《残月剣②》第一回
或る意味、野分の暴風雨が、ほんのいっ時にしろ、左馬介を全ての束縛から解放したとも云える。無論、左馬介は剣の道に対して負担に思った訳ではなかったが、野分が来襲する迄は心のどこかに絶えず剣の姿が浮かんでいた。形として残月剣を極めたとはいえ、未だ確固たる不動のものには至っていない。如何なる状況下にあっても、ひとたび剣を抜けば残月剣を相手に対して示せねば無用の長物なのである。だから、絶えず左馬介の意識として脳裡に去来していたのだ。それが今回の野分で完全にふっ切れたのである。
樋口が姿を見せないことが左馬介にとっては朗報であった。幻妙斎に何らかの異変があれば、真っ先に知らせて欲しい、と云ってあるからだ。野分も一段落して、平穏な日々がふたたび道場に流れていた。この日も左馬介は三人による稽古を終えた後、残月剣の形稽古に余念がなかった。鴨下と長谷川は人心地つけに堂所へ行っている。遠くで土塀瓦を挿し替える瓦鳶の篠屋の話し声が聞こえる。微風に流され、時折り途絶える声の内容からすれば、どうも二人は来ているようである。それが、竹刀を握り両眼を閉ざした左馬介の耳に届くのだ。たった数枚とはいえ、瓦が飛ばされた後に吹きつけた雨水で壁土も杉皮も散々に荒れ果て、すぐには、どうも済みそうにないのだ。




