《残月剣③》第三十二回
暗に辞退する旨を云うと、「若いのだから、遠慮など、するでない」と返される左馬介だった。剣と同じく、容易く返されるのは、全くもって近寄り難いお方だということに他ならない。それに、美味い鰻を、ここ暫く音沙汰がなかったのだ。それも、幻妙斎に返せなかった因の一つではあった。
それから半時後、結局のところ、左馬介は特上の鰻を食していた。何故か、今日の鰻は無性に美味い…と、左馬介には思えた。それもその筈で、あとから分かったことだが、その鰻は鰻政でも滅多と出さない特上の中の特上で、喜平が鰻政に頼み込んだ結果、作られた一品だった。左馬介はそのことを番頭から耳にし、美味かった筈だ…と、合点したのだった。左馬介は、またお寄り致しますので…と告げ、千鳥屋を出た。入口で偶然、山上と鉢合わせしたが、互いに道場の決めに従い、眼と眼の挨拶のみで行き違った。結局は、客人身分の者で話せる者は、樋口静山、ただ一人なのである。樋口が幻妙斎の影番でなければ、決めにより、誰からも幻妙斎の情報は伝わらないだろうし、左馬介の方から伝えることも出来ないのである。その意味で樋口は、唯一の望みの綱であった。
左馬介にとっっては、今日の幻妙斎の言が全てだった。何といっても、樋口からではなく、師から直に賜った言なのだ。




