16(上)
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ついぞ、この身が朽ち果てようとも永久を願う
嗚呼、友よ
明日は何を語り合わん
――小さな泣き声がした。
それも、今にも途絶えてしまいそうなぐらい小さくて、嗚咽を含んだか細い声の。
暗闇の中、聞こえてくるその幼い泣き声に焦燥感を煽られて僕はじっと耳を澄ます。
どういうわけか、泣き声の主を見つけたいとは思わなかった。いや、そもそも泣き声の主など見つかるはずはないと何故か分かっていたから。
けれど、どうして泣いているのか分からず、僕はどうしても理由が知りたくてその声に耳を傾けたのだ。
悲鳴にも似た、その声は――――――――
「起きなさい。食事の時間よ」
「――っ」
ひやりと冷たい手が僕の頬を包み込み、強制的に起こされる。
意識が覚醒して瞼を開けようとも、視界は真っ暗なままだったりするけれど。というのも、フォンタナー卿に首を絞められ、気絶か死かという究極の幾路に立たされたけれども僕は運良く生き延びていたらしい。でも、だからといってそのまま放置されるはずもなく。
目が覚めたら両手を拘束されていて、更に布で視界を塞がれどこかに転がされている状態だった。当然、起きた瞬間の驚きったらなかった。だって、身動き出来ないし真っ暗だし自分に一体何が起きたのか何も分かっていなかったんだもの。公爵家の人間で現宰相の息子というプライドに掛けて、取り乱さないようどうにか堪えた僕は偉いと思う――なんて。今はちょっとした事でも自分を鼓舞していないと正気が保てなくなりそうで恐いのだ。視覚って大事だったんだなぁと今更ながらにしみじみと思う。というのが初めて目が覚めた時の苦い思い出で。
現在、お城で囚人生活をしていた時よりも更に酷い状況に身を置かれて、僕の感覚ではもう四日目に突入している頃合いとなる。多分、としか言えないけれど。
場所は目が使えない以上音だけが頼りなので、足音や扉の開閉などで推測するにここはフォンタナー卿の仲間の住処とみた。それは主に階段の上り下りや、上階の生活音に由来しているのだけれど、もう一つ言えばここは地下室で間違いなさそう、とも。
あくまで僕の直感でしかないけれど僕の屋敷にも地下室があり、真冬にアルと忍び込んだ際に感じた空気の澱みと寒さが似ていたからだ。あの時はあまりにも寒すぎて、僕は直ぐに熱を出してしまったほどだった。まあ、あの頃はよく熱を出していた気が……あれ?熱?熱なんて……いや、今はそんな些細な過去に浸っている場合じゃないか。
初めはカーペットの上とはいえ、床に寝転がされていただけだったから寒くて眠れない夜を過ごす羽目になった。もう本当に、凍死するんじゃないかって思えるぐらい僕はガタガタ震えていたと思う。それを見かねた女性が、長椅子とぶ厚いブランケットみたいなものを用意してくれたので、そこからは寒い夜をどうにか乗り越えられるようになった。ベルナル卿の仲間だけどね。でも、それだけは本当に感謝している。
そのフォンタナー卿とは、実はあれから一度も会っていなかったりする。
ただ、声が聞こえない状況で判断しているからはっきりとは断定出来ない。まあ、僕の事が嫌いだとおっしゃられていたから、会いたくないというのは分からなくもないけどさ。
それとも、眠っている間に生きているかの確認ぐらいはしているかもしれない。とはいっても、ブランケット一枚ではやっぱり寒いし夢見が悪いから中々眠れないというのが現状だけど。
何となく、そう、何となく僕がそう思っているだけなのだ。
一度訪れたフォンタナー卿のお屋敷はこだわり抜かれた芸術品のようだったから、僕を殺すのもそういったこだわりがありそうな気がして。それにフォンタナー卿の仲間に蹴られたりするけれど、二日目以降、顔に傷がつくのを避けているふしがあるのも気に掛かるし。まあ、おかげで体はぼろぼろだけど。
……あれから、お城ではどうなったのかな。
結局、あの血が誰のものか訊けずじまいになっているけど、刃がべったり濡れていたから最悪を考えて殺されてしまったと判断して間違いないだろう。それに加えて、牢屋に居たはずの僕も居ないのだ。
大騒ぎになっているか、それとも内々に処理をしているのか……うーん。父上の事だから、内密に終わらせていそうな気はする。
だって、父上は一人の親の前にミュールズ国の宰相なのだから。
別に、そこに不満はない。むしろ、昔から僕の憧れである父の選択は誇れるぐらいだ。
それでも、守られていたという事実を知った今は少しだけ淡い期待を抱いてしまう。
――――父上は、僕を探してくれるだろうか、なんて。
「あら、やだ!」
「……」
女性の小さな悲鳴がして、続いてどろりとした液体が首元を伝った不快感で我に返った。
どうやら、汁気のあるものを溢されてしまったらしい。
ここに連れてこられてから、食事は朝と晩に二回ある。けれども、何故か頑なに拘束は解いてもらえなくて、ずっと誰かに食べさせてもらっている状態だったりする。……恥ずかしい事に。
初めは羞恥に耐えきれず食欲もなかったから要らないと断っていたのだけど、二日目の夜になって口汚い男に強引に食べさせられてしまい、そのあと吐き出してしまってからこの女性が担当するようになったのだ。
おかげで、恥ずかしさに耐えながら食べさせてもらっているのが現状だったり。何故かたまに、「お願いします、食べさせてください」と請う事を強要されたりするのがちょっと、というか、本気で止めてもらいたい。うん。あれは本当に止めて欲しい。どれだけプライドが削られているか、分かっててやらせているなら悪趣味としか言いようがないよ、全く。まあ、これがアルミネラだったら恥ずかしくとも甘んじて受け入れていたと思うけどね。ちなみに、エルだと勇気がいるから想像すら出来ない。そりゃあ、好きな子に食べさせてもらうのは、その、まあ、ちょっと夢でもあるけどさ。
「……?」
あれ?直ぐにタオルか何かで拭われると思いきや、……反応が途絶えた?というか、もしかして怒らせてしまったとか?目隠しされた状態でちゃんと食べろっていうのは中々難易度が高いんだけど。
「……あ、あの?」
――必要最低限の事以外は話さない。
これは初日に短気な男を逆上させてしまい、平手打ちをされたので自分にそう言い聞かせている。
けれど、声や靴音だけで判断するに、多分ここに居るのは僕とこの女性の二人だけのはずだ。それに彼女は少し高慢な所があれど、理不尽に暴力を振るってくるような人間ではない。だから、声を掛けてみたんだけど。
「あらあら、まあ!どうしましょう!すっかり汚してしまったわぁ!これじゃあ、お洋服がべとべとじゃないの!」
ああ、良かった。どうやら怒ってはいなかったみたい。ただ、妙に演技掛かっているような気がするけど……う、うん?
服は汚れても別に構わないけど、僕としてはあの時フォンタナー卿に塗りつけられた血がそのままであるならどうにかしたい。どうにもならないだろうけどさ。
「ああ、恐ろしいわ……これじゃあ、あいつら今度こそ変な気を起こすに決まっているじゃない!……そうなったら、ずっと我慢してた私が馬鹿みたいだわ」
お、恐ろしい?ええっ?何が?えっと、……ど、どういう意味?
「……確か、今は上も誰もいなかったはずよね」
「っ、わ!」
そう呟くやいなや、いきなり脇腹に手を入れて立たされて声が漏れる。
ふ、不意打ちは止めてほしい。そこは弱点というか、とにかく言ってくれたら従うのに。
女性が何を考えているのか、全くその意図すら読めない。なのに、彼女は何やら意を決したらしく、僕の腕を掴むとそれはもう勢い良く歩き始めた。
なんなの一体?どうしたっていうの?いきなりそんな早足で急かされると困るんだけど。だって、久しぶりにまともに歩いたんだから。……う。ちょっと転げそうになっちゃったけど、見られてないよね?
「……っ、ど、どこに」
「お黙りなさい」
ああ、やっぱりそうくるか。そう言われたら、黙るしかない。
僕の戸惑いを余所に、彼女は部屋から出て行くと階段を上って更にまた何度も階段を上っていく。多分、というか、……これって屋敷の上階部分まで上がってきている気が。
ここまで上がってきても誰も声を掛けてこないって事は、やっぱりこの屋敷にいるのは僕とこの女性だけとみて間違いなさそうだ。というか、彼女はここの女主人だったんだ。
フォンタナー卿が彼らの中心的人物だと思い込んでいたけど、自宅を根城にしているこの女性の方がもしかして首謀者だったりするんだろうか。
「そこにお座りなさい」
訳も分からず連れて行かれた先でも命令は続く。
ここは何処なんだろうという疑問は、命令に従って座った場所で直ぐに分かった。柔らかな弾力性。仄かに香るお日様の匂い。後ろ手に拘束された手でその肌触りを確認すれば、集められたふわふわの羽根が上質な生地で包み込まれている感触を味わえた。
そう――間違いなく、ここは寝室だ。
って、寝室といえば最も誰にも入ってほしくない私室だろうに……良いのかなぁ、そんな場所にお邪魔しちゃって。
「……」
何だか申し訳ないから、せめて浅く座らせてもらう。
「汚しちゃったから着替えさせてあげるわ。でも、……そ、そうね、せっかくだからついでに体も拭こうかしら」
「いえ、僕は」
「口答えしないで」
……うう。どうして、人並みの常識をもって遠慮しようとしたのに怒るかな。僕、間違ってないよね?
「服は息子のものがあるの。それに、こんな綺麗な肌を不衛生な状態にしておきたくないのよ。だって、勿体ないでしょう?」
え?何が勿体ないの?いやいや、聞いたらまた叱られそうだから黙っていよう。というかさ、急に拭くとか言われても何も用意してないよね?もしかして、視界を塞がれている僕には見えない合図を侍女にでも送っていたのかな?
「っ、あ……っ、な、何をするんですか!」
何だか腑に落ちなくて不審に思っていると、不意にベッドを軋ませながら上等な布団の上へと押し倒されてしまった。
視覚を奪われている今、急な展開についていけない。
「ねぇ、ちょっとだけ楽しまない?私が色々と教えてあげる」
つい先程まではほどよい距離感があったというのに、上にのしかかられた今は彼女の吐息が鼻先に掛かるほどに近い。いや、吐息というかこれって興奮してるんじゃ……え、まさか!?
「っ、お、落ち着いてください」
ここまできたら、まだそういった経験のない僕にだって分かる。
「落ち着いているわよ、私は。ただね、貴族になる為には仕方なかったとはいえ、いつもおじさんの相手をしていて飽きていたのよ。分かるでしょう?物足りないの」
はあ?分かるわけないじゃない!というか、分かりたくもないよ!
だからといって、相手は女性だし両手を拘束されている状態では抗う事すら出来ず、彼女の手が首筋を掠める。
「なっ、ちょっ、やめてください!」
撫でられた時の、ぞわぞわ感といったら。
「良い子だから、あなたは大人しくお姉さんに身を委ねていれば良いのよ」
そんな問題じゃない。そんな問題じゃない。そんな問題じゃないよ!あなたを受け付けられないんだってば!
ひっ、と情けない声が漏れてしまって、叱られるかもと唇をかみ締める。
ああ、もうやだ!どうして、こんな事になるの?まさか、女性に襲われるなんて。
「あは、やっぱり綺麗ねぇ」
「……っ」
こんな目に遭うなら、いっそのこと――――ひと思いに殺してくれた方が。
ギュッと目を瞑れば、悔しさに涙が零れる。
されど、僕の瞳を覆う布は流れさせまいと、その雫を吸収して水気を帯びた。
――その時。
「継母上!継母上!」
遠くから聞き覚えのある声がして、足音がちょうど部屋の外で止まる。
「継母上、こちらにいらっしゃるのですか?」
控えめにノック音がして、それと同時に女性の舌打ちが耳元で聞こえた。
「ッチ!良い所だったのに……何よっ!?今、ちょっと取り込み中なんだけど!」
「……開けますよ?良いですか?」
聞けよ、くそガキ!なんて小声で暴言まで口にしたけど、僕に聞こえているの分かって……ないか。
ただまあ、相手も取り込み中だと言われているのに無理矢理扉を開けようとするんだから少しばかり押しが強過ぎるかもしれない。
「待っ、お待ちなさい!」
「……っ、う」
いきなり起き上がらされて今度は何だと思ったら、何やら狭い場所に強引に詰め込まれてしまった。あまりにもぞんざいに押されて転げそうになったものの、ふかふかしたものに跳ね返されて衝撃は免れたらしい。……これはドレス?という事は、僕はクローゼットに押し込められた?
このぎちぎちに詰まっているのがドレスだろう事は、僕が最近ドレスを着るようになって匂いで分かってしまったからでは決してない。ほ、本当だし。
「静かにしているのよ、良いわね?」
命令には絶対従わないといけない。そう言われているので、頷いて了承する。
僕の肯定するのと同じタイミングで扉は閉まり、少し間を開けて「何かしら?」という女性の声と共に扉が開く音がした。
「先程、侍女からあなたが男を連れ込んだという目撃情報を聞き出したのですが、もしや父を裏切るおつもりではないでしょうね?」
男……って、あ、僕の事か。
ここに来るまでにこの屋敷の侍女に目撃されていたって事か。僕としてはおかげで助かったけど。
「そんな馬鹿な事するはずないでしょう?」
「では、この際だから言わせてもらいますが、うちの地下室で一体何をしているんですか?あなたの友人だと名乗る男たちのたまり場になっているようですが」
追求から糾弾か。もしかしたら、彼はわざと彼女を一人にして侍女に監視させていたのかもしれない。
そう思わせるのは、この声の主を僕は知っているからだ。
あまり接触は無かったけれど、大人しそうな見た目に反して役員たちの間では彼が毒舌家と呼ばれていた事を思い出した。
「今だけ場所を提供しているだけよ!もう少ししたら出て行くって言っていたわ」
「そうですか。……まさか、彼らは誘拐犯じゃないでしょうね?」
「ゆっ、誘拐!?そ、そんな事するはずないじゃない!」
……されているんだけど、僕。
「だったら良いんですが。エーヴェリー公爵家のご子息とご令嬢が行方不明になってしまったようで、学院でもかなり大々的な噂になっているんですよ。うちがそれに関与していないというのなら結構です」
「えっ、ご令嬢も?」
……アルも行方不明ってどういう事?
彼女も僕と同じように驚いているって事は、フォンタナー卿は関与してない?それとも、彼女が知らないだけでアルも捕まって別の場所に監禁されている可能性があるかもしれない。
「ご子息にお心当たりが?」
「ないわよ!エーヴェリー様の双子といえば、夫人に似てとても綺麗な子供たちだと聞いた事があるわ!だから、ご子息もだけれどご令嬢は特に心配ね!という話をしたかっただけよ!」
クローゼットの中、僕が妹の心配をしている間も変わらず二人の会話は続いた。
「……そうですか。それと、商人が来ています」
「何ですって!早くそれを言いなさいよ!」
「それは申し訳ございません」
すると、バタン、と扉が閉まる音がして二人分の足音が遠のいていく。
……え。もしかして、僕の存在を忘れてる?
念のため、もう少しだけ耳を澄まして待ってみる。けれども、その後に誰かが様子を見にくるような音も気配すら感じられなかった。
「……くっ!」
――となると。
何度かぶつかって、やっと開いたクローゼットから出る。誰かが居たなら、この時点で何かあるはずだけど……誰もいないとみて間違いない。
ここから、逃げなければ。
そして、アルを探さなくちゃ――――
何かないかと寝室に置く人は少ないと思いながらも希望を捨てずに手探りで机の上などを探していると、運良くペーパーナイフを見つける事が出来た。
そこから少し時間を要したけれど、縄を切る事にも成功して息をつく。
「っ、眩し……」
視界を覆う布を外すと、窓からの柔らかい陽射しがカーテンの隙間からちょうど僕に降り注いでいた。
――まるで、一筋の光明のように。
今日は、冬にしては穏やかな暖かさがあるらしい。
僅かに開く窓の隙間から、冷たい風がカーテンの裾をふわりと揺らす。
「……っ、ふ」
そんな、何でもない大した事でもない出来事に何故だか突然、涙がこみあげてきてしまった。
……僕は、生きていても良いんだ。
ううん、そうじゃない。
僕は、生きたい。
アルを見つけたら、もう一度、皆と向き合いたい。
情けない事にぐすっと音がする鼻をすすって、手のひらで涙を拭う。
「ったく、もう。興が削がれちゃったじゃない」
その時、女性の声がして扉が開いた。
「――っ!」
しまった。縄を切るのに必死で足音を気にしてなかった。
「あ、……なたっ!」
案の定、女性が驚いた顔で僕を指さす。彼女が近付いてくるのと同時に、僕は開けた窓へと登りその縁へと足を掛けた。
「ば、馬鹿な真似は止しなさい!」
目隠しされていたから今までどんなお顔なのか存じ上げなかったから、やっと初めましてになるのかな?……だけど、ごめんなさい。
あなたとは、ここでお別れだ。
カーテンに邪魔されながらも外へと身を翻し――――僕は、そのまま手を放した。
「きゃあああああああああああああああああああっ!」
金切り声みたいな耳障りな絶叫の中、よろけながらも芝生の上に着地する。一か八かでやってみたけど、どうやら成功し――
「……っ」
……ああ、足を挫いてしまったか。
「でも、それぐらいならまだマシだ」
骨の一本や二本は覚悟していたもの。
それよりも、今は一刻も早くアルミネラを探し出さないと。
上から僕を愕然とした顔で見下ろす女性が、己の仲間を呼ぶ前に。




