《残月剣③》第五回
そして、面防具を着け、先程と同じ不動の体勢に入った。よくよく考えれば、この姿勢は妙義山の洞窟に籠る幻妙斎が岩棚に座す姿と酷似している…と、左馬介脳裡に、ふと、そうした雑念が湧いた。それは、ほんの刹那であったが、いかんいかん…と自らを戒め、左馬介は両の眼を閉ざした。その隙に長谷川が面を打擲すれば、即ち一本取られる。無論、真剣ならば、即死と迄は、いかないにしろ、かなりの深手を負う破目になるだろう。邪念は隙を呼び、禁物なのだ。それ故、左馬介は自らを戒めたのである。先生ならば、邪念による隙など、寸分もお見せにならなぬに違いない…とも瞬間、左馬介には思えた。しかし、今迄、積み重ねた成果が、左馬介の技だけでなく、心も確実に向上させていた。自らを戒めた刹那、即座に無となれることが過去の左馬介とは違うのだ。無となれるとは、即ち、心を集中出来るということなのだ。それが即座に可能となったという向上であった。
長谷川は、ふたたび左馬介の周囲を円状に回り始めた。今度は、幾らか気分も軽い。というのも、左馬介が云った、『勝負ではないのですから…』云々の言葉が、あったからである。どこからでも気軽に打ち込めそうな気分に左馬介はなっていた。その気分は、いとも容易く長谷川の腕を動かしていた。




