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君がまだ足りないというのなら、わたしの全てを君に捧げよう。
副会長のフォンタナー様に呼び止められたのは、セラフィナ嬢とエルフローラの三人で雑談しながら寮に戻ろうとしている時の事だった。
寒さで凍える茜色した並木道。肌触りが良いシンプルなデザインのマフラーが風でなびいたのを、慌てて押さえて振り返る。と、僕とあまり背丈が変わらないアルベルト・フォンタナー様が、上着のポケットに手を入れたままにっこりと微笑んだ。
三人の内で名前を呼ばれたのは『アルミネラ』――つまり、僕なので必然的に前へ出る。
「何かご用ですか?」
フォンタナー様とはつい先程、生徒会室で別れたばかり。なのに、追いかけてきたという事は何か忘れ物でもしてしまったかな。
「実は、どうしても二人だけで話したい事があるんだけど」
二人だけ、という部分に引っかかりを覚えたのは僕、ではなくセラフィナ嬢とエルのようで、まるで幼子を守る母親のように二人が同時に横に並んだ。えっ、と驚いたのは僕だけじゃない。正面に立つフォンタナー様も同様で。
ああ、やっぱり苦笑してしまうよね。
「……」
「……」
ごめんなさい、という思いで彼を見ていたら目が合ってしまって、つい二人して笑ってしまう。そういった何気ないやりとりがエルとセラフィナ嬢に変な誤解を与えてしまったらしく、彼女たちが頬を赤らめながら首を振った。
「あ、あの、アルベルト様を信用していない訳ではありませんのよ!」
「そ、そうなんです!アル様だけだと心配で」
うん。詰まるところ、二人はフォンタナー様ではなく僕に問題があると言いたいのかな?以前の僕ならまだしも、今の僕はそれなりにしっかり者としての評価を得ているはずだけど。
「何だ、そっか。てっきり、僕に前科があるから彼女を任せてもらえないんだと思ったよ」
前科って?何か悪い事でもしたのかな?
「そんな事はありませんよ!」
「あなたは何も知らなかったと聞き及んでおりますわ」
僕が訊ねようとするよりも先にセラフィナ嬢とエルが強く否定をしたので、気が引けてしまい口を噤んだ。彼らが何の話をしているのか気になるけれど聞ける雰囲気じゃないよね、これは。
「……ありがとう。話というのは彼女のお兄さんの事で、ほら、だって僕の家に居たからさ。お兄さんの私物の件とか色々と彼女に相談したかったんだよ」
僕がフォンタナー様のお屋敷に居た?それとも、僕に変装したアルミネラが?
いや。今は、そこはどうだっていいか。
「まあ。そうでしたの」
「ああ、それなら私たちが居たら相談しづらいですよね。すみません」
「ううん、君達が僕を警戒するのも分かるから気にしなくて良いよ」
問題は――
「それで、私はどうしたら?」
フォンタナー様について行くべきかどうか。『前科』というのが気になるけれど、自分の私物があるのなら取りに行きたい……十中八句、覚えていない代物だろうけど。
「そこに馬車を待たせてあるから、一緒に僕の屋敷へ来てくれる?帰りは侍女に付き添わせるから」
いや、待って。それで良いかな?という言葉を、何故、僕ではなく二人に確認するかなぁ。そりゃあ、僕も彼女たちによく相談しているけれど、でもそれは。
「アルベルト様はしっかりされているのでお任せします」
「アルを宜しくお願い致します」
ああ、何だかなぁ。……元々行くつもりにしてたから、もう良いけどさ。うーん。ちょっと腑に落ちない。
がらがらと馬の蹄が土を削り、轍を回す音だけが鼓膜を震わす静寂な空間。
彼女たちと相対している時とは打って変わって、物静かなフォンタナー様は心なしか冷たい雰囲気がして話し掛けづらい。
時折、力のない笑みを向けられるので怒らせている訳じゃなさそうだけど、逆に挙動不審過ぎて恐いというか。普段、へらりと笑うような人じゃないから余計にそう思うんだよね。
本当は、先程おっしゃられた『前科』の話を聞きたいのだけれど……どうしようか。
こういう時、エルのコミュニケーション能力があれば良いのにと思えてしまう。完璧な淑女になるべく、日々努力をしている僕の元婚約者は尊敬に値する。
僕は、そんな彼女をとても愛しく思っている。
だからこそ、大切にしたい。
ああ、情けないな。
エルの事となると臆病になってしまう自分が嫌いだ。
まずは、聞きづらい話をする前に雑談でもしてみようか――と。ほんの少し勇気を振り絞ってフォンタナー様に目を移した正に絶妙な瞬間、残念ながら僕を失望させるべく馬車は停まってしまった。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
城下にある貴族街の外れまで来たのはいつの事だったか。
フォンタナー邸はうちよりもこじんまりとしていたけれど、外装は何処の屋敷よりも華やかな色合いで目立っていた。確か、フォンタナー伯爵は外交官であったはず。ならば、異国の街並みを見ているからこそ、このような華美な色合いにしたのだろう。
フォンタナー様に続き、屋敷へと足を踏み入れると侍従長が恭しく頭を垂れて出迎えてくれた。手慣れた様子のフォンタナー様と同じく外套類を預けて、流麗な曲線美で形成された階段を上っていく。
「そういえば、最近、ある噂が密やかに学院の中で流れているのを君は知ってる?」
何処か異国を思わせるアラベスクな装飾に目を奪われていると、不意にフォンタナー様が僅かに振り返って問いかけてきた。
あ、やっと目が合ったな、と思った時にはもう顔を戻されてしまったけれど、ちょっとホッとしてしまう。って、安心している場合じゃなくて。
「噂ですか?」
密やかに流れているなんて言うだけあって、僕はまだ何も聞いていないけれど?
「うん。なんでも、イエリオス君がセラフィナ嬢と親密な関係らしいんだ」
「えっ!?」
あ、いや、ごめんなさい。思いきり大声で聞き返しちゃったよ。でも、待って。どこからそんな根も葉もない噂が出てくるかな?
あまりにも脈略がなさ過ぎて困惑してしまう。そんな僕の気持ちを背中越しに感じたのか定かではないけど、フォンタナー様がふふっと笑った。
「先週ね、夜中に彼がこっそり彼女に会いに行ったのを誰かが見てしまったって話だよ」
――――――――――あ れ か !
動揺を悟られまいと息を飲んだ口元を即座に手で覆う。いくら一年半の僕よりも落ち着いていると高評価の僕だって驚く事はあるんだから。……ああ、横に並んでなくて良かったー!
「それは、何かの間違いでは?」
けれど、まずは誤解を解いておきたい。僕の名誉もあるけど、セラフィナ嬢にとっては由々しき問題にまでなるわけで。最悪、それが原因で婚約にまで発展する可能性だって出てくる。お互い望んでいないからこそ、何としてもそこは避けたい。この間、彼女にその気があるのかどうか聞いておいてよかった。
これを機に、エルともう一度婚約出来るよう早く動いた方が良いだろうな。
さて、どうしようか、とその事に意識をとられていたせいで、次に言われた言葉で心臓が跳ね上がってしまった。
「僕もそう思うんだ。彼女の部屋の上階はちょうど君の部屋に当たる。――そうだったよね?」
どこか、確信がついている口調。なのに、批難めいているわけではなく、普段と変わらない穏やかさが伴っているからか余計に僕の不安を煽る。
「え、ええ」
だけど、僕が問い返すまでもない。
俯いて、あれから一度も振り返る事のない彼の背中が全てを物語っていたからだ。
兄はセラフィナ嬢ではなく私に会いにきたんです、なんて取り繕っても無駄だろう。
――ああ、最悪だ。
「……知らないままでいたかった。君が彼女の特別だというのは一目瞭然だったしね」
「ち、違うんです、その、これには深い理由が」
こうなったらどうして僕たちが入れ替わっているのか、ちゃんと説明して納得してもらいたい。慌ててフォンタナー様の傍に寄り、話し合う為に彼の顔をのぞき込む、と。
「嫉妬は醜い。そんな事は分かってるんだ。だけど、彼女の特別が『男』だったのはどうしても許せないよ」
眉間に皺を寄せて、こちらに顔を向けたフォンタナー様と視線が交わった。
「……フォンタナー様」
思いきり睨まれている。それも、憎々しげに。もしかして、いや、もしかしなくてもフォンタナー様はセラフィナ嬢に特別な感情を抱いていたって事だよね……これは。
えっと、つまり、これ以上の意思疎通は不可能だって事?
それは困る。それなら、僕たち二人にその気はないという事を説明しなきゃ。
「あの、私とセラフィナ嬢は」
「ある人に言われて気付いたんだよ。そもそも、全てを剥奪されて奴隷にまで身を堕とされた兄の方じゃなく、何も知らずただ軟禁されていた妹が記憶を失うなんてどう考えてもおかしいに決まってる」
「えっ、い、今、なんて」
聞き間違いじゃなければ、フォンタナー様は僕が奴隷になったって。……そんな。
「君は深い傷を負ったから、自ら記憶を消してしまったんでしょう?」
「き、ず……?」
なんのこと?
この人は、一体、何の話をしているの?
嘘なのか本当の事なのかすら判別がつかない話を受け入れられなくて、フォンタナー様を凝視するしか出来ないでいる。
ただ、やけに嫌な汗が背中を伝ってそれが酷く気持ち悪くて。
「さあ、お入り。もしかしたら、記憶が戻るかもしれないよ」
動けない僕に向けられた笑みはどこか冷えていて、それだけで背筋が凍る。
「な、……っ、あ!」
何故か嫌な予感がして、やはり引き返そうかとした僕の背中をフォンタナー様が有無を言わさぬ強い力で室内へと押し込んだ。
――一歩。
足を踏み入れた部屋は客室であるらしく、華美な屋敷に似つかわしくない室内はここだけ異質な空間として際立っている。
その応接間の中央に置かれた重厚なソファー。そこに背中を向けていた人物が僕の声に気が付いて、ゆっくりと振り返った。
「やあ、元気だったかい?――――イエリオス・エーヴェリー君」
瞬間、まるで僕のこめかみに雷が落ちたような、そんな言いようのない酷い激痛が内部を駆け抜けていった。
「――っ」
思わず額を押さえたものの、直ぐにその痛みがかき消えていく。
……今のは一体?
「え、っと」
あまりにも一瞬の事だったから、自分自身に何が起こったのか分からない。なので、今は相対する人物に注意を向けた。
「ああ、やはり記憶にないんだね?」
耳朶を震わすには充分過ぎる程の大きなお声になるのは、ふくよかな体であるからだろうか。長い髪を揺らしながら、残念だな、と苦笑いを浮かべる人物が大仰に身動きする度に派手なマントがガシャリガシャリと固い音を響かせる。
あまりにもインパクトが強すぎる。
呆然とするに値する圧倒感でもって僕を出迎えた男が、いつの間にか目の前まで近付いてきた事にすら気付かなかった。
「イエリオス君?」
「……あ」
しまった。びっくりしていたとはいえ沈黙を続けるなんて、なんて失礼な事を。
「申し訳ありません」
「いやいや、私の方こそ悪かったね。以前、ここに来てくれた時はよく話していたから、つい同じように接してしまったんだ。私は、アルベルトの父親のベルナル・フォンタナーという」
アルベルト様の、ということは。
「こ、これは大変失礼致しました。フォンタナー伯爵」
女装中の身であるけれど、相手には知られているようなので片膝を突いてきちんとした挨拶をしておく。で、良いんだよね?レディの挨拶じゃなくても良いよね?ああ、不安だ。
「相変わらず、君は真面目だね」
「そう、なんですかね?」
うん、そう言われても実感がないからなぁ。どういう顔をすれば良いのか分からず、困惑してしまう。
「記憶がないというのは不便だね。……可哀相に」
そんな感情が漏れてしまっていたのだろう。フォンタナー伯爵が痛ましい顔付きで僕を見下ろし、慈しむように頭をそっと撫でてきた。
「……」
もしかして、前の僕とは親しかったのかな?
「実はね、私が君に会いたくてアルベルトに嘘を付かせたんだよ。君を今度こそ助けたくて」
僕の私物対処の相談が嘘だというのは、僕の正体を知っていると分かった時点で何となく気付いてた。
――でも。
「今度こそ助けたい、とは?」
呼び出される理由がさっぱり見当も付かない。
助けたいってどういう意味なんだろう?
「そうだったね、ああ、そうだった。君は記憶にないんだったね。こんな話をするべきか悩んだけれど、君を救うためには仕方ないよね。いや、しかし……うーん」
首を傾げる僕から逃げるように顔を背け、フォンタナー伯爵が独りごちる。僕にとって何かよくない内容である事は察してしまうけれど。
「何かあるのならお聞かせください」
誰も教えてくれないからこそ、ちゃんと知っておきたいと僕は思う。
それって、当然のことだよね?
「そうか、君は知りたいのか。なら、詳細を語るのは私もあの時の事を思い出すと悲しいから止めにして端的に告げよう。君はね、記憶を無くす直前にとても酷い裏切りを受けたんだ」
裏切り?
「それは、一体」
「以前の君もとても聡明な子供だった。だからこそ、君は父君たちから過酷な試練ばかりを与えられ、とうとう心が壊れてしまったんだよ。彼が冷淡な男だという事は、息子である君なら当然知っているよねぇ?」
「え、ええ。……まあ」
とはいえ、俄には信じがたい。
確かに、僕の両親は昔から放任主義で何事も経験だと言わんばかりに黙って僕たちのやりたい事を見守っていた……と思う。まあ、大抵アルが思いつきで何かをしでかして、僕がその後始末で苦戦しているのを黙認していただけのような気もするけれど。
それとも、学院に入ってからは更に過酷さが増したって事なんだろうか?
エルやセラフィナ嬢が以前の僕はよくアクシデントに遭っていたらしいけど、それが父からの試練だったと言われたら納得してしまう自分がいる。
――だけど、本当に?
「はっきり言おう。君が記憶を失ったのは、任務に失敗して奴隷にされてしまったからだ」
……奴隷。
アルベルト様がおっしゃっていたのは本当の事だったんだ。僕が、奴隷になったって。
「奴隷、ですか」
口に出す事すらおぞましい。
ミュールズに奴隷という存在はいないけれど、隣国クルサードでは日常的に奴隷売買が行われているというのを聞いた事がある。
人間以下の存在として扱われる、奴隷。
僕がそんな身分に。
「ああ、そうだとも。辛かっただろうね。きっと、心細かったに違いない。彼らが邪魔をしなければ、私が君を助けてあげられたのにと今でも悔しい思いがするよ」
当事者である僕よりも泣きそうに顔を歪めたフォンタナー伯爵は辛そうで、落ち込むより先にこの方の後悔を取り除きたくなる。
僕に、その時の記憶があれば良かったのに。
「そうでしたか。まさか、そんな事があったなんて」
「誰もその話を君にしていなかっただろう?それは、彼らには後ろめたい思いがあるからだよ。つまり、君が記憶を無くしてしまった、というね」
一年半なんていう限定付きの記憶喪失になるなんて、僕もおかしいとは思ってたんだ。セラフィナ嬢は前世が関わったからだと推測していたけれど。
そもそも、何故記憶を失ったのか――という原因については一度も語られる事が無かった。コルネリオ様も父上も、僕の魂の片割れであるアルミネラでさえも。
――――そう、誰一人として。
「なのに、今の君を受け入れようともしない。彼らは、以前の君以外は必要ないんだ」
……ああ。
あああああああああああ――――
「……っ」
いけない、と思った時には既に涙が頬を伝っている所だった。慌てて拭うも、次から次へと涙が溢れる。
「比較されるのはとても辛い。それに、悲しい。私は、そんな今の君を救いたいんだよ」
誰も分かってくれないと思っていた。
僕は僕なのにどうして、って。
「っ、す、すみません……見苦しい顔をお見せしてしまって」
ずっとわだかまっていた思いが溶けて涙に変わっていくようで、そんな見苦しさを曝け出すのは恥ずかしくて両手で顔を覆う。
「いいや、泣くと良い。思う存分、ここでは泣いてしまえば良いよ。誰も見てはいないのだから。……ねぇ、アルベルト?」
あまりにも幼稚な真似事であるはずなのに、フォンタナー伯爵は僕を受け入れてそっと優しく抱き締めてくれた。
僕たちの他には誰も居ないというのに、まるで世界から僕を隠すかのように。
「……忘れられるものなら、忘れた方が幸せな時がある、と思う」
セラフィナ嬢への慕情で僕を恨んでいるはずなのに、まさかアルベルト様にそう言ってもらえるなんて思わなかった。
――忘れたって良い。
本当は……本当は、僕の大事な人たちに一番にそう言ってもらいたかったのに。
今まで抱え込んでいた悲しみや悔しさがこみ上げてきて、嗚咽が漏れてしまう。
「ああ、本当にその通りだね」
わんわんと泣き止まない僕を宥めるように、背中を撫でるフォンタナー伯爵の手はとても優しかった。




