交のあるアンダーソン侯爵様のご子息でライアン・アンダーソン様です。そして、こちらは」
「現宰相様のご令嬢でアルミネラ・エーヴェリー様、ですよね?何でも、先日の不幸な事故で今はお声を失っていらっしゃるのだとか?ああ、不躾に大変申し訳ありません。私は、ライアン・アンダーソンと申します。以後、お見知りおきください」
「……」
……よし。やっぱり、こいつは俺の敵だと認めよう。
にこやかな笑みを浮かべているが、その紺碧色の瞳には、何度も試合で目にした敵意が見えていた。
俺は話せない代わりに、スカートの裾を軽く持ち上げて淑女の挨拶をする。この挨拶も、昨日散々練習をさせられたので何とか身についたが……習っておいて正解だった。
「しかし、ちょっと見ない間にエルちゃんも大きくなったなぁ。もう、エルちゃんだなんて小さかった頃のようには呼べないね、レディ?」
「ふふっ。普通にエルとお呼び下さいませ」
フェルメールの時も思ったが、外国人というのはどうして直ぐにウィンクをしたがるのだろうか。ああ、そういえばここは乙女ゲームとやらの世界だったか。
もしかして、乙女ゲームの男の住人は、全員ウィンクするのが当然なのか?ちょっと気の利いた事を言った後で必ずしなければならない法則があるとか……記憶を失す前の俺も、常にウィンクしてたんだろうか。うわ……軽く滅入ってしまいそう。
なんてのんびり物思いに耽っていられるのは、この男に俺は存在を絶賛無視されている最中だからであるけど。
エルと会話をしたいのならば、別に俺が一緒の時じゃなくても良かったはずだ。なのに、こいつは敢えて俺たち二人きりの時を選んだに違いない。正直に言おう、ただの私怨だ。
ということは、目的はただ一つ――俺に、己の存在を知らしめる為。
俺だって、こう見えて健全な普通の男だ。一目でこいつがエルに思いを寄せているのは気付いていた。だから、敢えて素知らぬふりで対応していただけで。
エルとの昔話に花を咲かせて、ひとしきり盛り上がった所で彼が突然ポンと手を軽く叩く。それも、かなり大げさに。
「ああ、そういえば生徒会顧問のフィジー先生がエルを探していたよ?」
「えっ?何かしら、頼まれていた件はお断りしたはずなのに」
小首を傾げて、エルが不思議そうな表情を浮かべる。
「とりあえず、行った方が良いんじゃない?」
「え、ええ。あ、アルは」
「彼女なら、私が責任を持って教室まで見送るよ。ほら、行って」
「えっ、あ、じゃあ」
多分、エルには幼馴染みの気軽さがあったから素直に受け入れてしまったのだろう。有無を言わさない早急さも、彼女に悩ませる暇を与えさせないためである。
簡単に言うと、エルはすっかり彼の手腕にやり込められたということだ。
しかしながらに、彼女の真面目な性格もあって最後まで俺を残して行く事に不安な表情を浮かべていたが、安心させるように頷いてやるとようやく階段を下りていった。
ここで心配をかけたら、逆に男が廃るというもんだ。記憶を失す前の俺がどうだったかは分からないが、俺には俺のプライドがある。
「さて、と」
エルが確実に下りて行ったのを見計らって、ライアンが動いた。
もしも怪しい動きでもしようものなら、この体がどこまで耐えるか分からないが技をかけてやろうかと身構えたのだが。
「時間が勿体ないから、我々も行こうか。君と同じく私も大変不服だけれど、エルと約束をしてしまった以上、君を教室まで送り届けないといけないからね」
「……」
へぇ、敵意をむき出しにしているわりには意外と真面目なんだな。
俺の警戒を読んでいたのか、肩をすくめて見せながら彼は階段を登り始めた。
そういう事だったらしょうがない。辺りに人も少ない事だし、時間が限られているのも確かだ。声が出せれば一番良いだろうが、俺も不満を隠す事なくついて行くことにした。
「それにしても、本当か嘘かは知らないけれども、話せないというのは愉快過ぎるね。これも、君が私の警告を無視したからに過ぎないという事は分かっているかい?」
「……」
「私が、あれだけ念を押してあげたというのに。それが、このざまなのだから可笑しくて仕方ないよ」
うん?もしかして、俺とこいつはさっきが初対面じゃなかったのか?というか、あからさまに俺を見下している辺り、喧嘩を売られていると判断して良いのだろうか。
伊織として生きていた頃は、よく試合前に対戦相手から挑発を受けるなんて事はざらだったから特に何も思わないけど、こいつが俺を嫌っているという事は十二分に理解出来た。
「だいたい、階段から落ちるだなんて間抜けにもほどがある。それに」
しかも、警告をしたと言っていたか?それは、つまり俺とこの男はエル達には内緒で何度か話をした事があるという事か。
――ただ、どういった話し合いだったのか不明だが。
この男に関しては、まだあまりにも情報量が少なすぎる。というか、さっきからやけに俺が階段から落ちた話ばかりを繰り返しているけど、意外とこの男が突き落としていたりして。それは早計かもしれないが、ただ昨日オリヴィアが「でも、あのアルが階段を踏み間違えるなんて事があるでしょうか?」と言っていただけに、そこが引っかかって仕方ない。単純に、足を踏み外したという可能性も捨てきれないけど。
仮にも、この世界に生まれる前の俺は運動部に所属していたのだから、そこそこの運動能力はまだあると思いたい。……が、この全身にまんべんなく広がる倦怠感と筋肉痛が、俺の運動不足を何よりも物語っている。うん、イエリオスは幼少の頃はとても病弱だったって言ってたもんな。
記憶が戻るまで、或いは戻らないなら、少しずつでも運動する事にしよう。
死に際の全盛期とまでは言わないが、柔道を習い始めた頃の体力はとりあえず欲しい。こういう事も、念のため彼らに相談するべきかと悩んでいると、ちょっと待って!とライアンが急に目の前に立ち塞がった。
「まさか、お礼もないまま教室に入るつもりではないよね?」
あれ?いつの間にか、教室まで戻ってたんだ。
階段を上っている間、ずっと俺に嫌味を言っていたから聞き流して考え事に集中してたから気付かなかった。
「あっ。なんだい、その顔は。今、絶対に視線を逸らせたよね?私がここまで連れてきてあげたんだよ、貴族の子女なら」
うるさい、うるさい。あーうるさいな。
それに、細かい。そういえば、どこかに留学してたって言ってなかったっけ?何を学んできたんだ、こいつは。めんどくさいな。
「……」
教室の前まで来たという事で、多数の目が俺たちに向かっているのは容易に知れた。だから、わざと如何にも怒られてしょげていますという顔で俯いてやる。
「なっ、……いいだろう。つ、次こそ気をつけたまえよ」
「……」
次なんてない事を俺は祈る。
俺の行動が功を成したようで、明らかに俺を叱りつけているようにしか見えない男に、辺りにいた生徒たちが顔を顰め始めたので男は取り繕いながらも動揺を見せていた。
馬鹿にはこういうのが一番効く。俺が、何年生きてると思ってるんだ。
密かに己の知恵の勝利を祝っていると、教室内からもチラホラと視線が刺さりドキリとしたが。
「ね、ねぇ、エーヴェリー様をお助けした方が良いんじゃない?」
なんていう声が聞こえたので、そっと胸をなで下ろした。良かったー、俺じゃなかった。って事だから、早く帰った方が良いよ?ライアンせんぱい?
「わ、私はちゃんと約束を守ったのだから、そこは必ずエルに伝えておいてほしい。良いね、頼んだよ」
はいはい。
仕方ないので、笑みを浮かべ軽くスカートを持ち上げて膝を曲げて礼をしてやると、ようやくライアンは身を翻して帰って行った。
なんというか、間抜けすぎる。散々俺を見下しておいて、自分のお願いはきいて欲しいだとか虫が良すぎるという言葉を知っているのか?
典型的なお坊ちゃんタイプというやつかな。あーいうのは、適当に流しておくに限る。
軽く嘆息してから、教室内へと戻ると直ぐに数人の女の子たちから心配そうに声をかけられた。
ああ、良かった。自分のクラスメイトだけでもこうして優しくしてくれるなら、まだ何とかやっていけるだろうな。




