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彼の者は穏やかなり。
彼の者は艶やかなり。
彼の者は淑やかなり。
彼の者は細やかなり。
嗚呼、得も言われぬ美しさは色めく匂いに彩られている。
「さて、昨日までお教えした事は覚えていらっしゃいますか?神代の昔、全知全能の女神ヴィルティーナに纏わる幾つかの逸話でしたが」
「聖ヴィルフ国の歴史だったよね。女神には七人の御使いがいて、その中の一人が女神の教えを説いた事からその名前が付いたって……合っているかな?」
グランヴァル学院はやはり貴族の子供が通う学校だけあって、そういった各国の歴史を徹底的に学ばせているらしい。要は、未来を担う子供たちが異国で失敗して戦の引き金になったりしないようにする為だ。
幼少の頃から本を読んでいた僕だけど、詳しく勉強をしていた訳ではないからエルフローラの補習はとてもありがたい。彼女の親切を無駄にしないようにと、出来るだけ一度で記憶するようにしているけど、他国の歴史はやっぱりやや難しい。
「そうですわ。ヴィルフレオ、アーティア、ウェスティリオ、ライラ、エファ、モカリア。そして、イリス。この七人が女神ヴィルティーナの御使いです。ヴィルフレオは女神教の開祖となり、聖ヴィルフ国の建国にも深く関わったとされております。それから、ライラは海を隔てた砂漠の国、トリエンジェ皇国の初代女王となったという伝説があるようです」
ぱちんと白い手を合わせたエレフローラがにっこり微笑む。どうやら、正解を引けたようなので安堵する。
歴史の勉強は過去に思いを馳せる機会になるからとても興味深いけれど、聖ヴィルフ国は歴史と言うより神話に近いから苦手かもしれない。苦手意識は良くないのは分かっているんだけどなぁ。
「あ、はいはい!それって七神徒ですよね、確か。へぇ、懐かしい……昔、特典本で読んだなぁ」
ひとまず、教科書にも載っている名前を紙に書き写していく。極力、僕の勉強の邪魔にならないように大人しくしていたセラフィナ嬢がその隙をついて、感慨深そうにため息を吐き出した。
「特典本?」
あ、やっぱりエルも思ったよね。特典、というと何かのおまけのような意味合いだけど、本でもそういったものがあるのかなって。
「あ、こっちの話です。すみません。えっと、モカリアの逸話なら知ってますよ。彼女は世界中を旅して沢山の子供を産み、後に彼らが吟遊詩人となったって」
「まあ、そうですの?」
エルがキョトンと小首を傾げた事によって、途端に得意げだったセラフィナ嬢の顔に焦りが拡がってしまった。
「えっ……ち、違いましたっけ」
いや、そんな必死な顔で僕に助けを求められても。助けられそうにないのでごめんなさい、という思いを込めて会釈をしてみせるとセラフィナ嬢は泣きそうな顔で首を振った。
「いいえ、そうじゃなくて。私、彼女に関しては何も知らなかったものですから」
「そ、そうなんですか。へ、へぇ……た、多分、確かだと思います。ええ、何せ、公式の本にそのように載っていたので」
「ああ、あのお話ですか」
「あの話?」
言いにくいのか、微妙に視線を逸らせるセラフィナ嬢とようやく理解が及んだエルフローラを交互に見て、ここで僕も何となく話に参加してみる。うちでは女性陣が会話している間は静かにするのが父上との暗黙の了解だったりするからね。けれど、何となく彼女たちなら大丈夫そうかなって。だって、口を挟んだら最後、何をされるか分からないんだもの。特に母上。つまり、言葉だけじゃなく手が出るから厄介なのだ。主に、髪を弄られるだけなんだけどさ。
「そうですよ、この世界の元になったゲ」
けれども、そんな僕を快く受け入れてくれたセラフィナ嬢の言葉を、僕は最後まで聞く事が出来なかった。
何故ならば――
「イオっ!会いたかったよ!」
「わ、ぁ!」
彼女の話を折るように、急に窓が開いたかと思うとまたリーレンの寄宿舎からこっそり抜け出してきたらしいアルミネラが侵入した勢いのまま僕に抱きついてきたからだ。
「っとと」
男性ものの衣服に身を通した妹に力いっぱい抱き締められながら、椅子から転げないようにどうにか踏ん張る。おかげで、ちょっとあばらが軋んだのは気のせいにしておこう。
「イオ!ああ、イオ!元気だった?疲れてない?どこか痛い所はない?ああ、顔をよく見せて」
「……っ」
言い返す暇すら与えられない上に両手で顔を包み込まれて、強制的に視線が絡まる。間近に迫ったアルが憂いを浮かべているのが分かって、叱ろうと口を開いてみたけどそのまま息を吐き出してからそっと閉じた。一人の所をみるに、またアルの護衛をしてくれているというノルウェル卿のご子息、ディートリッヒ・ノルウェル様に声もかけずに抜け出してきたに違いないけど。
……しょうがないなぁ。
「元気だったよ。それに、痛い所も疲れもない。一週間前と全く同じだよ」
妹が落ち着きを取り戻せるように、なるべくゆっくり穏やかに伝える。そういえば、一週間前もその前も同じ事をしたような?毎回、アルミネラが僕の様子を見にくる度に二人して何をやっているんだか。
案の定、視界に映るエルやセラフィナ嬢もクスクスと笑っているし。
「あのね、アル」
心配されているのは分かるけど、これはちょっと戒めておくべきか。説教っていうわけではないけれど、僕は大丈夫だって言い聞かせておくべきだろうと彼女の両の手を掴んで頬から外す――と。
「わっ!どうしたの、その怪我!?」
妹の手の甲に大きな痣があり、そのままその手を自分の方へと引き寄せる。明かりの下でよく見てみれば、手首から手の甲にかけて打撲の痕が出来ていた。
「ちょっとヘマをしちゃっただけだよ」
ヘマ?ヘマって何だよ。
「ああ、もう。だから気をつけてってあれほど」
騎士になりたいという夢は、僕だって応援してあげたい。でも、怪我をするのは別問題だと思っている。
「これぐらいの怪我、平気だってば」
痛くないよ、というようにひらひらと手を振るアルは実に暢気で。
「言っておくけど、痕が残るような傷を付けたら許さないよ」
僕がどれだけ本気で心配しているのか分かってない。そういった意味を込めて敢えて脅すような言い方をしてみる。
「ん、大丈夫!」
……うわぁ。そんな無邪気な笑顔で大丈夫なんて言わないでよ。僕がその顔に弱いの分かってないだろうけど、ほだされそう。ほら、エルやセラフィナ嬢にも苦笑されてしまっているもの。ここは兄としてきちんと戒めないと。
だったら。
「それは楓の木に誓えるの?」
僕たちの胸に今も宿る思い出の大木。
満天の星に見守られて、僕たちは約束をしたのだ。
もうその木は切られてしまったけれど、僕たちは今もまだあの時の気持ちを忘れはしない。……していない。
そうだよね、アル?
「誓えるよ!それにしても、イオは大袈裟だなぁ」
アルの返事に躊躇いがなかった事に何故か心の底からホッとした。生まれた時からずっと同じ時間を過ごし、魂が溶け合っているかのような僕の半身。愛しい妹。
けれど、僕には一年半の記憶がごっそりと抜けてしまった。……何故なのか分からないけど。
正直にいうと、焦っている。
アルミネラがその一年半の間に体も心も成長していて、僕を置き去りにして先に進んでしまっているんじゃないかって。
――恐くて、仕方ないんだ。
「そんなことないよ。兄として当然でしょ」
だからといって、妹に情けない思いを知られたくない。多分ね、自尊心が邪魔しているからに他ならないだろうなって自分でも分かっている。たった数分の差でも僕はアルの兄なのだから、格好いいって思われたいものでしょ?
「んふふ。じゃあさ、久しぶりにあれやってよ!いたいのいたいの、飛んでいけー!ってやつ!」
とびきりの笑顔で両手を拡げたアルミネラが可愛くて、思わず声を出して笑ってしまう。
「何なの、それ」
元気があるのは充分に伝わったから良いけどさ。
「だーかーらー、いつもやってくれたでしょ?私が怪我をした時、いつもイオはこうやって怪我の部分に手を当ててさ、こんな風におまじないをかけてくれたじゃない」
うーん、そんな事していたっけ。
「……覚えてないなぁ」
してあげていたとしても、かなり幼かった頃の事だったんじゃないかな、と。思い返しても記憶にはないので、もしかしたら単にその時の思いつきだったのかもしれない。
悪いけど、とアルにもきちんと説明をしようとしたら、僕の左隣りでセラフィナ嬢が嬉しそうな顔で小さく挙手した。
「あ、あの、ちょっと良いですか?今のって、前世で母親が怪我をした子供の気持ちを和らげるようによくしてあげるおまじないですよね?」
……うん?
「そうだったんだ。そっかぁ、知らなかっただけで私はイオの前世の記憶にもお世話になってたんだねぇ」
え?ちょっと、待って。
「ふふっ、アルがよく怪我をしてきてはイオ様がそのおまじないをしていた事を思い出しますわ」
……おまじないって。
「私も前世の記憶が蘇った時はすごく心細くて、たまに童謡を歌っていました。皆、そういうものなのかもしれませんね、イオ様……イオ様?」
「えっ、あ、ごめん」
「どうしたの、イオ?」
おっと。危ない、危ない。皆があまりにもおかしな事を言うから、頭を悩ませ過ぎてついぼーっとしてしまった。冗談にしては普通に話すから、僕をからかうつもりなんだろうか、って。
でも、いくらなんでも前世って。
「あのさ、前世って何のこと?そういった遊びがあるなら、僕にも教えて欲しいのだけれど」
貴族間の遊びの一種なんでしょう?と問いかけてみると、何故か三人が目を丸めて一斉に顔を見合わせる。
ええっと……まさか、僕は変な事でも言ってしまったかな?
「イオ様?」
いやいやいや、そんな意表を突かれた顔で皆して僕を見ないで。
「あ、あのさ、申し訳ないけれど、僕には皆が何を話しているのか、その、よく分からなくて」
言いよどむのは、何となくこれは良くない事なんだと三人の表情から見て取れてしまうから。中でもセラフィナ嬢の驚きは特に大きく、可憐な顔に憂いが滲むように眉間にどんどん皺が寄っていった。訊かなかった方が良かったのかもしれない、なんてもう遅いか。
「昔さ、よくやってくれたじゃない。こうやって傷に手を当てて、『いたいのいたいの、飛んでいけー!』って。……覚えてないの?」
「そんなのした覚えがないよ」
それは本当に僕だったの?とは言えないか。真面目なエルフローラがその光景を見たと言うのだから嘘じゃない。
先程までの穏やかな空気とは一変して、戸惑いを見せる彼女たちになんて声を掛ければ良いのか分からない。申し訳なくて、ひとまず謝ろうと口を開いた、瞬間。
「……もしかして」
何か思い当たる事があったのか、セラフィナ嬢が口元を手で覆いながらいきなり立ち上がった。
「えっ?」
しかも、彼女がそのままこちらに歩み寄ってくる。
狼狽える水色の瞳が僕を捉えて放さないからか、僕は呆然と待つ事しか出来ないでいる。
実は、彼女の愛らしい容姿にまだ慣れなくて変に緊張してしまうのだ。しかも、相手はそういう事に無頓着なのか平気な顔で距離を縮めてくるのだから心臓がもたない。
「っ、な、何ですか?」
じゃなかった。えっと、何かな?って言い換えたけど声に出てない。ああ、情けない。
「もしかして、あなたが失くしたのは前世が関連した記憶かもしれません」
そう言って、沈痛な面持ちを隠そうともせずセラフィナ嬢が僕を見下ろす。僕が内心で動揺しているとも知らないで。いや、それとこれとは関係ないか。
それよりも、また前世?
「えっと、どういう意味?」
僕の断片的な記憶喪失が、前世に関係があるって?
よく分からなくてセラフィナ嬢に問いかけるも、彼女はもう僕ではなく綺麗に磨かれた床に視線を落とし込んで考え事に集中していた。
「一年半……ちょうど、グランヴァル学院に入学する時期。それはつまりゲームの開始する時期でもある。という事は、……これはリセット?」
ブツブツと一人の世界に入り込んでいる彼女に再び声を掛けるのも憚られて、どうしようかとエルやアルの顔を見てみる。ね、本当にどうしようか?
すると、セラフィナ嬢が白磁のような両手で己の頬を包み込んで天上を振り仰いだ。
「ああ、なんてことなの!」
「フィナさん、落ち着いて下さいませ」
考えを巡らせているセラフィナ嬢は己の奇っ怪な行動に気が付いていないのか、エルが慌てて近寄って宥めるも大丈夫だと片手でいなした。
彼女とはまだ一ヶ月の付き合いだけど、何故かたまに年上に見える時がある。同じ十五歳には思えないんだよねぇ。ああ、だから、僕は敬語になってしまうのかな?
「世界がイオ様の記憶を書き換えたっていうの?ゲームに前世の記憶など不要だってみなされて、伊織くんの記憶が消されたってこと?」
世界が、記憶を消す?うん、何だか壮大な話になってない?明らかにおかしいでしょ。
「ねえ、フィナ。それはどういう事なの?」
アルも僕と同じように感じたのか、顰め面になっている。
たった一年半の記憶が、いや、彼女が言うのは前世の記憶か……ああ、もうどっちだっていい。僕のようなちっぽけな人間の記憶を世界が消すだなんて、あまりにも馬鹿げている。
「少し前に、イオ様はこの国の魔導師に神託を授けられました。お告げの内容は『運命は流転する。歯車がかみ合うまで』との事です」
魔導師?神託?何が何だか……ああ、全くついていけない。
「そうでしたの」
えっ?エルは受け入れるの?そこにまず驚きがあるんだけど。
「私も知らなかったんですが、イオ様が記憶を失った事を知ったその魔導師の友達が教えてくれたんです。私が何か手がかりがないかって調べていたから」
この国に魔導師なんていう如何にも怪しい存在が居ること自体恐ろしいのに、セラフィナ嬢は友人であるという。彼女の交友関係は本当に幅が広いらしい。
「運命、ねぇ。イオは……あー、その顔は記憶にないって顔だね」
さすがは僕の片割れ。アルの言うとおり神託なんて知らないし、ちょっと思考すら投げ出しかけていたりする。だって、途方がなさ過ぎて。
そもそも、前世って何なんだよ。意味ぐらいは知っているけど、おとぎ話か宗教じみた何かでしょう?僕たちには縁がないはず。
「ずっと、どういう意味なのか、私なりに考えていましたがさっぱり分かりませんでした。だけど、そのお告げも併せて考えたら一つの推測が成り立つんです」
「それは?」
気が短いアルミネラの問いに、セラフィナ嬢が口を噤む。
言いづらい内容なのか、或いはセラフィナ嬢自身も受け入れがたい内容なのか。
どちらにせよ、今の僕には――
「イオ様は、前世の記憶をこの世界に排除されたのかもしれません。歯車がかみ合うまで、運命は流転する――つまり、セラフィナ・フェアフィールドがゲームを進めるには、『伊織くん』は邪魔な存在であると認識されてしまったのではないでしょうか」
ぎゅっと祈るように、両手を組むセラフィナ嬢の顔は暗い。今にも泣きそうだという表現が合いそうな。
「じゃ、じゃあ、この一年半というのは?」
「私と出会ってしまったから。……私が同じ前世の記憶を持っているから、伊織くん、イオ様は前世を強く意識していたのかもしれません」
「……そんな」
戦慄く唇から溢れたエルフローラの声が掠れる。
「じゃあ、イオは」
憤りを抑えられないアルがセラフィナ嬢を睨め付ける。
彼女たちは皆、悲しみを湛えているというのに。
――――僕だけが、この場では異端だった。
「あのさ、僕には君たちが何の話をしているのか分からないんだけれど、それは僕にとって悪い事なの?」
「それは、……分かりません」
だって。
だって、そうでしょ?
一年半の記憶がなくても、僕はどうにかやっていけてる。
そもそも、前世の記憶なんて本当にあるのかどうかも分からないあやふやなものを、いまだに覚えているという人間の方がおかしいと思うのだけれど。
僕は今も全く不便じゃない。
「なら、それでも別に構わないじゃない」
「だけど、イオ!」
ああ、お願いだから不安そうな顔をしないで。――だって。
「僕は僕なんだから」
「……でも」
前世の記憶?
それは今の僕にとって本当に必要なの?
大切な家族がいて、幸せにしたい人がいる。それで充分。だからさ、アル。
「大丈夫だよ、問題ない」
そうだ、何も問題はないはずだ。




