《惜別》第十一回
恐らくは堂所で鴨下が焼いている…と、左馬介の脳裡に鴨下が焼いている姿が浮かんだ。左馬介は立ち上がって欠伸を一度、大きくして、小部屋を後にした。腰の差し領は脇差しのみで、部屋を出た。道場内で脇差しを身に身に着けていたり、二本差しで現れた場合は、暗に稽古をしない旨を他の者に知らせる手段として、以前から無言の意思表示の意味で、よく使われている手段であった。
左馬介が想い描いていた通り、堂所へ入ると、厨房から香ばしいいい匂いが漂ってきた。鴨下が握り飯を金網に乗せて焼いている匂いに違いなかった。左馬介は堂所を素通りして厨房を覗いた。すると案の定、鴨下がいた。
「いい匂いがしたんで、顔を出しました」
炭の熾り具合を見ていた鴨下は、左馬介の不意の言葉に驚き、どぎまぎして振り返った。
「あっ! 左馬介さんでしたか。朝から見かけず、長谷川さんが出かけたのかも知れん、と云っておられましたよ」
「三人になってから、出入届の廃止、月当初と十五日の閉門日の廃止と、決めが大きく緩み、随分と出易くなりましたからね」
「ってことは、やはり外出でしたか」
「はい、千鳥屋まで出かけたことは出かけたのですが、先生はお帰りだと云われたもんで…。戻ってはいたのです」




