603/612
《惜別》第二十七回
「いやあ、なに…。お茶でも差し上げねばと、思いましたもので…」
「ははは…。どうぞ、お気遣いなく」
そうとだけ遠慮を吐く左馬介へ、敷居を早足で上がった与五郎が座布団を勧めた。権十、の破けた座布団とは偉い違いだな…と左馬介は思いながら、腰の刀を手に持つと、座布団へ身を委ねた。
申の下刻、樋口がやってきた。今日の場合は八十文の口だな…と、左馬介は一瞬、思った。
「なんだ、左馬介ではないか…。よく、ここが分かったな」
店奥への暖簾を潜るや、樋口から飛び出した言葉は、まずこのひと言である。
「ええ…、さる筋から訊ねまして、漸くここが…」
「さる筋か…。左馬介も隅には置けぬな。なかなかの人脈とみえる」
そう探って、樋口は笑みを浮かべた。
「なにを…。運よく辿り着けただけの話で」
「まあいい。それで、どういう用件だ? 確か、お前との約束は、先
生に異変があらば…とのことだった筈だが…」
「それは、そうなのですが、一方的にこちらが待っている、というのも如何なものか…と思えまして。それに、暫く音沙汰がありませんでしたから、先生のご様子も気がかりで…」




