《惜別》第三十二回
実のところ、左馬介が娘に想いを寄せたのは、これで二度目である。一度目は、葛西へ旅立つ遙か前、父の同心仲間の娘、お勢に仄かな想いを抱いたのだ。そして今、この店の店娘、お末であった。
「まあ、左様ことで、重ねがさね、お世話をおかけ致し、申し訳ございません」
「なんのなんの…。また何ぞ、お訊ねの儀がございましたらお寄り下さいまし。大したことは出来ませぬが、ここいら辺りのことでしたら、大概のことは知っておる積もりで…」
「はあ、その節は、よしなに。では…」
軽くお辞儀をし、それを機に左馬介は歩き始めた。太兵衛も左馬介に合わせるかのように頭を下げ、見送った。その時、奥の暖簾を上げて、お末が軒まで踊り出し、慌て気味に太兵衛と同じ仕草でピョコリと頭を下げた。左馬介としては、もう一度、止りたい気分であったが、そのまま振り向くことなく威厳を纏って歩き去った。
道場への帰路を急ぐ道すがら、浮かぶ姿はお末だが、それも次第に薄れていく。やがて全てが無と消え失せ、心が漸く平静を取り戻した頃、道場の表門が見え始めた。季節は既に冬の終りになろうとしていた。
そうして、ひと月ばかりが早足で巡り、通り過ぎた。




