第一話
蝉の声。天を貫くような青さを誇る空。川には清流と踊る童子達。そこから距離にして20メートル、焦げ付く太陽の光さえ届かない林の中。それでも暑さは和らぐことを知らず。顎からしたたり落ちる汗を拭いもせずに男はいた。
手に取るは小刀。漆喰の柄には龍の彫刻。刃は長年毒に浸されていたせいで緑色に変色し、触るだけで致死。その緑色の魔物から鮮血が垂れる。男の足元に倒れているのは旅人の身なりをした老人。いや、老人ではない、その正体は隣国から行商人を装って孤異厨の里に侵入した伊賀の間者であった。
左わき腹をえぐられている。瞬殺だった。男は特に動揺した様子もなく小刀を鞘に収める。この2ヶ月あまりでこのような間者を何人殺めたのだろうか。今に始まったことではない、しかしヤツラは孤異厨の何に恐れを抱いているというのか。
男の名は卍。伊賀、甲賀、戸隠といった名だたる忍術の流派に属することを良しとせず、我が道を独り歩いてきた一匹狼の乱波者であった。
忍者とは本来、流派の主従関係は別にして特定の雇い主や主人は持たないものである。金銭的な報酬の多さ少なさはもちろんだが、時世の動き、状況、流れ、損得を徹底的に計算し尽くして動く。
そこには義理も仁義もないのが当たり前であった。己が生き残り、あらゆる手段を使い最終的に自分にとってプラスになるほうに動くのが常。今までに流した血、消した命、裏切った、もしくは裏切られた敵、同胞達の嗚咽、悲鳴、恨みにその事実を嫌というほど刷り込まれてきた、そういう人種だ。
そのような非道がまかり通る世界にて、30数年前に、いわゆる新参者であった卍の名前が急激に広まっていった。理由は簡単である。いままで主流派忍者達の暗黙の了解の中で保たれてきた「協定」により、各派がそれなりにありつけた「仕事」が卍の出現により好ましく行かなくなることが多々起こるようになったからだ。
当初は名を挙げ始めた新参の乱波者に興味を見せこそはすれ、己の存在を保つのに邪魔な輩というのが判明したならば話は別。いや、こいつがやがて自分達にとって脅威となる前に消してしまえと思う者が出てきても何の不思議もないことであった。
実際に主流派の連中達が卍に任務の名の下で尋常でない嫌がらせや圧力をかけたり、あるいは懐柔を試みながら、しかし機会さえあれば、存在そのものを無きものにしようとした事が数えきれないほどあったのはいうまでもない。
しかしそのような意図を持って卍に接近した他の流派の間者達はいつも何事もなかったかのように音信不通となり、二度と仲間達の前に姿を現すことはなかった。秋に散った枯れ葉がいつしか何処かに吹き飛ばされるが如く、消えていったのである。
そしていつしか卍に関わった間者は「帰らずの者」と呼ばれるようになった。忍術の世界に生きる者達の間では「卍にその正体を見破られた者の運命は死あるのみ」という限りなく事実に近い噂が聞こえるようになった。数えきれない忍びの命が人知れず消える。卍が住んでいる里の花が赤いのは、彼が散らした忍びの者の血で染まっているからだという伝説のような話までが一部の忍びの者の間で広まっていった。
卍の存在に怯える故か、「あの成り上がりモノめ」と陰口を叩く輩達が、特に古参の忍の者の中には多くいたのも事実。しかし、それは己の忍びとしての業の未熟さを誤魔化す為の虚言であり、下らぬ嫉妬故に生まれた風評となって他の忍びの者の嘲笑をまといながら流れたものであった。
しかし、忍びの者はそういう評判や流説の裏を読み取ることに敏感である。単なる興味本位だったのかもしれないが、それだけの噂を流せる「何か」を持つ卍の存在に魅力を感じた者達がいても当たり前であったのだろう。
建前だけの肩書よりも損得勘定で実があるほうを選ぶのだ。それが己の身の安全の保障にもなる。強さだけがこの世界で通用する唯一の保険なのだ。忍びとはそういうもの。要するに力があればいいのだ、強ければいいのだ、ずるければいいのだ。卍の忍びの者のとしての在り方はまさにそれであった。
そしていつしか、そういう考えを信条とした輩達はもちろんのこと、他流派を追われた者や抜け忍達が卍の元に集まるようになってきた。
だが卍は徒党を組む事を良しとしなかった。自分の都合で寄ってきた連中や「抜けた」ヤツラは必ず裏切る、それが卍の確信だった。お互いを利用出来る間は上手くやっていけばよい、その代わり裏切りは許さない、死あるのみだというのが彼の信条。
故に他流派の間者だけでなく、卍と仲間になろうと試みた多くの者が彼自身の手によって孤異厨の里に咲く血まみれの赤い花として散っていったのはいうまでもない。
気が付けば卍の元にはお互いの利用価値を超えて集まった者達のみが生き残り、卍を長とした主従関係がいつしか築かれていた。そして共に歩み、生き残った者達が忍びの世界で「孤異厨者」と呼ばれるようになっていた。