第八話
夜空には三日月。それから放たれる蒼い月光。照らされるは霞の如く透き通った肌。聞こえてくるのは去り行く季節に余命いくばくもない虫の唄のみ。一糸も纏わぬ西孤が夜風に少しだけ震えながら屋敷の縁側に座った。尻に感じる板の間の冷たさにもすぐに慣れる。
青紫色の長崎ビードロで出来た容器が目の前に置いてある。髪をたくしあげた西孤はビードロの容器の蓋を開けた。中にはねっとりとした乳液のようなモノが入っている。ほのかに南蛮渡来の果実を彷彿とさせるその匂い。乳液を手に取る。見た目とは違い、さらりと西孤の手になじんでいく。うなじ、首筋から肩口にかけて丁寧に丹念にその乳液を塗っていく。西孤の肌が月夜の中で白く燃え上がるように映える。
虫の音がやんだ。
手元に置いてある小刀「刹奴」の位置は確認した。何処だ、いや、何処からやってくる?相手の動きを待つか、それともこちらから動くか?答えは分かりきっている。孤異厨の忍びだ、捜殺「Search and Destroy」あるのみ。
「おっとっと、そこまでだあ。おいおい、お前も洒落にならねえなあ、へへへ」
先程まで月に照らされて、そこにはなかった筈の茂みの影から虎視丹が現れた。手にはウィスキーの入ったボトル、赤ら顔かどうかまではこの月の明るさではわからない。
「なんだ、お前か」
「なんだはないだろうよ。つれねえなあ」
殺気を消した西孤は服を着ることもせず乳液を体に摩り込ませ続けている。
「何の用だい」
「へへへ、たまにはお前とイッパイやろうかなと思ってさ」
「嘘付け、お前が来るとロクな事がないんだ。どうせまたトラブル話だろう」
「そんなことないぜ。ほら、舶来品の酒だ。気取ったバーからかっぱらってきた。エロス仕掛けのクノイチと呑むんなら、これくらいはもってこないとな」
「馬鹿にしてるよ」
「俺なりの尊敬の念の表し方だよ、へへへ」
先ずは自分でラッパ飲みをしてから、虎視丹が西孤に向かってボトルを投げる。
「おっと、あんまり近づくとお前の色気にやられちまうからな。お前と知り合って20数年経つが、歳を取るにつれてホント色っぽくなっていくからなあ。妖艶ってヤツかなあ。男達がヤラレちまうってのも理解できるぜ」
ヤラレちまう---虎視丹は「殺られちまう」という意味で話し続ける。洒落ではなかった。西孤が身体に摩り込んでいた乳液は「白寿切」、びゃくじゅせつと呼ばれる彼女が作り出した毒液であった。琉球王国から伝えられた柑橘系の果実を基に作られた毒薬に唐伝来の功徳水、あらゆる毒草、毒虫、媚薬、香水、大麻、阿片、LSD等の非合法ドラッグ等を調合し乾燥させ、西孤の愛液をもって三日三晩、とろ火で煮詰めて作り上げる。
西孤の色香に惑わされ、肉体関係を持つ男達はこの白寿切を摩り込まれた西孤の体を愛撫、そして弄ぶうちに、快楽の中で屍となっていく。「エロス仕掛けのクノイチ」と虎視丹が西孤の事を呼んだのは紛れもない事実であった。
「で何の用なんだい?ただ酒呑む相手が欲しいだけじゃないんだろう」
「ヘヘヘ、さすがだな。20年近くも一緒にいればわかっちまうのかな」
「お前は忍びの癖に嘘がヘタなんだよ。命取りになるっていうのに」
「まあ、そこが俺のいいところでもある」
「何言っているんだ、死んでしまったらいいもクソもないんだよ!」
「まあ、そう怒るな」
「お前とは20年近く付き合いが続いているけど、ほんと変わらないね」
「変わる必要もない」
「ああ言えばこう言う・・・ロッカーの癖に口だけは達者だよ」
「ロッカーから言い訳を奪うのはギターを奪うことよりも酷だぜ」
「ちょっとは黙っていな!」
右膝を立てて、脛に白寿切を摩り込む西孤。3メートル程離れて虎視丹が座っている。月光に照らされる2人のちょっと気まずい時間と距離。ラッパ呑みは続く。虎視丹の口元から垂れた一筋のウィスキーが月明かりに反射する。
「もう20年かあ」
「そうだね、気が付いたら20年だね」
「色々あったよなあ」
「色々あったね。そしてこれからも色々あるよ、きっと。いや、絶対に」
「これからかあ」
「ああ、これからだよ」
「やっていけるのかな、俺達」
「ああ、やっていく。やっていくよ。ずーっとね。私達が生き抜くことで孤異厨流が生きていくんだ。そして私達が死んでも孤異厨流さえ生きていれば、私達は生きているということなんだ」
「俺は自分が生きていく事で精一杯だけどな。ヘヘヘ」
「チャカすんじゃないよ。孤異厨流は生きている。孤異厨流は死なない。死なせやしない。いままでも、これからもずーっと、ずーっとだ」
白寿切を摩り込む西孤の手がいつもより激しさを増していた。虎視丹は気付かない振りをした。
「なあ、俺達は任務の名の下に数多くの人間を殺してきたよなあ」
「そうね、そして数多くの仲間達、いえ、家族も殺されてきた」
「そういうヤツラも孤異厨流の為に散っていったということかあ?」
「流した血、切り捨てた屍、それは全て孤異厨流の血となり肉となったと私は信じている」
「力丸もか」
西孤の手が止まった。
力丸―もう10年近く経つのか。20数年前に虎視丹や西孤達と共に孤異厨の里に連れてこられた、いや、正確には拉致されてきた子供達の一人。多くの子供達が「修練」という名のしごきと拷問についていけず、落伍(死亡)する中で力丸はめきめきと才能の頭角を表していた。
力丸の顔立ちは日本人離れしていた。聞くところによると西洋から来た牧師と隠れキリシタンの女が密会を重ねるうちに身ごもって出産、馬小屋へ捨てられていたところをある抜け忍に拾われたのだという。他の子供達と明らか様に違う己の容姿によって受け続けた迫害に負けることなく、力丸は屈折もせずに生き残る道を選んだ。孤異厨流の捜殺「Search and Destroy」の掟こそ、力丸が信じれる唯一のものとなったのはいうまでもない。
力丸と西孤は共に血を流した。共に人を斬った。鬼畜として己を鼓舞させることが生き残る術であった。忍びとは人であることさえを諦めることなのか、何度そう思っただろうか。いつしか2人にしか分からない絆が芽生えている。西孤が初めて股から血を流した時に、今まで感じた事のなかった力丸の雄臭さがたまらなく嫌になった時もある。しかし、任務中で「男」を始めて知った時、気が付けば力丸の名前を心の中で叫んでいた自分がいたことも確かであった。
「ねえ、力丸、アタシはこんな女だけど多分お前が大好きだよ」
言える筈もない言葉が西孤の心の中を痛めつける日々が続いた。
そして力丸は殺された。インドのバラモンから来たという幻術師「果心居士」暗殺の指令を受け、失敗。その肉体はナマスの如く切り刻まれたという。
西孤は人知れず泣いた。青紫色の長崎ビードロは力丸が残してくれた唯一の形見となった。そして二度と涙は見せぬと誓い、孤異厨流の「忍び」として生き抜く決意を固めた。白寿切をまた塗り始めた西孤がぼそっとつぶやく。
「力丸はね」
「力丸は?」
「ずーっと私達と一緒。私達の血、私達の肉、孤異厨流の血、孤異厨流の肉・・・」
「力丸は死んだぜ」
「死んじゃいないんだよ!!」
無意識に小刀「刹奴」を取り上げようとする西孤はギリギリのところで自分の衝動を押さえつけた。
「なあ、お前は自分が死ぬまでヤツの亡霊を背負っていく気なのか?」
「死んじゃいないって言っているだろ!力丸は生きている!これからも生きていく!私も、お前も、孤異厨流が続く限り生きていくんだ!」
「わからねえヤツだなあ。孤異厨流、孤異厨流ってそこまでしがみつく必要が俺には逆にわからねえけどなあ」
「お前に何がわかる!」
怒り、苛立ち、憤りが西孤の中に募っていく。
「ああ、何にもわかんねえかもな。ただな、1つだけお前が分からない事で俺だけが分かっている事があるぜ」
「何なんだよ、それは?」
「力丸を殺したのは俺だ」